2015年11月16日月曜日

汚れた豹と臆病者の恥

 「私は何でも手に入れてきた、だが同時に私は何も手に入れられなかった」

 この言葉は時折私の頭に浮かんでは消える。いつから考えだしたのか、あるいは何処かの書物に書かれていたセリフなのか? まあどちらでも良い。私は時々そのようなジレンマを想像する事がある。
 とある金持ちは言う。此の世に金で手に入れられないものなどないと。だが本当にそうだろうか? 少なくとも私の考えは少し異なる。金だけで全てが手に入れられると誤解する者は、本来の姿が持つ価値を知らぬ者である。この事を忘れないように記しておこうと思う。


 時折私は次のような想像をする。

 ただ一人で深いジャングルを散策する。辺りに充満するのはむせるような土と緑の匂い。皮膚は熱気で濡らされる。薄暗い茂みの中で不意に覆われた枝をぬって差し込む強い光が射す。
 そこは荒々しい野生の世界。よそ者である人間を圧倒する。打ちのめされるような熱気まみれ、思考はやがて意味をなさなくなる。圧倒的に無力である事を知らされ、やがて己を知る。

 だがその足が不意に止まる。森の奥から一匹の豹が現れ、爛々と輝く金色の瞳が暗闇の中からこちらを認めているのに気が付いたからだ。しなやかで艶やかな毛並み、まるで何千年もそうしていたかのような自然に立つ姿は、まるで賢者のような聡明さに満ちている。

 しかしこの身体はその神々しい姿に感銘を受けると同時に震える。説明しなくても理解しているからだ。もしも彼の機嫌を損ねたならばこの身はたやすく引き裂かれるだろう。遥か昔から定められているかのごとく、反論すら許さずに、あの鋭い牙は喉を噛み切りもできる。それらの権限と判断が全てあの美しい姿に委ねられている。息を殺してただひたすらに裁きを待つしかない・・・。


 このように野生のジャングルで出会う豹の姿はどれほど神々しいだろう。また美しく、力ずよい事だろう。人の手では再現しがたい荒々しく繊細なものがそこにはある。これらには本来値段をつける事ができない。
 だが仮に金持ちが大金をはたいてジャングルで豹を捕獲し、自宅の庭にある檻に入れたとする。
彼はそうやってあの美しさを自分の物にできたのだろうか? 
 おそらくは違うだろう。そうやって檻の中に閉じ込めたのはただの汚れた大きな猫でしかない。どれだけ大金をはたこうが、どれだけの数を捕らえようが、あのジャングルで見た神々しい美しさを手に入れる事はできない。

 しかし愚かな者達は、豹の本来の美しさが損なわれた事にすら気づかずに次のように言うかもしれない。「ほら、豹と言ったところでただの大きな猫じゃないか」と。
 彼らは愚かさゆえに世界をくだらないと嘲笑し、そして汚れた靴で聖なる場所を台無しにする。だがいったい今までにどれだけそのような愚か者を見てきた事だろう。

 空想から覚めて私は考える。

 いったいどうすればあの神々しい豹の姿に会えるのだろう。

 どうすれば本来の世界の美しさを理解できるのだろう。

 その方法はすでに解っている。「世界をありのままに向き合って理解する」事だ。

 だが私にはジャングルで豹と対峙する勇気が無い。そのことが自分でもよく解っている。ゆえに私は常に恥じているのである。あの森で出会うはずの幻の豹に。

2015年11月1日日曜日

実は重要な文系の能力「物語を作る力」について

 私自身がソフトウエア開発者(プログラマー、設計者)として度々悩む問題の一つに後輩の教育というテーマがある。思うように伸びない後輩に苦労したり、あるいは逆に他所の教育を見て「いや、そこはも少しちゃんと教育してよ」とか心の中で突っ込んだりなど、このテーマについては思う事が多い。ちなみに、最近はちょうど私の近い席に新人がやってきて、3年目ぐらいのメンバーが教育担当をしているのを眼にするので、とりわけこのテーマについて考えさせられる。

 よって今回は教育というテーマで少し話をしようと思う。だがいまさら教育一般論をしてもつまらないので、少し解りにくい点があるかもしれないが、私自身のIT技術者としての経験によって具体的に考えたり気が付いた点を書こうと思う。



1)そもそもIT技術者にはどんな能力が必要か?
 ずっと昔の情報処理試験(二種、一種、特殊)とか言っていた時代には笑い話があって、情報処理推進機構が求める人材は、コンピュータの専門知識のみならず、冷静な分析力と、顧客に要求を解釈して提案する力、包容力があってユーザの悩みに対応できる云々等・・・といった具合に都合の良い要望がずらずらと並んでいて、「そんなスーパーマンみたな人材ならプログラマーにならないよ」と思わず突っ込んだものだった。ちなみに、この記事を書く際に久々に幾つか見てみたが、さすがに今ではそこまで無茶な事は書いてないようである。

 だがこれは、1つの仕事をうまくするには、実に多くの関連する能力が必要であるという事を分かり易く示した例である。例えば天才プログラマーであっても、独りで全てをするのでなければ、顧客ニーズを理解したり説明したりする能力が必須であるし、規模が大きければ計画立案も必要になる。ただコンピュータに詳しければ良いというものではすまないのである。

 ちなみに駆け出しプログラマーだった頃、私は理想的なソフトウエア開発者の能力次の3つだと考えていた。

<理想的なソフトウエア開発者のスキル>
(1)サイエンティストの冷静な分析力
(2)チェスプレイヤーの戦略性
(3)芸術家のような美的センス

 ちなみに(1)はなんとなく理解されそうな気がするが、(2)と(3)は説明がないとピンとこない気がするので解説する。

 (2)の「戦略性」について、ある一定以上の規模や複雑なものを構築する場合には全体を俯瞰した地図のようなものをイメージする必要がどうしても出てくる。それはソフト自身の構造であったり、実際に人を動かす際の人員計画もそうだ。単に日程と工数だけではなく、チームならばメンタル面についても考慮する必要がある。さらには費用計画があって、良い計画にするにはリカバリプランも考える必要があるだろう。重要なのは細かい手順ではなく、全体を俯瞰的に戦略的イメージとして考える能力である。

 例えば、スケジュールが遅延した場合にどこを優先するか(捨てるか)を考えるかで計画進行は劇的に異なる。実際に未熟なマネージャーは全てを優先しようとして大抵は台無しにするものだ。問題が起きた場合は仕切り直しや、一時撤退をするような思考の切り替えも必要なのだが、大抵は精神論で悲劇的な道のりとなる。デスマーチの始まりだ。

 なお私は、トム・デマルコの名著「デッドライン」に載っていたエピソード(パットン将軍のくだり)の影響で、プロジェクト計画をよく頭の中で軍事シュミレーションに置き換えて考える習慣がついている。そのおかげでデスマーチを見かける度に、旧日本軍の悪夢である「インパール作戦」や「ガダルカナル島攻略」をイメージして憂鬱となる。
(いまだに日本のソフトウエア開発は旧日本軍のレベルを逸脱できてなくてヤバイと思う事も多い)

 ちなみに(3)の美的センスだが、何を美しいと思うかは人によって異なる。だがこのセンス(こだわり)が必要だと私は思う。複雑な構造を作る際に、統一されたテーマや美観やポリシー的な物がないとかなり辛い事になる。ここではあえて美的センスという一括りにしておくが、そういった感覚は私の経験上からは必須である。



2)実際に役に立っている能力とは
 上記1)で書いた事は今となっても基本的には間違ってたとは思っていない。だが実際に仕事しているなかで、あまり意識してなかった能力が実は役に立っているなという事に気が付いた。それは次の2つである。

(a)国語力的な能力(読解力、文書化能力など)
(b)物語を作る能力(仮説を立てる能力)

 他業界の人は意外に思うかもしれないが、システム開発をやっていてあまり数学や理系能力の必要性を感じた事がない。もちろんこれは開発のジャンルによるが、主に関わっていた企業向けのシステム開発では対してその部分で苦労した事はない。
 なぜならば、業務のシステム化を考えた場合、あらかじめ必要な算式や手順はほぼ決まっていて、システム化する際のポイントはいかに正確に効率化するかだからだ。逆に必要なのは国語力的な能力である。

 自分の考えを正確に文章で示す、相手の考えを正確に理解する。正確に考えを伝達する。あるいは多くの文書や思考に目を通したり考えを整理したり体系化したりする。こういった能力のベースは理数系的なものよりも、むしろ国語力的な訓練によるものが多いと思う。

 そして意外なのが(b)で「物語を作る能力」である。これは小説を書いたり例え話を作ったりするような創作能力と置き換えてもいいだろう。最近になって案外これは重要な能力なのだなと思うようになった。

 複雑な議論で終わりが見えなくなった場合に、思考実験として「もしも○○○が□□□だったらこうなります」といった、架空ストーリーを作ったり、たたき台としての原案を作って打ちあわせする場合にこの「物語を作る能力」は必要となる。
 それどころかこの能力は登場する機会は考えれば多くある。例えば提案をする場合には、新システムを提案した場合の世界を物語のようにイメージする必要があるだろう。それに大規模なプロジェクトを運営するには、ドラマのように緩急や重要局面を想像して備える力も必要になる。


 ちなみに私は元々はあまり理数系寄りではなく、どちらかというと文系側の人間で過去には小説を書いて何とかお金を稼げないかとやってた事もある。プログラマーとかシステム設計を仕事にしているというとよく理系というイメージを持たれる事が多いが、別段そういうわけではない。なのでイメージとして必要だと思われている能力と、本当に活用している能力が実は異なっているという例もある。

 あるいは理系や文系という区分けに意味がなく、これらは双方で補完しあうものと考える方が良いのかもしれない。だが最も遠いと思われそうなソフトウェア開発の仕事で実は「小説を書く能力」が最も重要な役割を担っていると考えるのは面白い。
 そう考えればあらゆる知識や学問はすべて切れずにつながってゆくと考える方が妥当なのだろう。それはあたかも『なめらかな社会とその敵/鈴木健』に書かれたようなものかもしれない。


