2015年1月30日金曜日

自己責任論とは何か 〜イスラム国人質事件より〜

 最近はネットで自己責任についての意見を良く見かける。直近で代表的なのはイスラム国の人質となった湯川・後藤氏について「自己責任なので国家が身代金を払う必要なし」という意見だ。結構目に付くのだが、私自身はどうしてもこの自己責任論というのがシックリこない。そこで今回はちょっと全体を整理して、自己責任論とはどういったものなのか、それは妥当なものなのかといった事について考えてみる。
 
<事例)イスラム国の人質殺害予告>
 ここでは話題になったイスラム国の事例を元に、ネットで見かけた主な意見を私なりに整理してみる。この問題はそもそも人質二人の身代金が236億円と大きく、通常払えない額だった事もあり明確に意見が分かれていた。

A)自己責任派の意見(人質を助ける必要なし)
 あらかじめ危険だと解っているイラクに自身の意思で出かけたわけなので、今回の問題はあくまで本人の判断が原因である。よって身代金を日本政府が払う必要はなく、無理な対応を行う必要もないという意見。
<多かったコメント>
 ・自分の意志(自由意思)の結果は個人で取るべき
 ・他人の過失に対して我々が払った税金が無駄に使われるのは問題
 ・捕まったのは若干問題のある人物なので、このような人物を助ける為に払う労力は無用
 (つまり人質の個人批判による意見。批判内容が妥当かどうかは疑問だが・・・幾つか見かけた)
 ・身代金の支払いは後々で類似した犯罪に繋がるので問題。(将来的な経済合理性に見合わない)
<まとめ>
 ・自由意志選択の結果は個人が負うべきで、他人が負担を負うのは間違いである
 ・救済対象者が投資額(今回は236億円)に見合わない、経済的に不合理

B)擁護派の意見(人質を助けるように努力すべき)
 そもそも国民の人名を守るのは国家の義務である。困難はあるかもしれないが、可能な限り助けるように交渉や努力をするべきである。例えば236億円は難しいが、値切り交渉するとか積極的に対応を行うべきという意見。
<多かったコメント>
 ・先進国では人権概念に従って助ける為に行動するのが当然である
 ・問題なのはテロリストで、本人に責任を負わせるのは妥当ではない
 ・救済者によって助ける/助けないの判断をするのは妥当ではない
<まとめ>
 ・人権を尊重し救出行動をするのは政府の役目であり、困難を理由に安易に放棄するべきではない
 ・人命を優先すべき問題なので、経済的な利益有無で判断すべき問題ではない

 こうして並べて見ると、A)自己責任派というのは経済合理性に重きを置いており、B)擁護派というのは人権概念に重きを置いた意見と言えそうだ。ここから推測すると、それぞれが現実に対して抱いているモデルイメージは次のようなものではないかという気がする。

<責任論派の現実モデル>
 イメージとしてはタイタニック号みたいな感じで、巨大な船に参加者全員が乗り合わせており、ピンチがきたら重荷を減らさないといけないので誰かの荷物を捨てたり、さらに大ピンチだと何人かを海へ放り込んだりするような世界。
 つまりは我々が過ごしている世界は有限なので限られたパイの取り合いを各自が全力で行っているし、誰もが努力して必至に生きている。それゆえに傷ついた者や弱い者、あるいは自分に貢献するリソースが無い者は消えてもらうしかないし当然だと考えている。

<擁護派の現実モデル>
 こちらのイメージは船に乗っていると言うより、山奥の村でずっと共同体をいとなんでいるような物だと思う。船に乗っているメンバーというのは偶然に居合わせただけで他人同士だが、山奥の村は何十年〜何百年とつづいていた共同体なので全員がなんらかの身内という世界。
 身内の世界であれば原則としては困った時は相互扶助をする考えの方が強くなるだろう。歴史が長ければ長いほど、誰もが弱い時代/強い時代を経験しているので、結果として誰もが貸し借りして相互扶助で成り立っている。よってピンチには経済合理性を超えてフォローすべきと考えている。

 モデルという視点から考えると、責任論派というのは近代都市型(個人主義)の思考で、擁護派は農耕型の共同体思考となる。
・責任論派>近代都市型個人主義イメージ + 経済合理性を重視
・擁護派 >農耕型の共同体イメージ   + 相互扶助や人権を重視

 まとめてみて自分でも発見があったのだが、こうやって考えると責任論派的な思考というのは近代化して個人主義(個人で生きられる)ようになってからの代物だということだ。
 現在は日常的な電化製品も便利になったし、24時間で買い物できる店やネット通販もあるので、一人暮らしや一人で生きることがわりと普通である。しかし昭和の半ばぐらいまでは、例えば食事するにも、子育てするにも近所でフォローしないと難しいので、そもそも現在のような個人主義的な発想はなかなか生まれなかったのだと思う。
 そして現在ではさらに、グローバル化や国家の株式会社化(直近の経済合理性のみに左右される国家運営)といった風潮にかなり影響されているのだろう。なので企業戦士はわりと普通に責任論を選びそうな気がする。彼らが弱者を切り捨てようと提案する姿は、あたかもリストラを提案しようとするイメージにダブル。

