2016年2月1日月曜日

残酷さからの卒業 ~幼児虐待問題より~

 最近いくつかの親による幼児虐待についてのニュースを目にした。私はこれらの記事の詳細については見ていないが、それでも世間の反応はおおよそ予想がつく。おそらく多くの人は「どうしてそのような残酷な事ができるのか?」といった事に疑問を感じる事だろう。

 だがこの記事を見て私の頭に浮かんだのはまったく逆の事だった。それは「人は成長する過程で、どうして残酷な事ができなくなるのだろうか?」という問だった。これはおそらく私の頭の中で何度か繰り返されては忘れる疑問の一つなのだが、今なら少しその理由を説明できそうな気がしてこの記事を書くことにした。


「人は成長する過程で、どうして残酷な事ができなくなるのだろうか?」


 なぜこう考えたのかというと、子供を虐待して楽しんでいるかのような両親というのは、あたかも幼児が無邪気に生き物を傷つけて遊んでいる姿に似ているように思えたからだ。それらは明確な悪意の有無というよりは、子供が小動物をいじめて遊んでいる姿に似ている。
 そしてもう一つの理由は、私も小さな子供のときに虫や小さな生き物を殺していた時代があった事を思いだしたからだ。どうしてあの頃にそんな事をしていたのだろう。だが今の私は到底あのころのように生き物を殺す事はできない。
 ならばその理由を考えれば、この幼児虐待といった残虐さをどうやって人は克服してゆくのかという一つの答えに繋がるのではないかと思えたからだ。


 まず私の事を思い返してみる。私は小学生低学年くらいの時に、よく昆虫や小動物を殺していた。当時の気持ちはわからないが、あまり楽しんでいたというような記憶はない。むしろ何かの実験のように、みんなが禁じるタブーを破る事に熱中するように、そんな感覚だったような気がする。
 もちろん事件のように子供を傷つけるとかは考えた事はなかった。だが仮に野良犬のようなものであれば、当時の子供の私には深い理由が無くても殺せたかもしれないという気がする。その事から想像すると、もしも日常的に子供を虐待するような環境に住んでいて「幼児を虐待するのがタブーではない」暮らしをしていれば、程度の差はあれ幼児虐待という行為をした可能性はあるかもしれないと思う。そうであるならば幼い頃の私はまだ残酷さを十分に理解しておらず、ニュースになった幼児虐待の犯人と近い成長レベルだったと仮定できそうだ。

 ではここからが本題なのだが、今の私はほとんど小動物などが殺せなくなった。あるいは殺したくないと思うようになった。到底子供のころのような真似はできそうにない。ならば、何故に私はあの残酷な真似が出来なくなったのだろうか、それをひとつひとつ考えてみたい。

1)宗教によるもの
 「宗教で殺生はタブーと教えられたからか?」
 どうも少し違う気がする。私は無宗教だし、そもそも人がねつ造したかのような宗教という概念にはずっと長いあいだ不審をいだいている。(この理由を説明すると長くなるので、また別の機会に・・・) これはちょっとピント外れな気がする。

2)学校教育とかによるもの
 これも違う。どちらかというと私はあまりちゃんとした教育は受けてなくて、良くも悪くもかなり放任されて育ったような人間である。

3)グロテスクな嫌悪
 これはもっとシンプルに「血が嫌い」とかグロテスクさに対する嫌悪のようなもので、これは幾らかある気がする。いつからかグロいのは苦手になって、昔は「エルトポ」みたいな映画を見ていたぐらいなのに、今ではわざわざそういうのは見ようと思わない。
 過去には芸術的な観点から残酷な映画や物語もあえて見た時代があった。だが結論としてはそんな残酷さという物の中に別に価値や真実などないと思うようになった。
 これをうまく説明するのは難しいが、ちょっと前に書いた記事「汚れた豹と臆病者の恥」というテーマはそこでもある。

4)命の尊さを知った
 これも無い。私はいまだにこの様な哲学的な境地にはまだ達していないし、条件反射的に反応するようなヒューマニストでもない。


 いくつか一般的なものを挙げてみたがどうもしっくりこない。その時にふと気が付いたのはシンプルな理由である。それは「私の認識する世界が広がった」ということだ。


 少し古い記事で「顔の見える世界/見えない世界」というのを書いてそこには詳しく書いてあるが、要するに「人は相手の顔が解る世界(つまりは自分の世界と認識する範囲)にしか真の同情を感じない」というものである。人間と生き物という点では違うのだが、私の場合はこの説明が一番しっくりくる。

 成長して色んな知識を得るうちに、意味がないと思えた昆虫の存在にも、複雑な生命や歴史があって、そして自然界で重要な役割やバランスを保つのに関わっていて・・・といった事を無意識的におもうようになった。そういった物の後ろに隠れている多くの意味を知る事によって小動物の命を粗末に出来なくなった気がする。
 例えるならば、説明書きの無い封筒ならば踏みつけても気にも留めないが、いかにも重要そうに包装や説明がある封筒ならば思わず踏むのを躊躇するだろう。そんな理由でこれは善悪云々というのとも少し違う。
 知る事でただの道に転がった石ころのようなものではなくなり、その生き物の命の意義(尊さ)というべきものを暗黙のうちに認める事に繋がるのだろう。

 そう言えばどの作品かは忘れたが村上龍の小説で「情報がないと人は残酷になる」というセリフがあった。人は自分の手が届く範囲には優しくできるが、閉ざされている人は外の世界に対してとても残酷になれるのだろう。
 少し考えればこのような例はたくさんある。海外の紛争しかり、難民の流出しかり、貧困を理解しない政治家しかりなど、ほとんどの問題はそこに起点がある・・・。


 どうも自分で書いていてオチが解らなくなった。それに無理にオチをつけるのも面倒になった。なので最後に少しだけ言い残した事を書く。結局のところはまた次のようなテーマに繋がる気がする。そして私はまた考え続ける事になるのだろう。

「もしも複雑な世界を複雑なままに受け入れる事ができたらならば・・・」

<参考リンク>
『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について


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