3)新人教育、もしくは今後の教育として
 上記のような話を踏まえて現場で新人教育されている姿を見ると、よく「理系的な能力」よりも基本の「文系的な能力」をちゃんとすべきだと思う事が多い。実際に新人が何言っているのか解らない事やホウレンソウ破綻するようなケースも多く見る。色々と個別の理由はあるのだろうが、まずは基礎としての語学力(日本語力)をもう少し鍛えるべきなのだと思う。

 なので私的には、むしろつぎのような教育の方が効果的だし、やる側もまだ楽しいのではないかと考える。

・流行の自己啓発的な本を読ませるより、古典名作小説を読んで感受性と読解力を高めるとか
(読解力UP、説明の語句が豊富になる等)

・あっても無くても支障ないような定型報告書(日報とか)を書かせるより、こっちが思わず見たくなるような読書(映画鑑賞でもいい)とかの感想文書くとか
(表現力UP、提案力UP等)

 もちろん教育についてはもっと色々と考えるべき点があって、特にソフトウェア開発の場合は「もっと基本のコンピュータ知識」とかをやるべきとか色々あるのだが、それは長くなるのでまた別の機会があれば書くことにする。


<余談>
 実は年配でベテランでも国語力が無い為に、ちょっとした事からユーザーとの関係をこじらせたり、変な作業を作ったりして後から頭の痛い思いをする事がある。なので国語力というのはかなり実践的で重要なテーマだと思う。
 ゆえにちょっと前に安倍政権の大学改革で「文系大学を減らす」的な施策が言われた時には、かなり絶望的な気分になった。彼らこそ教養や能力のなんたるか所以をまったく理解していない。逆説的に言えば、こういう短絡的な提案をする輩がいるからこそ真に今こそ「文系教育は重要」だと言うべきだと思う。

<参考リンク>



2015年10月25日日曜日

自分宛てのメッセージがあるという話

 私は小説も映画も音楽も、そして絵画や漫画も基本的には好きだ。ただし同時に極端な偏食家でもあって、好きだが実際に手に取ってみるのは非常に少ない。例えば漫画もかなり読んできたはずだが最近はあまり読まなくなった。時間が無いわけでもなく、お金を節約したいわけでもなく、むしろ何かを読みたいと思いながら本屋の棚を見まわすがなかなか読む本が見つからない。

 数千冊もあって読みたいの本がないのは自分でも不思議が。中にはベストセラーもあるだろうし、有名な作品や知名度に相応しい傑作もあるだろう。だがどうしてもそれらを手に取る気がしない。そんな時に私はいつも思い出す。

「これだけ沢山の作品があっても、私宛に書かれたものはないのだと」



 映画であったり音楽であったりいずれも同じだが、それらの産み出された作品には作者の想いが込められている。最近ではマーケティング云々がうるさく言われる時代だから、作者はターゲットの性別、年齢、職業、人柄などを明確にイメージしながら作っているかもしれない。そして何を訴えるべきか、どう思って欲しいかを計算して創作しているケースが多いだろう。

 それは別に悪い事ではないのかもしれない。だがそうやって多くの人が求めるように汎用性を高めたメッセージは、言い換えると純度が低くてツマラナイ場合が多い。そして確実につながるように計算して作れば、それはどうしても無難なのものになり、音楽であれば大抵はどっかで聞いたような曲になる運命だ。

 そんな作品がこの世には溢れている気がする。だから数はあっても実際には似たようなコピー作品が大半で手に取るほどの物はあまり無いような気がする。それを無意識に感じ取るから、私は数千冊の中でも読むべきものを見つけられないのだろう。

 もしも今の瞬間ならば、私は今までに見た事のない世界、感じた事のない感覚(感情)を喚起させるような作品に出合いたいと願っている。あるいはトンネルを抜けて地平の広がりを知るような感覚であるとかだ。

 だが書店での「いま売れてます」的な作品はいずれも私を退屈させる。それは、作者が私のような読者を想定していないからなのだろう。言い換えればその作品は「私宛に向けられたメッセージ」ではないという事だ。


 「自分だけに向けられたメッセージがある」という認識を明確に思うようになったのは、内田樹のエッセイを読んでからだ。エッセイの中で内田は、初めて哲学者レヴィナスについて知った時に、その難解な思想は理解できなかったが、レヴィナスが語る内容(メッセージ)は自分に向けらているものに思えて、ずっと研究をするようになったという。これはきっと明確に意識した事はなくても、多くの人が感じた事のある感覚だと思う。

 例えば私は映画館に行くのは面倒でめったには行かない。だが「アクト・オブ・キリング」という映画の存在を知った時に、是非とも行かなければならない気がしてわざわざ映画館へ足を運んだ。ちょっと不思議な感覚かもしれないが「この映画は私のような人間に見せる為に作られたものだ。だから行かなくてはならない」ように思え、むしろ行かないとサボったような気がするぐらいだった。

 時々そのような感情にかられる作品に出会う事がある、すぐに思いつくものを上げると、映画では「ハンナ・アーレント」、小説ならば「ハーモニー/伊藤計劃」、漫画なら「COCOON(コクーン)」、音楽ならば「エリック・サティ」の作品なんかがそうだ。
 これが私が作品を選ぶさいの究極の基準である。なので私は作品を売れたか売れないかなどではまったく評価していない。むしろヒットしている作品は「わざわざ私が見なくてもいいだろう。どう多くの人が見ているし」とすら思う事がある。

 例えるならば、混雑している公園で多くの話し声が聞こえる。だがそれらの話し声は私に向けられたものではなく、気にする事もない。でもそこに「ねえそこの君」みたいに私に向けて話かけられれば声の主を振り返るだろう。そうして初めてメッセージが繋がってコミュニケーションが成立する。だがそうなるには幾つか条件があるはずだ。例えば「日本語である」とか「丁重な言葉」だったり「聞き取りやすい声質」と言ったようなものだ。そういう幾つかの条件がそろって初めて、メッセージの宛先が私だと気づくのである。



 だが最近はなんだか色々な作品がツマラナイと思う事が増えたような気がする。ビジネスライクで定型的な作品が増えたのかもしれない。

 例えば私はボカロオリジナル曲を聞くのが楽しみだったが、それでもいつからか一発ネタ狙いみたいな作品が増えて、本当に作者が作りたい物を作ったと言えるようなものが少なくなった気がする。これはあたかも「作品ではなく消耗品になった」とでもいうべきかもしれない。
 そう言った作品はたとえ最初はめずらしくても、繰り返されると「ああ、いつものお約束かな」ぐらいになって何も感じなくなる。

 作家が臆病になったのかもしれない。再生が伸びない事をおそれて無難な流行のものばかりを目指しすぎるだろうか?

 ならば少しは安心して欲しい。デジタルで保存される世界では、作品はすぐにはヒットしなくてもどこかに残ってアクセスは可能な状態が続く。ならばいつか、どこかで本当にそれを聞くべき人の手に渡る時が来るかもしれない。それこそが本当に届けようとしたメッセージが持ち主に届いた瞬間となる。

 それに中には私のようにへそ曲りで、普通のメッセージはほとんど遮断しているような人間だって多少は此の世にいるのだから。例えば日本で作ってあまり伸びなかったボカロ曲が、なぜか南米で大流行りとかあるかもしれないし、もしくは後世の違った時代で評価されるかもしれないのだから。




2015年10月18日日曜日

『プライベート』というエロティックな言葉

 最近ちらほらとマイナンバーについての話題を耳にする。そんな話題が出る度に、私は密かに
伊藤 計劃「ハーモニー」にあった一節を思いだす。それは概ねつぎのようなものだった。

「プライベートかぁ。なんて卑猥な響きなんだ・・・」

 マイナンバーという問題は、(1)システム的な問題、(2)プライバシーという大きな2つの軸がある。だが、世間での議論を見ていると、そのどちらもあまり十分な議論が熟成されているようには思えない。そこで今回は、大幅に脱線する覚悟で、そもそも「プライベート」とは何なのかという点について書いてみようと思う。


1.プライベート(個人情報/秘密)とは何か
 いきなり「プライベートとは何か?」と問うたところで、恐らく多くの人は一般論的な回答しか思いつかないだろう、私もかつてはそうだった。だが過去に、とあるテーマを考えていて、これはプライベートという概念を整理しないとどうしても説明できない事柄にぶち当たった事があり、それからは色々と考えるようになった。まずそこから話を始めたいと思う。

 過去に「売春を合法化した世界」というテーマで短編小説を書いた事があって、それに関連して「フリーセックス」や「性の商品化」(例えば援助交際等)の性のタブーについて色々と考えた時期があった。

 例えば「売春」という行為をビジネスとして考えれば、これは単に肉体を奉仕したサービスでしかなく、衛生面や安全面などがサポートされれば普通のビジネスとなる。そもそも他の肉体労働との違いが説明できない。土木工事はOKで、性行為はNGとしる理由が説明できない。
 それに、仮にそうなれば闇社会とつながって過酷な労働を強いられるや脅迫などの多くの社会問題を解決できる可能性があり、むしろ社会的にポジィティブな側面すらある。

 だが現実には「あなたは売春合法化に賛成ですか?Y/N」と聞かれて、それに即答できる人は少ないだろう。さらに迷いなく合法化賛成と言える人はもっと希少だろう。何かしらためらうのではないかと思う。

 かくいう私もそうである。理屈では問題が見当たらず、しかも売春を合法化した世界の小説を書いたにもかかわらず、それでも何か引っかかる物を感じてためらってしまう。だがそれがなかなかうまく説明できない。

 仮にセックスから生殖行為という側面を取り除くと、これは単なるスポーツになる。その考えを延長戦上におけば、フリーセックスという世界にたどり着く。別に結婚してようがしまいが関係ない、誰とでもセックスする事のどこが悪いのと言われて反論できなくなる。