 ここからは私の個人的な意見だが、もしもどちらを選ぶかとなったら「自己責任論」を選ばない。この理由はすぐに話が広がっていって説明が難しいので、ここでは少しだけシンプルに記載する。
(真面目に書こうとすると、今までにブログで書いてきた何本もの記事を振り返る必要があるので・・・)

 それは私は現状の社会(日常的な物も含めて)モデルが限界に来ていると考えているからだ。例えばテクノロジーは確かに進化したが、個人の幸福度は上昇したのか? 未来に希望を持っている人は増えたのか? など、何かを考えるにつけ「あんまり上手くいってない」という気がするからだ。
 そもそも個人で生きられるというのは幻想である。その本質は個人でも国家でも企業でも同じである。自分たちが存在するフィールド(社会的共通資本)に対する敬意を無くしては成り立たない。だが現在はヘタに便利になった為に、あたかも空気のように最初から社会的共通資本が存在したかのように誤解し、それを支えている者達がいる事を忘れがちだ。

 そういった社会的共通資本は単なる経済合理性(市場原理等)だけではうまく維持できない。例えば食料にしたところで、市場原理で買いたたいて合理化した結果、最終的にはちょっとした気象変動があったりすると、もろく崩れて大インパクトを起こすかもしれない。儲からないから農業なんか止めろといってやめさせて、急に必要だからやれと言われたところで、いったん無くなったものを再生するには長い時間がかかり、その間のインパクトに社会は耐えられないかもしれない。そもそも市場原理は常にそういったリスクを含んでいるものだからだ・・・。

 まとめると「自己責任論という発想は、相互扶助や社会的共通資本の重要さなといった概念が抜け落ちた危うい発想である」と私は考え、ゆえにこういった立場をとる事に反対する。付け加えるならば「自己責任」というのは便利な言葉で、たんなる責任逃れや言い訳に多様されて大幅なモラルハザードを引き起こす懸念があることも言えるだろう。
補足:
・「成果主義」という言葉も「自己責任」に似て麻薬のように危険な言葉だ。そもそも正しく個人単位で成果を量る事などできないし、だいたいは労働コストを削る為の難癖をつくるのに利用される。
・自由がないのに自己責任だと言われるのが「ブラック企業」や「名ばかり管理職」である。

<追記:人質が誰であるかという問は意味がない>
 最後に言うのもなんなのだけど、そもそもを考えると今回の人質事件で「人質本人の責任」の有無を問う事自体がナンセンスだと思う。
 自己責任論を言う人は「彼らが人質になった事で今回のような問題が起きた〜」という文脈で話すが、むしろ問題は「日本がイスラム国を挑発した、あるいは戦争に加担した〜」により起きた出来事であり、問題の順番を逆にしているように思う。
 なので仮に今回のように予め捕えられた人質が居なかったとしたら、イスラム国は代わりにべつの人間を人質にとっただろう。ジャーナリストかもしれないしビジネスマンや誰でも良いし、いずれは誰かを捕まえただろう。問題の本質は「人質が誰であったか?」には全くなくて、「日本はイスラム国との戦争に加担するのかどうか?」だけが重要である。

<追記:戦前日本の自己犠牲と自己責任論は同じなのか?> 
 自己責任派の中には「自己責任の発想は日本の美徳である」的な言い方をする人をたまに見かけるが、はたしてこれは日本文化の伝統的な思考方法なのだろうか?
 私的にはこれはちょっと違う気がする。例えば特攻隊だって「戦争に負けそうなのはお前の責任だから・・・」などと言われてやっていた訳ではない。そもそも当時は個々の人間に対して明確に責任分けをするという発想が無いような気がする。それよりはむしろ自分の責任範囲を超えた「奉仕」という概念で行われていたのではないだろうか。
(「奉仕」といいつつ実際はかなり上から押し付けられてきた時代だったとは思うが)

<参考リンク>
ISISもびっくり! 
『七人の侍』の組織論

2015年1月24日土曜日

イスラム国との戦争<日本の戦争行為を支持するべきか> ~人質殺害予告について~

 2015/01/20にイスラム国が発表した日本人の人質殺害予告は、発生後にネット上では色々な憶測や議論をまき起こしている。政府批判、宗教問題、なかにはクソコラ祭りや自己責任論まで色々なものがあった。ただし、以外に重要な議論が抜け落ちているような気がするので、私的見解ながら重要なポイントについてまとめてみる事にした。

