2017年6月13日火曜日

現実感を失った日常 ~極右化が描くパラレルワールド~

 私は元々漫画好きだが最近はなんだか疲れて読む作品が限られてきた。同様の事を漫画だけではなく、小説や音楽、さらには映画などについても感じるようになった。特に漫画は最も力(精神力)を使わずに気楽に楽しめていたし、広く読み親しんできたのに、それすらも疲れると感じるというのでは末期的だ。

 ちなみに私はかなり偏食するタイプで、音楽でも映画でも小説でも人間でも好き嫌いが激しく、ジャンルそのものは広いのだが実際に手に取る作品はかなり限られる。例えば音楽ならばパンクミュージック~テクノ~民族音楽~クラシックとわりとなんでもありなのだけど、実際に手を取るのはかなり限られる。例えばクラシックはサティ大好きでドビッシーやモーツアルトは肌に合わなくて聞かないといったぐあいだ。

 だが偏食家といっても、不思議なものでその時の体(あるいは精神)が必要とするものは本能的にわかるのか、半年まえはホルスト(クラシック曲Jupiter大好き)のような普段聞かない音楽が大好きになる事もある。なので実際は偏食というよりは、無意識的に自分に必要な栄養は解って受け入れているのかもしれない。
 なので好きな作品に出会えるとまだ自分の感性が完全に死んだわけではないのだと少し安心する。最近では映画「この世界の片隅に」、書籍「ヒルビリーエレジー/J・D・ヴァンス 」「学生との対話/小林秀雄」、漫画なら「宝石の国/市川春子」なんかがそうだ。


 少し長い前ふりだったが、ここまで私の偏食家ぶりを述べてきた理由は、偏食は私自身の問題ではなく世の中の方が相応に歪んできた影響ではないかと、ふと思ったからだ。
 もちろん私は自身を偏食家だと自覚している、例えば本屋で立ち並ぶ本の山を見ながら読みたい本がない事にため息をついたり、大量の音楽があるなかで何一つ心がときめかないのはは、だいたいにおいて自身が疲れているせいだと思っていた。鬱とまではいかなくても、人は心が疲れているとそういったものを受け入れたり楽しめないようになる。なので私も働きすぎとかの理由で心に余裕がなくなって娯楽を十分に楽しめなくなっているだけだと長く思っていた。

 だがここ2,3年の漫画やアニメの世界では、偏った同じような設定の作品が並んだり、同時に過剰な暴力や残虐行為をテーマにした作品が明らかに増えたように思う。私は表現規制反対派の人間なのでそういったテーマその物は否定しないが、あまりにも偏った作品が増えた背景としては社会そのものの歪みが背景にあるように思う。例えば、

・アニメの美少女キャラのさらに低年齢化
 なかでも「幼女戦記」というタイトルの作品は驚いた。そんなタイトルは無いだろうと初めてみた時は心のなかでツッコミをいれた。この作品は中身はまったく知らないが(見たら面白のかもしれないけど)、それでも私はわざわざ「幼女」とタイトルに付けるところは違和感を感じる。タイトルそのものではなく、「幼女」というロリタイトルをあえてつけないとヒットしないとか、何の躊躇もない人達の考えが正直言って気持ち悪い。

・新作漫画での残虐化表現の多さ
 日常的によく目にする漫画で残虐テーマを扱ったものがあきらかに増えた。さらには残虐さを競って読者を増やそうとしているような作品が増えたように思う。私はこういった作品も別に否定はしない、だが明らかに増えすぎて世の中どうなったんだと思う事がある。これを実感したのは最近のマンガボックスに連載されている漫画のタイトルだけを見ても、「皆様の玩具」「イジメの時間」「異常者の愛」とか・・・内容は詳しく見てないが拷問や虐待をテーマにする作品が徐々に増えてきた。


 特に残虐な作品が増えた事については、単なる偶然ではない社会の歪みを感じた。それはなぜかと言えば、そもそも「残酷なテーマを扱った作品に人が惹かれる理由」それは日常生活における現実感の欠如が原因だからだと思うからだ。

 今でこそ私は疲れるので残酷描写があるような作品はなるべく見ないようにしている。だがかなり前の若かった時はそういう作品をあえて探し出して見ていた時代があった。例えば有名なカルト映画「エル・トポ」「ソドムの市」「悪魔のいけにえ」や、漫画「少女椿/丸尾末広」などだ。
(実は「エル・トポ」は今でも見れそうな気がするが、他の作品は見る気がおきない)