 いや、反論はできる。しかし、どうも歯切れが悪い気がして納得がいかない。

「それは風紀が乱れるから・・・」

「家族関係が壊れるから・・・」

「社会慣習にあわないから・・・」・・・etc

 私もこの疑問はずっと悩んで、自分なりにやっと辿り着いた答えが「個人情報/プライベート」というキーワードだった。

 まず健康や衛生等の各種問題が解消された上でオープンセックスの何が悪いかと言えば、それは肉体とは別の精神的な側面としての問題だと考えるしかない。じゃあセックスに対する別の意義とは何かと考えた場合に「我々はセックスを通して秘密の共有をしている」ゆえにそれを壊す事に抵抗を感じると解釈できないだろうかと思いあたった。

 そう考えて初めて多くのモヤモヤした事が少し理解できるような気がした。何故に処女信仰みたいなものがあるのか、どうして彼女の昔の男がきになるのか、ヤリマンに否定的な感情をもつのは何故か等である。
 つまりセックスを通じて秘密を共有して、夫婦はそれゆえに閉じられた秘密結社ように固く結ばれる。恋人と二人だけの秘密を共有する事で絆がつよくなる。

 だがこの考えは別にセックスに留まらない。家族や村や会社やもろもろの組織は、秘密を共有する事で成立する。ならば逆に秘密がなくなれば私たちは、その存在意義や所属を失うのかもしれない。



2。マイナンバーという議論の浅さ
 誰かのTweetで確か次のようなのがあった。

「マイナンバーに反対するのは後ろめたい奴だけだ」

 似たような発言を度々見かける事がある。だが逆に個人情報の重要性を説いた発言はあまりない。それはおそらく「個人情報の重要性を説明する事が、そもそも難しい」からだと思う。私も最初に述べたセックスにまつわる疑問を検討した事がなければピンとこなかっただろう。

 私が私である為の情報は実に漠然としていて取り止めがない。恐らくは失って初めて気が付くようなたぐいなのだろう。だがそれが無くなる事に対しては不安がある。1つ無くなるたびに自身が薄っぺらくなり、いつか透明になって存在そものがなくなってしまうかもしれない。それは個人という識別が無くなった(不要になった)世界である。

 それは人を資源や道具とした観点から見た国家や企業からは都合が良いのかもしれない。だが人間が単なる代替え可能な部品としてしか考慮されない世界は、まさに多くの小説などで語られてきた超管理社会(デストピア)である。

 私もシステム屋なのでシステム的な観点から統一のユニークIDが必要であるという意見には理解を示す。だが個人情報を管理するというのは、もっとはるかにデリケートでなくてはいけない。そもそも紹介したTweetのような後ろめたいとかどうとかという次元の問題ではない。


 なので私は逆にこう言いたい。

「秘密があって何が悪い」とね。

 もっとみんな堂々とマイナンバー制度にたいして警戒や反対をしても良いしすべきだと思う。どうも国会議員の議論を見ていると、マイナンバーなんて学生証の番号程度にしかおもってないようだしね。

 ここはしっかりとやらないと、冒頭に紹介した「ハーモニー」のようなデストピアが世界で最初にこの日本で実現するかもしれない。

2015年10月12日月曜日

音楽と詩の関係

 最近はほぼずっとボカロによる作曲ばかりをやっているが、過去には小説を書こうと四苦八苦していた時期もあった。いまでは文字を書くと言えばこのブログぐらいだが、自作曲の歌詞だけは全て自分で書いている。
 小説も歌詞も簡単に見えて、いざ試してみると産みの苦しみで四苦八苦したり、時にはそもそも詩とは何なのかなどという根本的な事がふと気になる時もある。そこで今回は普段ぼんやりと考えている歌詞と曲についての考察や想いについて改めて書いてみる事にした。


1.音楽は完成品であり、詩は未完成品である
 「詩は未完成品」である。言い換えれば「言葉」は常に未完成品である。そんな風に考えた事がある。それは私の体験による直感だ。

 子供のころに文学少年だった私は、ずっと不思議に思っていた事があった。それは海外の古典文学、あるいは日本でも大正時代の小説で主人公が詩集を読みふけったり、詩について議論したというエピソードが多くあることだ。
 なぜかと言うと、私は「小説」を楽しんで読むことができたが、「詩集」というのは何度読んでも良さが理解できなかったからだ。なので過去の人がどうしてあれほどに詩に熱狂したのかがどうしても理解できないでいた。

 その理由が解ったのは、一時期「ムーンライダース」にはまっていたときだった。ムーンライダース詩集というが発売されて買って読んだのだが、どうしても本だと「ふ~ん」と思うだけで良いと思えない。でも曲として聞くと同じ詩でも心に響いて感銘を受ける。そこで私は「歌詞(曲とセット)は理解できるが、詩だけだと理解できない」という事に気が付いた。そして理由を考えるようになった。

 そこで私がたどり着いたのは次のような答えだった。

「そもそも言葉は未完成なものであり、真に完成するのは実際に言葉を発した時(ライブ)においてである」

 思い起こせば、詩の朗読会というのはライブである。朗読者が登場人物になりきったかのように演じるそれは独り劇といっても良いものであり、まさしくライブである。それに比べて書物の中の詩は肉体を伴わないただの文字でしかない。
 例えば日本の古典である短歌などもそうだ。これはもともと歌会(ライブ)でリアルタイムに答えていた歌そのものである。本来の姿は書物に書かれた文字ではない。

 つまり「文字で書かれた言葉」は植物の種のようなものであって、それだけでは何も示さない。だが土地(聞き手の心の中)で芽を出して初めて意味が生じるのである。これは重要な事を示唆する。それは、同じ言葉であっても聞き手に育つ結果が異なるということだ。痩せた土地では種は目を出さないかもしれないし、あるいは実らないかもしれない。言葉というのは極めて顕著にその差を表す。

 それに比べると音楽はずっと完成品に近い。直接感覚として肉体に伝える要素が大きい、つまりは生々しいものであり、聞き手にダイレクトに情報を伝える。
 なお私は自分の体験でそれを実感した事がある。ずっと昔に自分が作った音楽テープを10年ぐらいして聞いた際、当時の想いが非常に鮮明に生々しく思いおこされて驚いた事だ。それは日記を読み返すようなものではなく、もっとリアルに、昨日あった出来事かのごとく肉体的な情報として思い出されたからだった。


2.歌詞とは何なのか
 1.で述べたように私は歌詞を読んで描く事はできない。これは私が曲先でしか作れない事を意味している。自作曲を作る際にはまず曲を作って、後から詩をつけるのが私の基本であって逆はない。たまに同時があるが、これは詩に初めからメロディがついている状態なので、いわゆる曲先と同じ意味となる。

 でも世の中には、詩先でないと曲が作れない人も多い。こういう人に聞くと、まず具体的な詩がないとそれに乗せるメロディーを考えにくいのだそうだ。これは別にどっちが偉いかとかいう話ではないが、あるいは詩先の方が昔なじみの歌会みたいなライブには向いているのかもしれない。

 テキストとしての詩は種のようなものである。これは私の持論なのだけど、でも世間ではそんな意識やこだわりはあまりないように思う。例えばピアプロの歌詞投稿だ。
 具体的な曲向けに作られたものは別として、「どっかで使ってね」的な単独での詩を多く見かける。目的を持たないそれらは、まだ種にすらなっていないテキストの仮置き場にしか見えない。
 ならば、私はむしろ「詩」そのものとしてもっと完成を目指して欲しいと思う。圧倒的に言葉を再現させるための情報や意志が不足している。もっと自由で手段を選ばなくてもいいのじゃないかとおもう。例えばイラストを添付やリンクするものありだし、あるいは既存の絵や映画をイメージにして表現しようとした世界を説明するのも良いかもしれない。


3.私にとっての歌詞
 ちなみに私にとっての歌詞は音楽をフォローするもので、こだわりはあるけど、そんなに厳密なものでもない。なんせメロディーにうまく乗らないので歌詞を英語にしてしまうぐらいだ。(英語の歌詞はほとんどがその理由による)

 実のところをいうと、私は曲そのものを始めに作れるわけではなくて、漠然としたイメージ(絵あるいは映画のワンシーン)みたいなものが頭に浮かんできて、それを表現しようとする試みが音楽や言葉である。中でも音楽はより直接的、肉体的なので好んでやっている。
 なので本当は始めっから絵をかけばよかったのかもしれないが、そのスキルもなく、何故か回りくどく曲だの物語だのを書いているわけである。

 私の場合、曲は本来表現しようとしていたイメージのBGMであり、歌詞はナレーションなのかもしれない。では絵はどうやって表現しようか? その点は楽曲として聞いた人の心の中でどう育つかに任せる事にしよう。
(まず聴いてもらえる人を探さないとダメなのだけどね・・・)


<余談>
・神経外科医オリバーサックスのエピソード
 記憶喪失になって長い間記憶が戻らなかった人が、母親の調理したクッキーの匂いで記憶が甦ったというエピソードがある。匂いは肉体に直結した記憶そのものであって、幻聴や幻覚はあっても幻嗅といった現象はほぼ無いらしい。

・マクルーハンによる考察
 詩集を理解できなくなったのは、おそらく文化や世の中が変わった影響もあると思う。過去にマクルーハン「グーテンベルグの銀河系」で、文字中心の文化がどのように人を変えたかという例が多くあった。現在風だとTVなどのビデオ中心文化は多くの人の認識を変えたのだろう。詩が音と直結しないのも、その影響ではないかと思う。

2015年10月4日日曜日

労働者と雇用者の理想的な関係 ~非正規問題について語る~

 最近は労働環境と貧困に関する問題や議論をネットで多く見かけるようになった。直近でも「アリさんマークの引越社」の過酷な労働問題や、「派遣法改正」による影響など多くの議論や問題がある。

 これらの問題は大雑把に括ると次のようなに分かれていて、最近はよく自由化すべきかどうかといった議論が行われていた。
A)競争力を高める為に積極的に労働環境を自由化すべき   →自民党などの保守
B)自由化による労働環境の悪化が多いので制約をつけるべき →社会党などのリベラル