1)イスラム国による殺害予告が持つ意味
 まずここからブレている記事や議論を多く見かけるのであえて述べる。そもそも、この殺害予告が示すものはすなわち「日本国に対する宣戦布告」である。この点をぼかしてしまうと後の議論がすべてぶれてしまう。

 彼らは安倍総理が中東訪問した際に宣言した「イスラム国に敵対する各国」に対しての資金提供を、対イスラム国戦争に対する参加であると解釈し、日本に対して宣戦布告を行っている。そして重要なポイントなのは、
彼らはいきなり人質を殺さずに72時間の猶予を与えたという事で、これは日本国が本気でイスラム国と戦争するかの決断を迫る為の猶予時間という意味である。

補足)この猶予時間が発生したあたり、なんだかんだ言いながら「平和憲法の元で海外派兵をしない」という今まで日本が培ってきた平和ブランドの効果みたいな気がする。忘れがちだけど地味にこういった平和ブランドの力は金銭では買えないような価値があると私は思っている。

 ちなみに安倍総理は国内では、資金援助は被災者の人道支援と言っているが、海外でした説明では「対イスラム国戦争をしている国家」に対する無条件な資金援助となっているので、普通に考えると戦争支援と考えられてもおかしくはない。
 なにせ私はこの事件が起こる前日「シャルリー・エブド事件」という「踏み絵」に対する反論」というブログを書いていた際に安倍総理の資金援助に関するニュースを知って驚いたからだ。この微妙な空気の時期に、わざわざ中東へ行って行ったまるで鉄砲玉みたいな強硬な発言は、内心「え~っ、そんな事を今言って大丈夫なの?」と考えた。こんな風に殺害予告が起こる前でも、かなり過激な挑発に見えるプレゼンスをしていたので、宣戦布告ととられても無理はない。


2)日本国としての意思表示
 じつはこの「イスラム国からの宣戦布告」に対して、私は明確に日本国の回答と思えるものを見たことがない。本来ならば、以下のいずれかの態度を日本は示すべきである。

 A)宣戦布告を受け入れる  ⇒イスラム国と戦争する
  鉄砲玉としてさんざん挑発したとおりに、イスラム国との戦争を決意する。
  
 B)宣戦布告を受け入れない ⇒イスラム国と対話する
  もしも安倍総理が国内向けに言うように、もともとが人道支援であるならばB)を選択するべき。
 
 だが日本政府はこのいずれの態度も明確にはしていない。その選択の良し悪しは別として、少なくともこんな大問題なので国内で議論するなどはするべきだと思うが、誰もが面倒な事を避けるつもりなのかだんまりしているように見える。


3)現在の状況が示す意味
 上記1)~2)を踏まえて私が指摘したいのは次の点である。

 安倍総理は国内世論の同意や国会での承認もなしに、勝手に中東外交でイスラム国を挑発し、さらには戦争突入という危機を招いたという事実である。これは安倍総理が自ら海外向けには資金援助やテロに屈しないと言いながら、国内で人道援助という二枚舌を使っていることからも明らかなことで、この問題は総理の独断専行及び外交の失敗である。そして、その結果として現在は多くの人が考えても無かったイスラム国との戦争に放り込まれようとしている。


4)日本はどう選択すべきか?
 私の意見は日本はイスラム国との戦争をするべきではなく、戦争を回避するべきであると考えている。戦争などという重要事項は、たんに先進各国の顔色や機嫌取りで行うべきようなものでは断じてない。そもそも日本国内ではイスラム問題やイスラム国のことをほとんど知らないのに、従来までの平和外交路線を捻じ曲げてまで、意味のよく解ってない戦争に参加するなどは馬鹿げている。

 それにこの戦いはおそらく決着などつかずに、世界全体にテロを拡散するだけに終わる可能性が高い。すでにその兆候が現れつつあるが「西洋 VS イスラム民衆(世界各地の数億人)」との構図が生まれつつある。こんな戦争に終わりなどあるわけがない。

 そして私は日本がイスラム国と戦わない意思表示をすれば、必然的に人質二人を救う道ができると思う。これは中田考氏が提案するように、人道支援であればトルコ経由で非軍事予算として支援を行う、あるいは資金提供そのものを凍結または白紙に戻すなどいくらでも方策はある。



<いったい安倍内閣は何をしているのか?>
 上記に書いたのは私が考えうるポイントのまとめである。では安倍内閣はいったい何を考えて何をしようとしているのかという疑問が生じる。その点について推測で補足しておく。

 残念なことに私は安倍内閣は確信犯で、このような事態になる事を予想したうえであえて中東外交で仕掛けたのだと考えている。そもそも安倍内閣は要約すると「自民党(特に安倍内閣)が与党である事だけを目的とし、その為ならば何でもやる」という理念で動いている内閣だからだ。

