2016年9月19日月曜日

「チェルノブイリの祈り/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ」を読んで

<はじめに>

 この本はいつか読もうと数か月放置していたが、手に取って読み始めた途端に引き込まれて結局は一気に読み切ってしまった。これはドキュメンタリーである。だが多くの示唆に富んでいる。おそらく読み手によっては様々な解釈が成り立つだろう。
それは優れた読み物の条件だが、同時に安易なレッテルや噂などによってこの本を手に取るのを躊躇ったり素直に受け入れられない人もいるかもしれない。そんな事があってはとても残念である。なので、あまり前例はないのだけれども、今回は少しだけ私がこの本の読み方について話したいと思う。

 もちろん私はしたり顔でこの本の解説をしたい訳ではない、それに色眼鏡を押し付けたい訳でもない。むしろその逆に自由な形で読んで各人なりに感じて欲しいと願っている。だからお願いしたいのは、この本を読んで何を感じたとしても、その想いを大事にして、じっくりと考えて欲しいという事だ。


<本書の読み方>

 私の場合は最初の数ページ読み進めた時に「ああ、これは物語だ」と直感した。そして以後は物語としてこの本を読み進めた。まるで小説でも読むかのように、違った世界の違った昔話、あるいは神話のように、ただただ読み進めた。

 それはおそらくアレクシエーヴィッチの狙いでもあったのだろう。これはドキュメンタリーでありながら一般的な手法である客観的な時間軸や政治家などのキーマン等々の優先を付けるのではなく、ただひたすらにインタビューに出会った人たちの視点での出来事やドラマを語っている。

 ゆえにそこで語られる物語は不思議な生々しさを持つ。まるで知り合いに話を聞くかのような、身近に同じような人がいるかのような印象を受ける。そしてその痛みに圧倒される。

 本書の最初に語られるのは消防士のエピソードで、チェルノブイリ原発事故に対応した消防士が病院で手の打ちようもなく亡くなる過程の理不尽ともいえる不幸や悲しみである。その痛みは歴史学者が語るような、あるいは科学者や政治家が語るような事故とはまったく別ものである。そこに描かれるのは愛する人を目の前で失ってゆく、人間としては当たり前の痛みそのものである。アレクシエーヴィッチが書いたのは歴史ではなく、物語としての個々の声そのものなのだ。

 私は本書を読んで「我々にとってまず第一に重要なのは、悲しむ人に寄り添う事」では無いかと思った。痛みを想像する、あるいは聴く、寄り添う、それ自体は何かを動かす物ではないのかもしれない。だがそういった想像力が無ければ、永久に同じ問題を繰り返してしまうのではないだろうか。

 だがそれは簡単な事では無いのかもしれない。日本には3.11の記憶がある。だがメディアや政府の対応、あるいはネットの声を見て「どうして、傷ついた人に寄り添ってあげようという簡単な事が言えないのか?」と何度も感じた事がある。その他大勢ではなく、各自にはそれぞれの人生や事情がある、それぞれの悲しみや痛みがあるとどうして語れないのだろうと。

 日本は特に弱者に厳しいと感じる。少し前にあった「貧困JK」が良い例だが、困っている人を支えようとするよりむしろ叩こうとする。あたかも困っている人が存在する事が「恥」そのものであるかのように。

 だからこそかもしれない、日本ではいまだに3.11の記憶うまく受け止められていないと感じる。本書ではこれが初めてと思われるような、生々しい悩みや心情が語られている。そのような言葉はまだ日本では語られていないと思われる。

 今でも悩み苦しむ人がいるはずなのに多くの人が問題を受けれられズに混乱しているように感じる。あたかも問題が無かった事にしようと耳をふさぐ人、傷つき裏切られたと感じて怒る人、あるいは悲しみをどこにぶつけて良いか解らず虚無に捕らわれる人など様々だ。なので本書を読んだ際に描かれる被爆者の描写は大げさで誇張だとか、3.11はチェルノブイリとは違うなどと頭から拒否反応を示す人もいるだろう。

 だが私はこれらの全ての人にこの本を手に取って貰いたいと思っている。ゆえに一つの方法として「物語」としてまず読んで欲しいと思っている。これは異なる世界の出来事を扱った物語である。あるいは我々が住む世界とは枝分かれした可能性の未来(パラレルワールド)であるとして観て欲しい。
 そして最後まで読み終えてから、ここで感じた想いをどう扱うかをゆっくりと考えれば良いと思っている。すぐに答えが出なくてもよい、数年でも数十年かかっても良い。おそらくそれがアレクシエーヴィッチが指示したものなのだろう。



<感想>

 読んでみて思いだしたのは、3.11があった時に感じたあの違和感だった。本書でも度々同じような想いを語る人が登場する。
「事故の起こる前と後では世界(あるいは自分)が変わってしまった」と。

 私も時折同じような事を感じる。日本は3.11の前と後では大きく変わってしまった。それは単に福島原発事故の影響ではなく、「福島原発事故」を受け入れる事ができないでいる事で生じる。そして受け入れられていないゆえに日本ではずっと迷走したチグハグな対応が進められている。

 例えば地震が起こる度に原発は大丈夫かと恐れる癖に原発を止められない事、不安すらもメディアでは語る事が出来ない事。
大丈夫だと言いつつ再稼働を進めながらも責任は曖昧で避難計画などの備えが不足などと切りがない。

 これは多くの人がいまだに現実を受け入れられていない事を示しているのだと思う。むしろ多くの人はいまだに何事もなかった世界を演出しようと躍起になっているように見える。そうして現実に存在する人々の痛みを口を塞いでいる。声を挙げる者を恥だと虐げる。

 だがそうすればするほどに、私たちは現実感を失っていき、幻の中で暮らすようになる。まるで生きたまま死んでいるかのように・・・。(あたかもFF10に登場する死者が支配する世界、ザナルカンドのように)

 そうした幻の中の世界、事故から数十年過ぎた世界が、この「チェルノブイリの祈り」という物語だと私は思う。

 そしてこれらはいつか同様の事が訪れるかもしれない未来の一つでもある。

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