 しかし私には、どうしても双方の議論はしっくりこなくてもっと本質的な事を考える必要があるのではないかと疑問を思っていた。いつかはブログに書こうと思っていたテーマだが、ちょうど類似した話が多いので今回は、第3の選択肢(方法論)として私の考えを記載してみる。
(注:いつものごとく乱暴にまとめた話なので間違っていたり誤解あれば指摘願います)


1)非正規問題の本質とは何か
 非正規問題は雇用者、労働者の双方からの視点で考えないと本質が解らない。そこで今回は誤解を恐れず見解を簡単にまとめる。

<雇用者側から見た問題>
・社会変化の速度が早い為に、業務や組織を早いサイクルで見直す必要が発生、ゆえにアウトソーシングする形での外部委託が必須である。
・生産性が極端に悪い労働者がいるが、法律上ではそれを理由に解雇ができない。ゆえに簡単に正社員として雇うのを躊躇する。

<労働者から見た問題>
・同じ労働内容でも非正規は正社員より大幅に賃金が低い。この為に貧困に陥りやすく、余裕がない為に悪い雇用条件でも仕事をひきうけざるを得ない。
・安い賃金での長時間労働となる為に、スキルアップや他の仕事を探すのが難しく、貧困から抜け出せない。
・将来が不安定なので、家を買う(ローン)や結婚といった将来計画が立てられない。

 上記に加えて次のような問題点が全体を俯瞰すると指摘できると思う。

<陥り易い問題>
・賃金を下げる為だけに正社員を解雇して非正規にするケースが増えてきている。
・正社員であるものは自分の権益を守る事に終始し、非正規を過酷に扱う。なので優秀なのに非正規な者や、無能なのに正規の者が存在するような奇妙な状況も起きている。
・結果として人材の活用がうまく回らず、また貧困層の拡大によって国家的な経済へも悪影響を与えている。


2)今までの議論と欺瞞について
 上記1)の問題は立場の違いもありながらも世間一般では概ね認知されている。ただし対策となると、各政党や組織の意見はどうしても欺瞞に満ちたものに思えて私はずっと納得できないでいる。やや乱暴だがまとめると、概ね次のような事を双方は主張していると思う。

A)保守層:企業サイドからの対策
・景気さえ良くなればすべて丸く収まるさ。だから企業利益あげる為には、どんどん非正規を増やしても良い。結果として景気が良くなれば彼らも社員になるか賃金上がるかするだろう。

B)リベラル:労働者サイドからの対策
・そもそも非正規とものが良くない。もっと正社員化するように法制度を厳しくするべきだ。

上記A)は誰が見ても気づくと思うが、まったくのデタラメであり議論に値しない。問題はB)で一見間違ってはないように思えるのだが、最初に1)で上げた現在の労働環境や企業経営における根本問題については解決していない。ゆえに、社会での同意がいまいち得られず問題解決への大きな力とはなっていない。


3)第3の選択肢
 上記1)、2)を踏まえて、私はむしろ次のような選択肢を検討すべきではないのかと考えている。

<対策案>
(1)金銭による雇用者解雇を行えるように法制度を整備する。
(2)非正規は正社員よりも多く賃金を与えないといけないように法制度を整備する。

 解説すると、非正規は雇用調整弁であると昔から否定的に言われる事が多いが、私はそれ自体を悪と考えなくて良いのではないかと思っている。むしろ非正規の賃金が安い事と、人権侵害が起きている事が問題なのだと考えている。

 なのでまずは金銭解雇による明確なルールを整備する。例えば次のようなルールを作るべきだと思う。
<解雇ルール>
・解雇する半年前には必ず告げる必要がある。
・不当解雇を禁止する為に、解雇理由を明確にする。書面にて渡して証跡を残す。
・有給等は全て消化できるように配慮する。他の仕事を探す為の臨時休暇をさらに認める。
・解雇の臨時費用として、半年以上の給与を別途支払う。(勤続年数考慮とかするべきかな)

 次は非正規に対する扱いを規定ルールを整備する事だが、例えば次のようなものが考えられる。
<非正規雇用のルール>
・賃金は社員より多く払う。例えば正社員と同じ仕事をさせるのならば、1.5倍程度の賃金を払うべき。
・責任範囲を正社員より減らす。あるいは休暇を現状より自由にとれるようにする。

 ようは、多大な仕事や責任を持ってもらいたいならば、当たり前だけどもっと金払え、サポートしろという事だ。

 現実にこれらを適用しようとすると、どのあたりが具体的なラインなのか、どうやって企業にルールを守らせるかなど沢山の検討が必要だろう。他国の事例を調査したり、社会実験をすべきかもしれない。

 だが私的には、3)で述べた方が本質的であり、最終的にはこのような考え方をしないと永久に問題を解決できないような気がする。例えば中小会社などは正社員を雇うのは大変だから、解雇規制とかないと中々雇用に踏み切れないケースも多いだろう。

 また、私は昔からの窓際族や流刑みたいな転勤、退職部屋みたいな原始的ないじめに似た物に激しく嫌悪感を感じる。あれは、やられる側も嫌だけど、やらないといけない中間管理職側も相当心を病むと思う。いい加減にそんな野蛮な事は止めさせないといけない。

 もちろん、非正規の単価があがれば、それだけ正社員にするメリットも増えるわけなので、正社員の雇用促進にも役立つと思う。


<余談>
・カネ配る以外に政策を考えられない政府
 ちなみに今の政府のやり方で何が問題かというと、雇用者を増やす為に安易に企業に金を配る制度を作るという点だ。これは雇用だけではないが、最近の政府はなんでも安易に金を配る政策だけを作りすぎる。本来はルール(法制度)を整備して、物事が水が流れるごとくにうまくいくように調整すべきなのだが、そういった思想すら失われたかのようだ。

・無能な正社員に苦労する
 全ての会社が非情に労働者を切っているわけではなく。使えない社員になんとか仕事を与えようと四苦八苦している人も多くいます。私も経験あるし、友人には事務員なのにエクセルが使えない社員に対して、毎日少しずつ時間を割いて涙ぐましい努力で教えようとした人もいます。(結果は芳しくなかったと聞いてますが・・・)

・正社員(サマリーマン)が嫌いな人もいます
 同じ会社に何十年もいると考えるとゾッとする的な、そもそも会社員が嫌いな人も稀にはいます。ちなみ私もそうで、転職を何度も繰り返して最も続いたのがソフトウェア関係の仕事です。理由はどんな長期プロジェクトも数年単位で人が入れ替わって、新たな気分で仕事に入れるからでした。

・非正規が過酷なのは、そもそも正社員も奴隷扱いだから
 会社によって違いますが、正社員でもまさに社畜と呼ばれる扱いをされているのを見かける事も多くあります。よく解らない精神論だの根拠の無い成果主義による締め付けだの。非正規の人権侵害の基礎には、そもそも正社員の人権がないがしろにされているという問題が根本にあると思います。


<参考リンク>
アリさんマークの引越社「追い出し部屋」問題・指名手配犯じゃないぞ「罪状ペーパー」をはずせ!

「派遣法改正案」のいったい何が問題なのか


2015年9月29日火曜日

そもそも「SEALDS」は銀の弾丸ではない

 うまく説明できる自信はないが、ここしばらくTwitter上で感じていた違和感について話そうと思う。それは安保法案採決の17日過ぎぐらいからだが、TwitterでSEALDS批判や、逆にSEALDSこそ希望といった持ち上げ記事を多く見かけるようになった事だ。
 これらの記事は大半は別に悪意で言っているつもりはないものなのだろうが、少し方向性が本来とはずれている気がする。そこで今回はそれらの問題について、ブログに考えをまとめておく事にした。
 なおちょうど良いタイミングで「SEALDsの政治戦略に触れ、思わぬ「炎上」 為末大」という記事(分かり易い事例)もあったので、改めて基本的な事からこの点を整理したいと思う。


1.Twitterコメントの違和感
 まずは起点になった違和感について説明する。これは別に特定の個人に対する話ではないので、私の主観(多少の偏見込み)で強引にサマリーすると次のような意見が一定数あるのだが、私はずっと何か釈然としないものを感じていた。

<サマリ意見>
A)SEALDSによるデモ活動には意味が無かった。彼らの方針は間違っていた
B)SEALDSのみが希望であり、もっと行動範囲を広げるべき
C)SEALDSの戦略は効率的ではない、具体的に政党化を考えて活動すべきだ

 ちなみに私は安保反対派なので上記意見は基本的には、安保反対でSEALDSに対して好意的と思われる人の意見を乱暴にサマリーした結果である。あと付け加えるならばメディアか文化人スタンスか解らないが「SEALDSの幼稚な民主主義が・・」みたいな意見もたまに見かける。
 だがこうやってまとめると顕著なのだが、なんとなく違和感がないだろうか? 何か上から目線というか他人事というか・・・何か少し違う気がする。それについて考えてみた事を次項にまとめてみた。


2.そもそも「SEALDS」は銀の弾丸じゃないんだよという話
 ソフトウェアエンジニアリングの世界では昔から良いことわざがある。それは「銀の弾丸はない」とう言葉だ。(ソフトウェア工学の名著「人月の神話」が有名)
 この言葉の意味は、狼男を一発で倒せる銀の弾丸というような都合の良いものなど、そもそもこの世にないという例えであり。ソフトウェア開発者が目新しいツールや手法に飛びついて失敗を繰り返すのを諫めたものである。

 私はこの言葉が好きで、あらゆる分野で多く見かける普遍的なテーマだと思う。小手先の小細工をいくら組合したところで本質的な問題解決はできないし、時間をかけてじっくりと対処しないといけない問題も多くある。だが、人は安易に安っぽいマルチ商法まがいの提案に乗りがちである。