 ゆえに、与党であり続けるためならば、人権無視もするし言論弾圧もするし、将来に経済破たんしても良いし、国内でテロが起ころうが気にはしない。その為に既得権益者(現時点での旧体制派)や官僚には大盤振る舞いをし、また主要メディアを飴とムチで懐柔している。

 正直私も安倍内閣が実現するまでは、こんなふうに日本を切り売りするような方法で与党に居座り続けるようなやり方があるとは考えた事がなかった。しかしこのダーティな方法は今のところは成功しているようである。ただし経済だけはいくら市場介入したところで限界があってもうかなりボロが出てきている。だが最終手段としてまだ次の手が残っている。

 残る切り札は「戦争をする」事だ。これは突飛なように思えるが、同様の事が911後のアメリカで起きている。対テロ戦争のおかげて、人気の無いブッシュが二期も大統領でいることができた。だがその時代の付けは大きく、世界にテロを拡散し、経済をかき回し、アメリカでの人権や報道の自由なども多いに毀損した。今となれば笑い話だろうが、当時のアメリカでは政権に対して都合の悪い事件が起きる度に「テロ警報」が発令されてウヤムヤになったという話を私も過去に聞いた事がある。

 私が見たところ、安倍内閣はブッシュと同じことをしようとしているようだ。イスラム国との戦争になれば、これは自衛隊を海外に派兵する口実になる。いくら温厚な国民でも国内でテロが起きれば海外へ派兵するのを拒否するのは難しい。そのうえで戦争となれば戒厳令扱いで、まさに秘密保持法などの出番となるので、内閣に批判的な勢力をいくらでも押さえつける事が出来るし、勢いで憲法改正もできるかもしれない。仮に経済破綻しても、戒厳令的な強権(例えば預金封鎖とか)で強引に整理できるかもしれない。
(要はやりたい放題好きにできるという事だ。どこかのアジアの国みたいにね)

 ゆえに安倍内閣は戦争が願いであり、人質解放には極めて消極的である。はっきり言ってサボタージュと言っても間違いではなく、どうも「解放に向けて努力する」ポーズすら取る気が無いように見える。


<メディアの動き?>
 どうも主要メディは政権と揉めるのを避ける為に、あんまり角が立つ話を避けているようだ。ゆえに戦争する/しないといった本質の話をさけて、画像が合成だのなんなのとか、つかまっている人がなんだのとか、母親の話がどうなのと言った細かい部分をつまみ食いしてエンターテイメントにしてしまっているらしい。
(らしいというのはあまりテレビを見てなくて又聞きだからだ。恐らく見ると不快になるので、今回はあえて見てない)

 なので世間でも緊張感が無い。本来は直ちに号外が出ても良い事件だし、内閣が内輪でごにょごにょして良い話でもない。だが野党の方もメディア同様にエンターテイメント方面に食いついて行動しているように見える。
(どうして彼らは安倍総理の外交失敗をもっと突き上げないのだろう?)

 そういう意味では主要メディアとクソコラ祭りはあんまりレベルは変わらないのかもしれない。上品か下品かを除けば、共にどちらもエンターテイメントに重きを置いている点には変わりない。

 ちなみに今回ネットを見てて興味を持ったのは自己責任論が色んなところで話題になった点である。ツイッターなどを見て改めて色々と考えされられた。ただ日本人の多くが言ってる自己責任論って明らかに異様ではあるが、まだうまく説明できそうにないのでこれは改めて別テーマとして考えたいと思う。
(確かにクソコラや自己責任だと騒ぐ人たちより、むしろテロリストの方が良い人に見えるなんて言うのは異様である)

2015年1月19日月曜日

「シャルリー・エブド事件」という「踏み絵」に対する反論

 2015年1月7日、フランス週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教徒に襲撃され12人が死亡するという事件が起きた。いわゆる風刺画事件である。この件については既に色んな記事が書かれているのだが重要な事件でもあるので、私もこの事件について思った事を書き留めておく事にする。

 まずこの事件に対するツッコミどころだが、これは「イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ」の記事に見事に書かれているのでこういった詳細を省略する。代わりに事件を聞いて第一に思って、どうしてもツッコミたかった次の事を書いておく。

 それはこの事態に対してフランス等のメジャーニュースが、あたかも2択しかない踏み絵を突きつけるかのような問いかけをしている事だ。

<2択の踏み絵:シャルリー・エブドの支持について>
1)シャルリー・エブドを支持する
 言論の自由を支持する
2)支持しない
 テロリストを支持する

 だが私はせめて次の4択にするべきだと思う。

<4択の踏み絵:シャルリー・エブドに対する解釈>
1)シャルリー・エブドの記事を評価する +テロ攻撃を評価しない
 記事は良い内容で、テロはけしからんという選択
 → 一般的な選択で、多分フランス政府や多くの国の支持内容