 当時の私は小説家になりたいと思っていて、その為に人間の極限(リアル)を知ろうとあえてカルト的な作品を探しては目にしていた。だが同時に今になって思えば、生きているという生の実感を得ようと見ていたのではないかという気がする。
 残酷な作品、過激な作品、見ていて思わず気分が悪くなったり恐怖したり痛みを感じるような作品というのは、単なる毒薬にしか思えないかもしれないが、実は生きている実感が持てずに苦しむ人間にとっては必要なスパイスとなる。

 誰でも多少は似たような思いを感じた経験があるのではないだろうか。心が沈んで何もする気が起きない、何を食べても美味しくない、映画や音楽を観ても心が動かずに虚無感に沈んだような気分を。
 そしてその虚無に捕らわれて苦しむ人の一部が自傷やリストカットによる自殺を繰り返す者なのだろう。彼らは虚無という生きている実感を得られずに苦悩し、なんとか生きている事を確かめようと自分の肉体を傷つける。そして痛みや流れる血の鮮やかさを見る事でやっと自分がいるのが現実だと理解する。
 それは痛々しいが彼らにとっては痛みで正気を取り戻して自滅を回避する重要な行為である。でなければ現実感を失ったままでは本当に自分を殺してしまう危険があるからだ

 生きている実感(現実を理解できない)という問題は、人によっては色々な行為になって発現する。傷つける対象が他者になれば「秋葉原通り魔事件(2008年)」のような事件へとつながる。犯人の加藤は周りの世界から拒絶されたという絶望感に対して誰かを傷つける事で抗った。彼が名前も知らない人間を無差別に殺傷したのは、彼の敵は名前を持った特定の個人ではなく、周りにいる世界全てだったからだ。

 あるいはSM(サディズム・マゾヒズム)も方向性は違うが同じ原因から派生したと考えられる。サディズムは隷属する相手を見つけることで自身の尊厳回復(生の実感)を得ようとしおり、マゾヒズムは隷属する物(非人間)と化すことで生の重さから逃げようとする、もしくは役割を与えられる事で回復しようとする試みだと解釈できる。

 自殺する行為、殺す行為、隷属させたり傷つけたりという行為は、別に今に始まったわけではなく人の歴史としては普遍的なものだったのだろう。

 だが私の実感としては日本ではそれが明らかに加速しているような気がする。つまり日常に根差した生の実感を失って虚無に漂う人間が増えているのではないかという懸念だ。現在(2017/6/13時点)国会では共謀罪が採決されるかどうかの瀬戸際にある。これは一つの象徴だ。ここ数年の日本の極右化、ヘイトスピーチや沖縄で行われている人権抑圧、政治の私物化から、ブラック企業による搾取などの各種で増えたネガティブな事案。

 私は長らく極右化する人の考えが理解できなかったが、これらの原因も突き詰めれば生の実感を得られず、虚構と現実とに分かれた人間が辿り着いた一つの結果なのではないかと思えてきた。極右が描く世界感は現実離れしたものだが、例えばSF小説のように2つの平行世界がパラレルワールドとしてあると考えれば想像はできる。

 現実を冷静に見れば、はっきり言って日本は衰退するのみである。だがそれは盛者必衰が世の常なので必ずしも悲観する事では無い。だが、極右が想像で暮らす平行世界はそれをことごとく否定して成り立つ。
・アメリカの傀儡国家ではなく、独立して平和を先導してきたという世界
・バブル期のような経済力や豊かさが続いているかのような世界
・あたかも原発事故が無かったような世界
・技術と誠実さで各国から信頼されている世界
・安全で誰もが豊かに安心して暮らせる世界

 なかでも極め付けが、第二次世界大戦での歴史修正主義で慰安婦は無かった、南京虐殺もなかった・・・という世界だが、もうそろそろ日本は第二次大戦で実は負けていないと言い出す者が出てきそうだ。

 彼らは平行世界の夢にしがみつき、現実を告げて夢を覚まそうとする者をことごとく攻撃してきた。だがいくらしがみ付いても夢は夢でしかない。強引に現実を歪めて夢の続きを見ようとすれば、それは非現実的でグロテスクな悪夢へと変貌してゆくのだろう。

 私は現在(2017/06)の共謀罪が国会を通過するかどうかというのはそのグロテスクな悪夢が現実を塗り替えるかどうかの大きなターニングポイントだと思っている。この壁を超えれば悪夢が日本を覆うのを止められるものは実質無くなるだろう。そしてあたかも太平洋戦争前のような中世まがいの暗い時代の再現となる。

 そうならない事を祈って、ここにとりとめない連想を記載しておく。