 だからこそ、まず言いたいのが「SEALDSは銀の弾丸ではない」という事だ。

 「SEALDSは銀の弾丸ではない」これは当たり前の事である。そもそも日本のどうしようもない問題だらけの社会を、一撃で解決できるような手法やマジックなど存在するはずはない。あるという奴がいたらまずインチキだと思って間違いない。

 それにSEALDSの本来の目的は、自発的に考えようそして意見を述べようという運動だと私は解釈している。今回は安保法案という大きなテーマがあったから反安保みたいな取り上げ方をされているが、本来は特定政策や特定政党に反対するための組織ではない。

 彼らを持ち上げる人たちは気付かないうちに、彼らが魔法の手段を使って解決してくれるような都合の良い夢を押し付けている。だからなのだろうが、安保法案を阻止できなかった責任をどうとるのだと言った勝手な意見もたまにみかける。

 そして彼らの行動が甘いとか政党化をすべきだという人達は、SEALDSに勝手な願望を押し付けている。彼らは都合よく扱うための政治勢力ではない。彼らは当たり前の事(権利や意見)を主張しようとしている普通の人達である。私はそれが正しいし、それで良いと思う。


3.ではこれからの日本をどうすれば良いのかという話
 まず私がSEALDSをどう思っているかと言うと、これは日本の近代史に残るべきトピックだと考えている。本当の意味での、リベラルな思考や感性をもった人(それも比較的に普通の人)が一定数現れて話をするようになったのは喜ばしい事だと思う。その存在や理念そのもに意義があると思う。

 しかしSEALDSが今後の安保を阻止できるかというのは別の話であって、それはあくまでも各日本人が明確に意思を持って選ばなければいけない事である。前段でも述べたように、SEALDSは都合の良い救いの神ではないし、また反政府組織でもない。これは SEALDSの責任ではなく、あくまでも各国民の責任である。

 だが正直言うと私はこのままでは来年の選挙でまた与党(自公)に勝てないのではと考えている。それはとても悲惨な事である(さんざん過去のブログに書いたけど)、だがそう考えた上でも、私はSEALDSが本来の姿や理念で活動してくれる事を望む。彼らに安易な選択をして欲しくはない。

 私が悲観的な予測をするのは、3.11以降で顕著に色んな問題が噴出しても、多くの国民はまだ危機感を十分に感じていないと感じるからだ。もしも危機感があったならば、自公の支持者が口々に政党事務所へ押しかけて、いくら与党でも簡単には採決できなかっただろう。だが与党支持者は多少気に食わなくても、いま起きている問題は従来の延長程度にしか考えてはいなかった証明だろう。

 しかしだからと言って、この重要な局面を決めるのはあくまでも各国民である。その点だけは永久に変わりはしない。


<余談1>
 SEALDSに対する私の意見や希望を述べるならば、今回記事に書いたように安易な世論に流されずに基本に忠実にやって欲しいという事である。自分の頭で物を考えて発言するという事は基本でありながら、最もこの国でできてない事であり、そこをクリアできないと次のステージに進む事は永久にできないだろう。
 目先の小手先な手段(例えば特定政党への安易な肩入れなど)を取るならば、おそらくは全て失敗に終わるだろう。

<余談2>
 為末さんについて言えば、ここまで述べたように、私はSEALDSには目先の戦略よりも本来の理念に従った行動をとって欲しいと思う。
 それができていないから現状のようになっているわけであり、仮に来年与党落とせば丸く収まるような簡単な話でもない。政治はここから10~20年ぐらいかけるつもりで見直すべき長期的な問題である。ゆえに近視眼的な戦略を取ることはあまり意味がないと思う。

<余談3>
 例え今は無理だとしても、本当に日本の政治的な問題を解決するならば、小手先ではない大きな政治理念(テーマ、コンセプト)をもって、全政党を分解してガラガラポンするぐらいの事をしないとおそらくダメなのだろう。それができるようになるには、もっと国民そのものの意識や知識もレベルアップしないといけないだろうが・・・どう考えても現在の状態では詰んでいるようにしか見えない。もっと時間が必要なのかな・・・。


<参考リンク>
SEALDsの政治戦略に触れ、思わぬ「炎上」 為末大、「正論なのに...」と擁護の声も

2015年8月2日日曜日

いま起きている取り返しのつかない事について

 私はマイルールとして同じテーマを繰り返す記事はあまり書かないようにと心がけている。それは3.11以降のどうしようも無さを書くのが疲れたという事と、政治批判みたいなネガティブな事を言い続けるは、自分までヘイトスピーチ的な闇に飲まれそうな気がして嫌気がさしたからだ。だが、ここにきて「安全保障関連法案」(集団的自衛権等)についての議論も多くなってきたし、ようやくSEALDsのデモとかもTVにまで報道されるようになってきたので、ちょうど節目にあたる時期に私の考えを整理しておこうと思って久しぶりにブログを書くことにした。

 ちなみに、この「安全保障関連法案」をどう説明するかなのだが、これは意外に難しい。何故ならば政府はこれに対してちゃんと説明しないしする気もないのが見え見えなので、賛成派も反対派も結果的に憶測で語るしかない部分がある。
よって、ここはあえて大胆に(多少乱暴に)、システム屋らしくこの法案の「要件定義書」というべきポイントをリバースエンジニアリングとして再構築してみる。そのうえで法案がいったい何を目的にして何をやろうとしているのかを議論してみたいと思う。


 【安全保障関連法案(集団的自衛権等)のポイント】

<概要>
・自衛隊を通常軍と同じ扱いとし、世界中での戦争行為を行えるようにする。
 ⇒今回の法案

・また戦争行為の実施判断を内閣の一任でできるようにする。
 ⇒今回の法案

補足事項:
 ※ここに至る経緯として次のような事も関連事項として頭に入れておく必要がある。
・また戦争行為に関する情報統制は内閣の一任ですべて管理(非公開)できるようにする。
 ⇒秘密保護法として既に成立。

・なお国民の人権についても、国家の方針を優先して実施できるように制限できるよにする。
 ⇒自民党の改憲案として数年前から進められている議論。


<趣旨:米国が考えていると思われる事>
 米国の海外における軍事力低下を補う為に、自衛隊を海外に派兵して米軍のフォローをする。これによって次のような問題解決を目指している。
・米国の軍事費削減
・米国の死傷者等を削減、政治に対する反戦的な批判を抑える。
・兵器産業による益を見込める。(日本への兵器売却で利益をあげる)
・軍事による世界の影響力低下を抑える。もしくは影響力を強化する。
(ここの解釈は難しいが具体的には、対イスラム・対ロシアかなという気がする。むしろ中国と米国は接近している気がする)


<趣旨:日本が考えていると思われる事>
※米国の目標はとても明確で解り易い(良い悪いは別にして)。それに比べて日本の目標というのは政府がきちんと説明しないし、また妄想的な事ばかりを言っているのでとても分かりにくい。おそらく各政治家や官僚の思いもバラバラだろう。だからここは私が想像する安倍総理考えとして書いてみる。

・米国への軍事支援を行う事により、今までよりいっそう日本の後ろ盾になってもらう。
・アジアにおける影響力低下(中国に押され気味)を、米国の後ろ盾で押し返す
・兵器輸出を可能として、一部企業(三菱重工、川崎重工等)の利権を新たに確保する。

補足事項:
 ※一緒くたに進められている事柄。
・軍事権、軍事にかこつけて秘密や人権抑圧をすることで、政府(内閣)へさらに権力を集中させる。
 これはマスコミ制御なども含めて、半永久的に自民党の一党独裁を維持する為の布石か?


<実現手順>
・日本国憲法の改正
 ⇒ハードル高いので諦める
・日本国憲法の解釈改憲(実質の憲法無視)
・マスコミの懐柔。政府に批判的な意見が表に出にくいようにする
・大企業への優遇措置。政府に対する批判を押さえる為の交換措置
・官僚への優遇措置。政府政策に協力させる見返りとして、官僚優遇措置については目をつぶる
(例:NHKに関する優遇措置や報道制約などは代表的な例だと思われる)

 要約すると、政府政策に反論させないもしくは協力してもらう見返りとして、既得権益階層については見返りとしてバラマキ(大甘な優遇措置)を実施する、またはしてきた。しかもだいたいにおいて上手くいってきた。
 だが、さすがに安全保障は国民の反対意思が大きくてマスコミでも抑えきれなくなった感がある。

補足事項:
 ※関連して実施しているとみるかは難しいが方針的にはリンクしているように思える事
・反政府的な意見を述べる文化や土壌を無くしたいと考えているようで、教育分野への圧力が増している。
 安易な文系廃止論とか、よく解らない教育改革が増えたように思う。(反知性主義的に見えるけど)

さらに解説:
 でも、もっと根本的な話をすると、そもそも上記にあげた政府側の狙いすらもダミーではないかという気がする。何故ならば、日本側の狙いは願望レベルで実現性や実効性に乏しいものばかりである。現状では米国は日本よりも中国を重視する政策に切り替えてきており、対中国の後ろ盾になるとも思えない。それに米国に日本をフォローさせるだけの強制力が何もない。(親分に子分が指示を出せるわけながない)そして、さすがに官僚レベルではそれを解った上でやっているのだと思う。

 この変な状況については、私はどうして「日本は米国の半植民地である」という文脈でしか説明が思いつかない。
 つまりは「米国の要望により、傀儡政権である自民党が憲法手続きを無視して政策を実施」というものだ。

 この政策によって自民党は米国の承認を得て、傀儡政権としての一党独裁を保つ事ができる。そして官僚や既得権益集団も見返りをうけるだろう。だが当然のように一般国民に対するメリットは無い。


<リスク>
 この法案及び法案に関連して生じる未来のリスクだが、正直言ってこれは結構難しい。難しいというのは問題が少ないという意味ではなく、おそらくは長期的に悪い影響を与えるようなものが多く、どう見積もるかが難しいからだ。