2)シャルリー・エブドの記事を評価する +テロ攻撃を評価する
 記事は良い内容だが、テロにあうのは当然だという選択。
 → こういった選択は普通ないだろうが、いちおう分岐例として残す

3)シャルリー・エブドの記事を評価しない+テロ攻撃を評価しない
 記事はくだらない内容だが、テロはけしからんという選択
 → ★この選択が欲しい、私はこういう意見です

4)シャルリー・エブドの記事を評価しない+テロ攻撃を評価する
 記事はくだらない内容でかつ、テロでやっつけるのも当然である
 → この選択をする人が本来のテロリストだと思う

 ようするに、テロはあくまでもいけないのだが、シャルリーの風刺画は低レベルで下劣なのでこれを評価したくはないなと思う人も一定数いるわけです。そしてこれを代表として述べてくれたのが現ローマ法王(フランシスコ法王)である。法王は他人の信仰を侮辱するべきではないとし、シャルリーの記事はまるで相手の母親の悪口を言うような低俗な内容だというニュアンスで暴走しそうな世論に釘を刺した。
 さすが現ローマ法王よくぞ言ってくれた。これを読んでまず思ったのは「さすがローマ法王フランシスコ、ロックだね」である。まさに法王は上記3)の選択を支持していたのである。

 だがちょっと現在は危ない風向きで、このままでは中東を中心として世界大戦レベルの大揉めがおきかねない。乱暴な話だが、一部メディアの煽りはイスラム教徒=イスラム国、そこまでいかなくともシャルリーを支持しない連中は全てテロリストだと言い兼ねない勢いになっているからだ。
(そんな理屈ならば全イスラム教徒はテロリストだし、ローマ法王や私もテロリスト扱いになる)

 それと、どうも気になるのは・・・なんだか事件を利用して中東で戦争したい連中がわざと油を注いでいるような感じがすることである。どうしても「911事件」とかぶって見えてしまう。あたかも「中東情勢は不安定で困るからこの際に先進国みんなで潰しちゃおうよ」とでも言っているかのようだ。
 しかし、本当にそんなノリで戦争を始めればこれはえらい事になる。しかしも対立軸が「イスラム教徒VS先進国」となるのが目に見えているので、これは一気に世界中でテロの嵐が吹き荒れる事になるだろう。そうなった場合の規模は911事件などとは比べ物にはならない。本当に世界中を巻き込む大混乱になるだろう。
 なのでローマ法王がクールな発言をしてくれたのは世界に対して冷静になれよという強いアピールであり、これは唯一の救いである。だがこれからどうなるかは要注意である。


<余談1:日本で起こった同様の事件について>
 ちなみにこの事件を見て次に思ったのは「日本の植村元朝日新聞記者の脅迫事件」の事である。。これは現在も進行中の事件だが、簡単に説明すると「元朝日の植村記者」が一部の勢力から慰安婦捏造問題の元凶扱いされており、脅迫行為を受け続けているという話である。しかも悪質なのは植村氏が大学に就職しようとした際に、大学に対して生徒を傷つけるという脅迫まで発生したという点だ。

 まあこの事件は経緯や内容を聞くと、あきらかに事実誤認による濡れ衣であり、とばっちりとしか思えない内容である。だが安倍政権の執拗な朝日叩きと、メディアが真面目に調査して記事を書かない事もあって、いまだに植村氏が一部で敵視され続けているという事態は変わってないようだ。

 そこでフランスのシャルリー事件を見てまず思ったのは、日本の植村記者の強迫事件に対し「これは言論の自由に対する許せない挑戦である」という本気の態度で政府や警察が動いたという話を聞いたことがない。むしろ耳にするニュースや動向ではサボタージュしているように思えるほどである。それに主要メディアもこの問題をあまり大きく取り上げない。フランスと比較すると、まあいつもの事だけども、正直言って情けなくなる。


<余談2:安倍総理の外交補足>
 このブログを書いているあいだに聞いてずっこけたニュースだが、安倍総理がイスラエルに訪問して次のように述べたとしている。
 「このような卑劣なテロは、いかなる理由でも許されず、改めて断固非難したい。イスラエルをはじめとする国際社会と緊密に協力しながら、テロとの闘いに取り組んでいきたい」

 正直驚いたし、今のタイミングでこの発言は間が悪すぎてドン引きする。なぜならば、これはあたかも「日本はイスラエルに味方してイスラム国及びイスラム過激派と戦いますよ」というメッセージに受け取れるからだ。さすがにアメリカですらここまで突っ込んだ発言はしてないのではないか。まるで鉄砲玉(アメリカの?)みたいな無謀な発言だ。

 イスラムの問題は歴史や文化も含めたとてもデリケートな問題である。こんな気軽に口を突っ込んで良い話ではない。誰が安倍総理に言わせたのか分からない、あるいは本人の意思なのだろうか、まったく理解できない行動だ。まるで古いヤクザ映画に出てくる口先だけですぐに死亡フラグを立てるチンピラみたいじゃないか。もうこの人については語りたくないのだが、久々にツッコミをいれずにはいられない行動である。


<参考リンク>

2015年1月10日土曜日

レゴブロック・エイジ ~オリジナルはどこから来たのか~

 「ふだん意識せずに使っている道具や知識、さらにはもろもろの前提事項はどこかレゴブロックみたいな物だ」最近そんな事を考えるようになった。きっかけは最近クラシックの演奏会に時折出かけるようになってからである。


 そもそもの話をすると、どうしてクラシック演奏会に行くようになったかと言えば、たまたま知人が無料の演奏会チケットをくれたのが元である。私は普段からDTMで作曲をしているのもあって、たまには生の音を聞くのも良いかなと思っていた。そして実際に聞いてみると、もともとクラシックについての素養のない私でも以外に楽しめるという事が解った。それからは無料でやっている演奏会(~管弦楽団の演奏会)があれば良く出かけるようになった。
 とは言え、所詮は素人である。なんとか交響曲とかを聞くよりもアナ雪をやってくれた方が盛り上がる程度のレベルなので、正直言ってクラシック演奏のどこに着目して聞いて良いのかがなかなか解らなかった。例えば普通のポップミュージックならば、私はベースが好きなので、無意識的にベースラインとメロディラインに着目して音楽を聴いている。しかし管弦楽団などといえば数十人が演奏しているものなので、音が細かくてとても繊細であり、曲によっても傾向や趣向がまったく違うのでそう単純には決められない。
 そこで何度か演奏会に足を運ぶ度に「はたしてクラシックとは何ぞや?」というような事を考えるようになった。例えばポップスとクラシックとの明確な境界はあるのか、これを満たせばクラシックと言えるのかというようなポイントが果たしてあるのだろうか・・・などと漠然を考えていた。そんなある日ふと「ポップミュージックというのはクラシックに対してレゴブロックのような関係」にあるのだという事が頭に浮かんできた。長ったらしいが、これが今回のテーマである。

 どういう事かと言うと、クラシックというのは言ってみれば何でもありの世界である。そして恐らくは「音楽だけではクラシックの世界観は完成しない」という事に思い当ったからだ。例えば何とか交響曲といった物は「暗黙のうちに聞く人がその交響曲についての物語を知っている事」を前提としていて、その物語の詩やイメージが頭に浮かんでいないと決して十分に理解できないような物だという事だ。

 話は少し変わるが、ちょうど似たような事を私は「短歌」や「詩」について考えた事がある。私は過去、どうしても短歌や詩というのが理解できないでいた。この世界には過去から現在まで有名な詩や詩人というものがあって、たまにはそれを読んでみるのだけど、どうしてもつまらない物としか思えなくて、どこに人々を感動させる力があるのかが理解できなかった。ただ、不思議な事に音楽についた歌詞であれば、これは魅力的な詩だと感じ事ができる。その違いがなかなか理解できずにいた。。
 しかし、ある時にそれは音があるかどうかの違いだという事が理解できた。つまり「短歌」や「詩」というのは、本来は黙読するものではなく、実際に声を出して読む事を前提に作られた芸術だという事に思い当ったからである。歴史を振り返ってみれば、本来短歌というものは歌会(いわばライブ)で演じるものであったし、詩だって朗読会のような場でライブを演じるものであった。だから本の上で字を見るだけではこれらは理解できなくても当然なのだ。例えるならばコンピュータ上のデータ転送みたいなもので、文章は記号(エンコード)であり、それを実際に肉体で声(デコード)にだす事で初めて価値が生じるといったところだ。
(補足:推測だが書籍を読んで詩に感動できる人は、たぶん暗譜するように脳内で音を鳴らしているではないかと思う)

 じゃあ本題に戻って「ポップミュージック=レゴブロック」という意味は、これはポップミュージックがクラシックと比べるとはるかに曲単独で成立する要素が高く、暗黙知や物語を必要としないという意味である。それは強固な前提条件(制約)の上に積まれているからだ。例えばセックスピストルズを聞く前に、わざわざPUNKの歴史やジョンライドン(Vo)の思想や生い立ちを気にする人がいないようなもので普段はそんな事を考えたりはしない。
 なぜならば「ポップ」「ロック」「テクノ」といったようなこれらのジャンルは土台その物が暗黙知(つまりはレゴブロック)であり、明確な境界線がひかれているからだ。もちろん過去の先人たちは、別にこういったレゴブロック的なものを作ろうという意図でジャンルを生み出してきたわけではないのだろう。しかしその成立過程でもろもろの暗黙知を含んだ型となり、後世で聞くものはその土台に乗っかる事で特別な知識を必要としないのである。