直近のデメリット>
・海外派兵の影響で、日本国内で大規模なテロが起こる可能性がでる
・軍事費の増大で経済的に困窮する

将来的なデメリット>
・海外派兵の影響で、日本のイメージダウン。(平和国家としてのブランドに傷がつく)
・イスラム圏との将来的なマーケット喪失
 IS等のイスラム圏の問題は簡単に白黒がつけられるものではない。米国に相乗りした短絡行動は将来的にはイスラム圏の数億というマーケットや多くの物を失う可能性がある。
・憲法無視や人権抑圧などにより、国家の枠組みがくずれる。戦前のようなファシズム体制に戻る可能性が出てくる
 レベル的にはいまの中国ぐらいか、あるいはもっと悪いレベルの国家統治になる可能性がある。
・ファシズム体制的な中で、人権劣化→教育低下→環境悪化・・・的な負の社会サイクルに入る可能性がある。

 私的に一番の問題は憲法無視で、結果的には全てのルールがおかしくなる恐れがある。収集が付かなくなって戦前ぐらいの独裁政権と変わらない乱暴な社会になるかもしれない。それは結果的には国民の抑圧となり、社会の成長阻害ともなるんだろうし、暴走して何か致命的な問題を起こす可能性もある。


 全体をまとめると、メリットは実現薄で、デメリットは長期にわたって悪影響がでると思われる。よって普通に考えれば、賛同することはありえない政策である。

 なのにまだ政権支持が多少でも残っているのは、おそらくはこの問題が他と同様にたいしたことのない問題で、取り返しがつくと思っているからなのだろう。でも主観で言わせてもらうと、これはかなり「取り返しがつかない」ことである。安倍政権はだいたいにおいて、取り返しがつかないような事をだいぶやっているけど、この問題はなかでも大きい。

 なんせ、将来的にも米国の傀儡国家で言いなりになるかどうかを選ぼうとしているし、法治国家か独裁へ移行するかの瀬戸際なのだからだ。

2015年4月4日土曜日

顔の見える世界/見えない世界


「我々は所詮、顔の見える範囲でしかまともに考える事ができない」

 ふとそんな事を思ったのは、ちょっと前に「とあるデスマーチ」の記事を読んだからだった。その記事はどこにでもあるような話で、とある銀行のシステム開発が炎上しており、大量に人が投入されてはまた大量に去ってゆくという話だった。こういった話は一般人からするとピンとこないかもしれないがシステム屋(プログラマーとか設計とか)やっていると別に珍しい話ではない。
(デスマーチとは:終わりが見えないプログラム開発に奴隷のように従事させられている状態のことである)

 かく言う私も過去になんどかデスマーチに巻き込まれたり遭遇したりした事はある。だがこの記事を読んでふと思ったのは、私が今までに遭遇したデスマーチというのは基本的には顔が見える世界のもので、こういった本物の「顔の見えないデスマーチ」はまだ体験した事が無く、もっとキツイのだろうなということだった。

 これらの違いを解りやすく述べると「顔の見えるデスマーチ」とは、みんなが必至に徹夜で働いている状況があった場合に「ああAさん大変だな、放っといたら倒れるかな」とか「Bさん、そろそろ交替するべきじゃないかな」といった感じであって、そこには相手の顔や人格が見えるので、気遣いやフォローなり、申し訳ないと思いながら無理なお願いしたりするといった世界である。
 
 じゃあ逆に「顔の見えないデスマーチ」は何が違うかというと、こちらは次のようなノリである。「納期までに作業が終わらない」→とりあえず50人ほぼプログラマーを投入、「徹夜続きで20人ほど倒れた」→じゃあ10人ほど別の下請けプログラマーを投入だ・・・といった感じで、もう名前ですら管理されず、気遣いの余地もない世界である。きつい言い方をすると、人間扱いすらされてない本当の奴隷作業である。
(最近耳にする中ではアニメーターとかがこれに近い気がするが・・・)

 そして「顔の見える世界/見えない世界」という事を考えていて、不意に浮かんできたのが、次のイメージである。

「そもそも人間というのは、顔の見える世界しかうまく認識できず、適切な行動がとれない者なのではないか?」
 
 例えば「寄付」の問題がある。現在はメディアが発達したおかげて、世界の至る所で災害だの戦争だのが起きている事を私達は知っており、助けを求める人がつきない事もしっている。そして募金や支援活動をしている人が多く居る事もしっている。なのに、大部分の人は寄付などはしない。かく言う私もその一人で、あまりした事がない。

 だがそれは悪気がある訳ではなく「世界のどこかに苦しんでいる人がいて助けなくてはいけない」というような巨大な物語を聞かされても、ただ圧倒されるだけで何もできなくなるからだ。

 世界の苦しみに比べたら普通の一人の人間ができる事などたかが知れているのではないか? 焼け石に目薬を差すようなものではないか? さらには世界至る所にある問題のなかで助ける場所をどうやって選べというのか? そんな事が頭をよぎってしまい、私達は何もできなくなる。

 だが、もしも友達の家が火事になって苦労していたらきっと迷わず手を貸すだろうし、さらに友達が困っている知人を助けていると聞いたら、それが私の知り合いでなくても協力しようと思うかもしれない。

 ようするに、そもそも我々は「顔の見える人」しか助けようとしないし、助ける事はできないという事なのだ。

 そして、私はそれで良いと思う。むしろ、それが人間本来の自然な姿なのではないかという気がする。

 そもそも私達は、もっと「顔の見える人たち」から色んな事を考えたり始めたりするべきではないかということだ。

 例えば「GDPを上げます、株価を上げます・・・」という方策ばかりではなく、同じ町内にいる顔なじみの人たちが、どうすれば暮らしやすくなるか、何に困っているかなどといった顔の見える世界から物事を考えればどうだろうか? そうやって考えれば新たな視点と新たなアイディアが思いつくのではなかろうか。

 あるいは、そういったごく小さな試みを、各自が顔の見える人たちについてフォローしたり考えたりする事がおこれば、それは小さい出来事が次々と連鎖反応を起こすように、結果として大きな出来事につながって世の中を動かすような気がする。

 それならば、遠い世界の話だって異なって見えるかもしれない・・・

 「アラブの難民を支援しますか? YES/NO」と聞かれても答えられないが、もしも友達が知人の難民を助ける為に活動していて、それをちょっと手伝ってくれないかと言われたら、多くの人は快くそれを手伝うだろう。それは最終的に助ける人が知らない人でも、実際に助けるのが友達という顔が見える人だからできる行為なのだ。顔の見える世界をちゃんとしようとすれば、それは結果的にはどんどん広がって多くなるだろう。

 逆に考えると、現在社会というのがいかに顔を見ない世界、むしろ積極的に見ない方へ移行しているかのような気がする。例えば行政や新聞記事を見ると、あたかも他人事のような言葉「保護者」「有権者」「納税者」「学生」などが溢れている。これらの言葉からだけでは、相当に強力な想像力がある人でない限りは誰の顔も思い浮かべる事はできないだろう。そうやって、他人事のような無関心さで世の中は流れ・・・でも、いまは破綻しかかっているような気がする。

 誤解がないように述べておくが、私は別にこの世の全ての事を「ボトムアップ」下から進める方が良いと言いたいわけではない。だがあまりにも現状は「トップダウン」一辺倒であり、しかも現場を知らない愚かな指示ばかり乱れ飛んでいるケースが多すぎるように思う。

 その一因が、安易なキーワード(顔の見えない言葉)で物事を単純かしすぎている事にあるような気がする。そうやって無理やりに単純化して歪められたのが、ネトウヨだったりカルトだったり戦前回帰願望などではないだろうか?

 「複雑な世界を複雑なまま受け入れること」

 これは鈴木健が「なめらかな社会とその敵」という本で繰り返し述べた言葉だが、私は度々この言葉を思い出す事がある。簡略化して、そうしている事すら忘れる事で、私達はお互いの顔を見ないで済ませ、そして結果としてはもう一つな世界に四苦八苦している。
 私は多くの人がそんなに無理をしなくてもいいんじゃないかと思っており、それでどううまくやってゆくかという答えの一つとして「顔の見える世界を少し広げる」「顔の見える人をちょっとフォローする」というを提案したい。

<参考リンク>
『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について

 

2015年2月7日土曜日

イスラム国という現象をどう捕えるべきか 〜それはアラブの大変革なのか?〜

 今からわずか4ヶ月ほど前に「イスラム国というアラブの大変革」という記事を書いたが、あのころは”まだまだ遠い出来事”という雰囲気でイスラム国に関するニュースはあまり無かったように思う。だが直近の人質事件(後藤・湯川氏)により今ではネット上でこの話題を見かけないぐらいになった。だいたいは安倍政権が有志連合に加わってテロ戦争に積極参加する意思を見せている影響だと思うが、メディアは概ね好戦的な意見が多いようだ。

 こういった状況なので私はあれから起こった事件や情報を元に、もう一度イスラム国という現象をどう見るかを考えてみようと思った。ちなみに以前に書いた「イスラム国というアラブの大変革」という記事の内容は、テロや残虐行為を支持しているわけではないが、現在の有志連合とはむしろ逆の視点で「カリフ制を復活させようとするイスラム主義者」は歴史の歪みから起きた必然ではないかという文脈で書かれている。
 果たしてあの視点は正しかったのだろうかを改めて考えてみたい。あの記事は論理的な飛躍があるのを承知の上で「自身の直感」に忠実に書いたものだ。だから飛躍が間違っていた可能性は十二分にある。よって私自身が過去の記事を見直してもう一回、現時点での考えをまとめてみたいと思う。


 ・・・と改めて読み返してみた。感想としては「あれっ、意外にまともな事を書いているじゃないか(笑)」というものである。勢いで書いた所が多いのでデタラメな事を書いているかと思ってたのだが・・。まあ新たにあった事件を元に色々と考えさせられたトピックを元に再検討してみる。

<着目したトピック>
 1)イスラム国による残虐行為がメディアで多く知らされるようになった。
 2)安倍政権が明示的にこの戦争に参加しようとしている
 3)ネット上で交わされる多くの意見について