 そこまで考えてみると、このレゴブロック化した物というのは別に音楽だけの話題ではなく、現在のありとあらゆる物がレゴブロックで覆われているのだという事に気が付く。例えば日本人であるという文化(空気読む)とか、社会人だとか、さらには科学知識や技術についてもそうだ。我々は普段はどうやって作られたのか、どういう経緯で作られたのかもしれないブラックボックスに囲まれ、あるいは利用して生きている。大抵の現在作られるオリジナルは過去の積み重ねの上に新たなレゴブロックを積み上げる事で作られる。そして玉ねぎの皮を剥くように繰り返される構造は、本当のオリジナルがどこにあるのかを解らなくする。
 これは普遍的な事柄であるが少し懸念する事もある。過去に著名なソフトウェアプログラマーが、現在のプログラマーというのはポップアートだと発言した事があった。つまり現在のプログラマーは過去の蓄積された技術の中身(クラシック)を知らないし、知ろうともしていないという意味である。

 つまり、現在のあたかもレゴブロックに囲まれて育った人間は、パイオニアをリスペクトしないどころか軽視したり、あるいはパイオニアが存在した事も理解していない可能性があるおいう事だ。これは時によっては大きなリスクともなりうる。なぜならば現在のブラックボックスは規模も複雑さも旧世代とは比べ物にならず、どんどん進化し続けているからだ。そして過去を知るものは徐々に去ってゆき、いつしか我々は中身の解らない箱に囲まれて暮すことになる。

 これは大げさに聞こえるかもしれないが、以前に「失敗学/畑村洋太郎著」の中にも、大事故を調査すると、たいていはパイオニアの不在(約20~30年経過して引退した事)を機にするものが多いという研究がある。失敗学ではこの事より「文化としての知恵の継承の必要性」を強く説いているが、まあ大抵の組織はできてない。
(実際に私が仕事上で見てきた組織やシステムでもできてない)

 例えば現在日本の欠陥や問題なども、多くはパイオニアや創始者の引退によるところが大きい気がする。というわけで、切りがなくなるので、ポップミュージックからレゴブロック化した文明についての話をこれで終わります。

2015年1月4日日曜日

未来予測2015 ~不安定化する世界~

 今年で3年目となった未来予測について記載する。長期的な展望(10年単位)とかは、まあそんなに変動がないので、今年のトピックを元に、興味の湧いた事柄を中心に書いてみる。

1)全体的な所感、世界及び日本の動向
 最近毎年書いている気がするが、年々不確定要素が増えて今後の見通しが難しくなってゆく。特に今年は以下のような思いがけないトピックもあって拍車をかけた思いである。

 (1)ロシア・ウクライナ問題
  2014/2/27にクリミア(ウクライナ)で武装勢力が地方政府を占拠してロシア併合~うんぬんという流れからもう1年近く経つ。しかし、いまだに解決策も落とし所も見えていない。このニュースは私も驚いたが、まさに活火山のような紛争地帯が新たに世界地図上に誕生するといった出来事である。
 ロシアのクリミア併合はEU・アメリカとロシアとの衝突をまねく大事件なのだが、誰もがロシアとのガチな揉め事を望んではないので、なんとか穏便におさめようと経済封鎖だのなんだのと続いてきたが、むしろこの1年で傷口は広がった気がする。当初はロシアvsEUだった対立もこのままでは徐々に軍事対立になる懸念がある。
 それどころか、多少込み入ってきて「ロシア+中国」対「EU+アメリカ」という形が出来上がりそうだ。さすがに大国間の露骨な軍事衝突はないとはおもうが、これは経済や政治での激しい闘争を生んで、さらに世界全体的なをややこしくしそうだ。そして少なくとも4、5年は、このハラハラするようなチキンレースは続くのだろうと思われる。

 (2)イスラム国の台頭
 これもすぐに解決しそうにない問題である。アメリカ・EUは対イスラム国をテロリスト扱いで攻撃をし続けるが、おそらくこの結果は世界中にテロを撒き散らすだけの事になると思われる。私見ではこれはむしろ現在の宗教戦争(十字軍2014)みたいな物のような気がする。だが、対立軸はそれほど単純ではなくて、グローバル資本主義vsイスラム遊牧文化との対立であったり、第一次世界大戦で西洋に引かれた国境や傀儡政権などの問題ともからむので、とても一言で総括はできる問題ではない。
 私の読みとしては、さんざん西洋軍で中東でドンパチやったあげくに決着はつかず数年後に、アフガンのように撤退して、その間に世界中にテロが撒き散らされる結果になると思う。個人的にはイスラム国が主権を確立して現在の中東国境線を引きなおす方が、長い目で見れば適切なように思うのだが、そこまで彼らがやれるとも思えず、結局はイラク・シリアの一部をイスラムが国家として統治するというグレー状態が長期にわたって続くと思う。