 まず1)についてだが、正直この点はいまでも判断できない。というのは日本では情報バイアスがかかって実情を知りようがないからだ。もしも私がアラブ語と英語が堪能であったならば、ネット上に広がる色々な意見を見て実情を推測することができるかもしれない。だが語学力が弱い私にはそれはできない。それに既に戦争状態が継続している有志連合からの情報はバイアスが掛かっていると考えざるを得ないので、そもそも判断のしようがない。なので、やっぱりよく解らないとしか言いようがない。

 そして2)と3)なのだが、あれだけ多くの記事やニュースがありながらほとんど無いと言っていいぐらいに「自分自身の意見」らしい物を見かける事が少ない。むしろこっちの方が問題なのではないかと最近は思っている。どういうことかと言うと、政治家、知識人、メディア、ネトウヨも含めたネット民の意見はだいたい以下のいずれかのコピーにしか見えないという意味だ。
 (1)有志連合(アメリカ・ヨーロッパ)の都合で喧伝されている意見
 (2)安倍政権が戦争したいが為に作り出した意見
 (3)マスコミが煽っているゴシップまがいの意見

 はっきり言ってこんなものは意見や考えとは言えない。意見が正解か間違っているかではなく、そもそも自分の頭で考えているとは言えない。なのでこう言いたい「自分の頭で考えない奴がたとえ1億人居ようが居まいが特に意味はない」と。正直言って一部のサクラが煽る為に書いてますと言ってくれた方がよっぽど納得できる。
 ちなみに過去に「意見共有で「集団の知恵」が低下:研究結果」で、自分の頭で考えない人が集まった集団というのは個人よりももっと馬鹿になることを実験で証明したという記事があった。その事を思い出してしまった。


<結論>
 色々と考えたのだが、どうやら私の考えは以前とあまり変わっていないようだ。正確な情報が無い状態での考えなので、極めて直感や感情込みで判断した答えなのではあるが、それでもやっぱり私は世間で多く見かける好戦論は納得できない。
 
 こんな事を言うと笑われるのかもしれないが、私はこのイスラム国の存在というものを考えていると、どうしても「明治維新の長州藩」とイメージがオーバラップしてしょうがない。維新時の日本は諸外国からの屈辱外交で不平等条約に苦しめられつつ、植民地化されて奴隷扱いにされる事を恐れていた。その恐怖と怒りを糧に、最も熱血で暴走しまくりだったのが長州藩である。
 中には町民に対する辻斬り(度胸だめしとか)、あるいは革命の為にと強盗をしたり、ちょっとでも意見が違う者は国賊として暗殺したりとか、現在の常識で言えば無茶苦茶な事もあったそうである。だけども明治維新が成った事により長州藩は官軍になったので、そういった部分を取り立てて非難される事はない。
 なので私にはどうしもて「長州藩」「イスラム国」というのが良いとか悪いとかとは別に、似たような物に見えてしょうがないのである。(これは極めて心情的な意見であるのだが・・・)

 またマクロの視点で見た場合、有志連合がやろうとしている戦争というのは、とどのつまりはヨーロッパ+アメリカがやってきた植民地支配の構図にしか見えない。
 どうか考えて欲しい。イスラム国を叩く為に、軍事クーデターで民主主義を潰したエジプトを支援する、残虐政治を続けていたシリアのアサドを支持する、民間人を多く殺しているイスラエルを支持するといった事をどう考えればよいのだろうか?
 私にはどうしても大義があるとは思えない。結局のところは民主主義や残虐さ云々はどうでも良くて、今まで続いた植民地支配の体制を崩したくないだけにしか見えない。
 
 そしてもう一点、実際問題として考えた場合、この有志連合による戦争が良い結果を産み出すとは私には到底思えない。さっきの話の続きになるが、有志連合がアラブ諸国にやろうとしている踏み絵は次のような究極の選択だと思える。
<アラブ諸国に対する踏み絵>
 1)イスラム国側について有志連合に皆殺しにされる
 2)有志連合に従っておとなしく植民地支配を受ける
  ※汚職や政府側の残虐行為については我慢する事
 こんな選択肢は誰だって選べはしないだろう。ならば、結局のところは戦争は泥沼化するだろう。有志連合は無人爆撃機(ドローン)で関係ない民間人(女や子供)を大勢殺し、その絶望はテロとなって世界中を巡るだろう。なかでも最悪なのは「イスラム教徒 VS 先進諸国」のような対立に軸が移行してしまう事だ。もしもこうなってしまえば、本当に収集がつかなくなって、テロどころが世界中がどうなるか解ったものではない。

 ゆえに、まとめとしては私の意見は次のようになる。

1)日本政府
 有志連合から脱退する。軍事支援はどちらにもしない。やるとすれば立場を問わずない難民支援等の行為として参加するぐらいだろう。もしも積極的に和平を進めたいと考えるならばトルコと組んで対話の機会を諦めずに待つ事だろう。

2)有志連合に対して 
 もういい加減に植民地支配から手を引いたら良いと思う。これ以上に戦乱を起こす事はおそらくメリットはないはずだ。よって対話チャネルを閉じずに、なんとか停戦して秩序を回復する道を探すべきだ。

 要するに「テロリストのレッテル貼りを止め、地道に対話で停戦の道を開け」という事である。これは極めて困難だが、戦争で憎しみの連鎖を半永久的にやるよりは遥かにマシで可能性はあると私は思う。

<余談:安倍政権に対する考察>
 有志連合に入ったこと然り、イスラエルで挑発的な演説をして宣戦布告される事態然り、さらには報復宣言ととれる声明を出すこと然り・・・安倍政権は戦争まっしぐらである。
 だが本当に泣けてくるのが、戦争まっしぐらになる理由がアメリカへ媚を売る為だとしか思えないことだ。もしくは戦争で中東に日本の兵器産業を売り込む事がでかい利権になると踏んでいるのかもしれない。いずれにしても、国益とか国民生命を尊重してない事だけは間違いないように見える。ゆえに私は次の言葉を思い出していた。

 「私たちは侮辱の中に生きている」(永続敗戦論/白井聡より)

<参考リンク>
意見共有で「集団の知恵」が低下:研究結果
イスラム国というアラブの大変革

2015年1月30日金曜日

自己責任論とは何か 〜イスラム国人質事件より〜

 最近はネットで自己責任についての意見を良く見かける。直近で代表的なのはイスラム国の人質となった湯川・後藤氏について「自己責任なので国家が身代金を払う必要なし」という意見だ。結構目に付くのだが、私自身はどうしてもこの自己責任論というのがシックリこない。そこで今回はちょっと全体を整理して、自己責任論とはどういったものなのか、それは妥当なものなのかといった事について考えてみる。
 
<事例)イスラム国の人質殺害予告>
 ここでは話題になったイスラム国の事例を元に、ネットで見かけた主な意見を私なりに整理してみる。この問題はそもそも人質二人の身代金が236億円と大きく、通常払えない額だった事もあり明確に意見が分かれていた。

A)自己責任派の意見(人質を助ける必要なし)
 あらかじめ危険だと解っているイラクに自身の意思で出かけたわけなので、今回の問題はあくまで本人の判断が原因である。よって身代金を日本政府が払う必要はなく、無理な対応を行う必要もないという意見。
<多かったコメント>
 ・自分の意志(自由意思)の結果は個人で取るべき
 ・他人の過失に対して我々が払った税金が無駄に使われるのは問題
 ・捕まったのは若干問題のある人物なので、このような人物を助ける為に払う労力は無用
 (つまり人質の個人批判による意見。批判内容が妥当かどうかは疑問だが・・・幾つか見かけた)
 ・身代金の支払いは後々で類似した犯罪に繋がるので問題。(将来的な経済合理性に見合わない)
<まとめ>
 ・自由意志選択の結果は個人が負うべきで、他人が負担を負うのは間違いである
 ・救済対象者が投資額(今回は236億円)に見合わない、経済的に不合理

B)擁護派の意見(人質を助けるように努力すべき)
 そもそも国民の人名を守るのは国家の義務である。困難はあるかもしれないが、可能な限り助けるように交渉や努力をするべきである。例えば236億円は難しいが、値切り交渉するとか積極的に対応を行うべきという意見。
<多かったコメント>
 ・先進国では人権概念に従って助ける為に行動するのが当然である
 ・問題なのはテロリストで、本人に責任を負わせるのは妥当ではない
 ・救済者によって助ける/助けないの判断をするのは妥当ではない
<まとめ>
 ・人権を尊重し救出行動をするのは政府の役目であり、困難を理由に安易に放棄するべきではない
 ・人命を優先すべき問題なので、経済的な利益有無で判断すべき問題ではない

 こうして並べて見ると、A)自己責任派というのは経済合理性に重きを置いており、B)擁護派というのは人権概念に重きを置いた意見と言えそうだ。ここから推測すると、それぞれが現実に対して抱いているモデルイメージは次のようなものではないかという気がする。

<責任論派の現実モデル>
 イメージとしてはタイタニック号みたいな感じで、巨大な船に参加者全員が乗り合わせており、ピンチがきたら重荷を減らさないといけないので誰かの荷物を捨てたり、さらに大ピンチだと何人かを海へ放り込んだりするような世界。
 つまりは我々が過ごしている世界は有限なので限られたパイの取り合いを各自が全力で行っているし、誰もが努力して必至に生きている。それゆえに傷ついた者や弱い者、あるいは自分に貢献するリソースが無い者は消えてもらうしかないし当然だと考えている。

<擁護派の現実モデル>
 こちらのイメージは船に乗っていると言うより、山奥の村でずっと共同体をいとなんでいるような物だと思う。船に乗っているメンバーというのは偶然に居合わせただけで他人同士だが、山奥の村は何十年〜何百年とつづいていた共同体なので全員がなんらかの身内という世界。
 身内の世界であれば原則としては困った時は相互扶助をする考えの方が強くなるだろう。歴史が長ければ長いほど、誰もが弱い時代/強い時代を経験しているので、結果として誰もが貸し借りして相互扶助で成り立っている。よってピンチには経済合理性を超えてフォローすべきと考えている。