 (3)エボラ出血熱のアフリカ流行
 このエボラ出血熱問題は単体でも大問題なのだが、これがさらに(2)イスラム国の問題とリンクしそうで怖い。中東問題が今よりも荒れて、テロが全世界にまかれるならば、やはりエボラもテロとして全世界に撒かれる覚悟をする必要があるだろう。
 ちなみに私は2015年中のエボラ出血熱決着は無理だと読む。だから世界のあちこちで(規模は大小ありつつも)この問題とも付き合う必要があるだろう。そしてクドイようだけど、この問題とテロがリンクしないように世界の揉め事を減らすべく政治家は行動して欲しい・・・のだけど、してないね。

 (4)OPEC産出制限による原油安
 これも今年驚いたニュースの一つである。これは単純に原油が安くていいね、といった問題はではなく、ようは中東産油国とアメリカ(シェールガス)との経済戦争である。だが話がややこしくなるのは、このチキンレースによってロシアにプレッシャーをかけるという状況が生まれつつあり、結局OPEC主導の原油安はアメリカが裏で糸を引いているのではないかという疑念もある。
 この問題が怖いのは、結果として現在構築されているスパゲッティみたいに絡み合ったグローバル金融市場を勢いで崩壊させないかという懸が起こる。

 ・・・とまあ、他にも幾つかあげようと思えば出てきそうな気がするが、今年は特に不確定要素が大量に発生した年であった。だから結局のところ何が懸念かというと、ブラックマンデー的な金融/経済崩壊がいつおきてもおかしくない気がすることだ。それにアベノミクスで暴走をつづける日本も、潜在的に世界経済のリスクの一つになりつつある。


2)日本経済の見通しについて
 もともと数年前から2020以降に日本経済は破綻するという意見が以前からポツポツ見かけるようになっている。私も漠然とこのままでそうなるかなと思っていたが、今年1年の状況×安倍政権の暴走からすると下手すれば2020までにクラッシュしかねないのではという気がしてきた。
 もともとアベノミクスというものは壮大なバラマキであるが、私にはこれらが「残った日本のリソースを全て切り売りするバーゲンセール」に思えてしょうがないからだ。(しかも店じまいの大安売り的な・・・)

 安倍政権がやっているのは、日銀を使った株式バブルの維持であり、既得権益者へのバラマキ、官僚を働かせる為に彼らにもバラマキ、なおかつグローバル資本が積極的に日本に介入しやすくする新自由主義的な政策を強烈に押す。結果ととして日本の金融資産や債券に対して外国資本が多く入る事になる。または日本のリソースが海外へどんどん流出する。
 怖いのはこの状況で、不安定要素が膨らんだ世界金融市場がクラッシュすることである。その時に、円暴落に近い状態で何も売るものが無くなった日本で何が起こるのだろうか? 餓死者を数えるような混乱事態へと流れてゆくのだろうが、これは正直言って私ですら憂鬱な想像で考えるのも嫌になる。


3)日本という国家の形
 今年のテーマの一つであったのが、ヘイトスピーチ問題であり、ネトウヨであり、メディアの問題である。正直言ってこの国の知性はもうガタガタだ。政権は国内問題に対処せずに、無責任な右傾化して問題を他国やヘイトにすり替える。そしてメディアは事なかれ主義で、「日本は素晴らしいね」的なヨイショ番組や記事が蔓延し、さらに政権は言論や思想の自由といった高度な文明的なものを葬り去って独裁体制へと傾いてゆく。リア王の中に「狂人が盲人を導く・・・」というくだりがあるようだが、まさにそんな状況なのかもしれない。
 しかもややこしいのが、日本での右傾化は対米従属を強める方向に働いているということだ。どこの世界にみずから進んで奴隷になりたいと望む者がいるのか、進んで檻に戻ろうとする獣がいるのか、この国はもはや滑稽を通り過ぎてグロテスクだ。


<まとめ>
 じゃあどうすればカタストロフィを避けられるのかという事になるのだが、はっきりいって特効薬などは無い。逆にあらゆる思いつく限りの基本の手を尽くして痛みと時間をかけるしかないだろう。糖尿病になってこのままでは命は無いぞとおどされたデブが、命がけであらゆる対策に取り組むようにやれば、あるいは回避できるのかもしれない。

 だが現在の日本はそういった道を選ばず、現実逃避する道を選んでいる。

 ゆえに私の未来予測は「もっと徹底して日本は堕ちるところまで落ちるしかない」となる。そしてそこから「もう一回這い上がる」事を願うしかない。

 だがそれすら最悪ではない。最悪なのは落ちた結果で国家が完全に消滅、日本人や日本文化も消滅するという事態である。昔から「国破れて山河在り」というが、せめて山河は残すようにしてほしい。何も努力せずに山河が残ると考えるのは大甘だと考えて欲しいという事である。

<参考>
未来予測2014 ~安倍政権という方向性~
未来予測2013 ~私的予言録~