 モデルという視点から考えると、責任論派というのは近代都市型(個人主義)の思考で、擁護派は農耕型の共同体思考となる。
・責任論派>近代都市型個人主義イメージ + 経済合理性を重視
・擁護派 >農耕型の共同体イメージ   + 相互扶助や人権を重視

 まとめてみて自分でも発見があったのだが、こうやって考えると責任論派的な思考というのは近代化して個人主義(個人で生きられる)ようになってからの代物だということだ。
 現在は日常的な電化製品も便利になったし、24時間で買い物できる店やネット通販もあるので、一人暮らしや一人で生きることがわりと普通である。しかし昭和の半ばぐらいまでは、例えば食事するにも、子育てするにも近所でフォローしないと難しいので、そもそも現在のような個人主義的な発想はなかなか生まれなかったのだと思う。
 そして現在ではさらに、グローバル化や国家の株式会社化(直近の経済合理性のみに左右される国家運営)といった風潮にかなり影響されているのだろう。なので企業戦士はわりと普通に責任論を選びそうな気がする。彼らが弱者を切り捨てようと提案する姿は、あたかもリストラを提案しようとするイメージにダブル。

 ここからは私の個人的な意見だが、もしもどちらを選ぶかとなったら「自己責任論」を選ばない。この理由はすぐに話が広がっていって説明が難しいので、ここでは少しだけシンプルに記載する。
(真面目に書こうとすると、今までにブログで書いてきた何本もの記事を振り返る必要があるので・・・)

 それは私は現状の社会(日常的な物も含めて)モデルが限界に来ていると考えているからだ。例えばテクノロジーは確かに進化したが、個人の幸福度は上昇したのか? 未来に希望を持っている人は増えたのか? など、何かを考えるにつけ「あんまり上手くいってない」という気がするからだ。
 そもそも個人で生きられるというのは幻想である。その本質は個人でも国家でも企業でも同じである。自分たちが存在するフィールド(社会的共通資本)に対する敬意を無くしては成り立たない。だが現在はヘタに便利になった為に、あたかも空気のように最初から社会的共通資本が存在したかのように誤解し、それを支えている者達がいる事を忘れがちだ。

 そういった社会的共通資本は単なる経済合理性(市場原理等)だけではうまく維持できない。例えば食料にしたところで、市場原理で買いたたいて合理化した結果、最終的にはちょっとした気象変動があったりすると、もろく崩れて大インパクトを起こすかもしれない。儲からないから農業なんか止めろといってやめさせて、急に必要だからやれと言われたところで、いったん無くなったものを再生するには長い時間がかかり、その間のインパクトに社会は耐えられないかもしれない。そもそも市場原理は常にそういったリスクを含んでいるものだからだ・・・。

 まとめると「自己責任論という発想は、相互扶助や社会的共通資本の重要さなといった概念が抜け落ちた危うい発想である」と私は考え、ゆえにこういった立場をとる事に反対する。付け加えるならば「自己責任」というのは便利な言葉で、たんなる責任逃れや言い訳に多様されて大幅なモラルハザードを引き起こす懸念があることも言えるだろう。
補足:
・「成果主義」という言葉も「自己責任」に似て麻薬のように危険な言葉だ。そもそも正しく個人単位で成果を量る事などできないし、だいたいは労働コストを削る為の難癖をつくるのに利用される。
・自由がないのに自己責任だと言われるのが「ブラック企業」や「名ばかり管理職」である。

<追記:人質が誰であるかという問は意味がない>
 最後に言うのもなんなのだけど、そもそもを考えると今回の人質事件で「人質本人の責任」の有無を問う事自体がナンセンスだと思う。
 自己責任論を言う人は「彼らが人質になった事で今回のような問題が起きた〜」という文脈で話すが、むしろ問題は「日本がイスラム国を挑発した、あるいは戦争に加担した〜」により起きた出来事であり、問題の順番を逆にしているように思う。
 なので仮に今回のように予め捕えられた人質が居なかったとしたら、イスラム国は代わりにべつの人間を人質にとっただろう。ジャーナリストかもしれないしビジネスマンや誰でも良いし、いずれは誰かを捕まえただろう。問題の本質は「人質が誰であったか?」には全くなくて、「日本はイスラム国との戦争に加担するのかどうか?」だけが重要である。

<追記:戦前日本の自己犠牲と自己責任論は同じなのか?> 
 自己責任派の中には「自己責任の発想は日本の美徳である」的な言い方をする人をたまに見かけるが、はたしてこれは日本文化の伝統的な思考方法なのだろうか?
 私的にはこれはちょっと違う気がする。例えば特攻隊だって「戦争に負けそうなのはお前の責任だから・・・」などと言われてやっていた訳ではない。そもそも当時は個々の人間に対して明確に責任分けをするという発想が無いような気がする。それよりはむしろ自分の責任範囲を超えた「奉仕」という概念で行われていたのではないだろうか。
(「奉仕」といいつつ実際はかなり上から押し付けられてきた時代だったとは思うが)

<参考リンク>
ISISもびっくり! 
『七人の侍』の組織論

2015年1月24日土曜日

イスラム国との戦争<日本の戦争行為を支持するべきか> ~人質殺害予告について~

 2015/01/20にイスラム国が発表した日本人の人質殺害予告は、発生後にネット上では色々な憶測や議論をまき起こしている。政府批判、宗教問題、なかにはクソコラ祭りや自己責任論まで色々なものがあった。ただし、以外に重要な議論が抜け落ちているような気がするので、私的見解ながら重要なポイントについてまとめてみる事にした。

1)イスラム国による殺害予告が持つ意味
 まずここからブレている記事や議論を多く見かけるのであえて述べる。そもそも、この殺害予告が示すものはすなわち「日本国に対する宣戦布告」である。この点をぼかしてしまうと後の議論がすべてぶれてしまう。

 彼らは安倍総理が中東訪問した際に宣言した「イスラム国に敵対する各国」に対しての資金提供を、対イスラム国戦争に対する参加であると解釈し、日本に対して宣戦布告を行っている。そして重要なポイントなのは、
彼らはいきなり人質を殺さずに72時間の猶予を与えたという事で、これは日本国が本気でイスラム国と戦争するかの決断を迫る為の猶予時間という意味である。

補足)この猶予時間が発生したあたり、なんだかんだ言いながら「平和憲法の元で海外派兵をしない」という今まで日本が培ってきた平和ブランドの効果みたいな気がする。忘れがちだけど地味にこういった平和ブランドの力は金銭では買えないような価値があると私は思っている。

 ちなみに安倍総理は国内では、資金援助は被災者の人道支援と言っているが、海外でした説明では「対イスラム国戦争をしている国家」に対する無条件な資金援助となっているので、普通に考えると戦争支援と考えられてもおかしくはない。
 なにせ私はこの事件が起こる前日「シャルリー・エブド事件」という「踏み絵」に対する反論」というブログを書いていた際に安倍総理の資金援助に関するニュースを知って驚いたからだ。この微妙な空気の時期に、わざわざ中東へ行って行ったまるで鉄砲玉みたいな強硬な発言は、内心「え~っ、そんな事を今言って大丈夫なの?」と考えた。こんな風に殺害予告が起こる前でも、かなり過激な挑発に見えるプレゼンスをしていたので、宣戦布告ととられても無理はない。


2)日本国としての意思表示
 じつはこの「イスラム国からの宣戦布告」に対して、私は明確に日本国の回答と思えるものを見たことがない。本来ならば、以下のいずれかの態度を日本は示すべきである。

 A)宣戦布告を受け入れる  ⇒イスラム国と戦争する
  鉄砲玉としてさんざん挑発したとおりに、イスラム国との戦争を決意する。
  
 B)宣戦布告を受け入れない ⇒イスラム国と対話する
  もしも安倍総理が国内向けに言うように、もともとが人道支援であるならばB)を選択するべき。
 
 だが日本政府はこのいずれの態度も明確にはしていない。その選択の良し悪しは別として、少なくともこんな大問題なので国内で議論するなどはするべきだと思うが、誰もが面倒な事を避けるつもりなのかだんまりしているように見える。


3)現在の状況が示す意味
 上記1)~2)を踏まえて私が指摘したいのは次の点である。

 安倍総理は国内世論の同意や国会での承認もなしに、勝手に中東外交でイスラム国を挑発し、さらには戦争突入という危機を招いたという事実である。これは安倍総理が自ら海外向けには資金援助やテロに屈しないと言いながら、国内で人道援助という二枚舌を使っていることからも明らかなことで、この問題は総理の独断専行及び外交の失敗である。そして、その結果として現在は多くの人が考えても無かったイスラム国との戦争に放り込まれようとしている。


4)日本はどう選択すべきか?
 私の意見は日本はイスラム国との戦争をするべきではなく、戦争を回避するべきであると考えている。戦争などという重要事項は、たんに先進各国の顔色や機嫌取りで行うべきようなものでは断じてない。そもそも日本国内ではイスラム問題やイスラム国のことをほとんど知らないのに、従来までの平和外交路線を捻じ曲げてまで、意味のよく解ってない戦争に参加するなどは馬鹿げている。

 それにこの戦いはおそらく決着などつかずに、世界全体にテロを拡散するだけに終わる可能性が高い。すでにその兆候が現れつつあるが「西洋 VS イスラム民衆(世界各地の数億人)」との構図が生まれつつある。こんな戦争に終わりなどあるわけがない。

 そして私は日本がイスラム国と戦わない意思表示をすれば、必然的に人質二人を救う道ができると思う。これは中田考氏が提案するように、人道支援であればトルコ経由で非軍事予算として支援を行う、あるいは資金提供そのものを凍結または白紙に戻すなどいくらでも方策はある。



<いったい安倍内閣は何をしているのか?>
 上記に書いたのは私が考えうるポイントのまとめである。では安倍内閣はいったい何を考えて何をしようとしているのかという疑問が生じる。その点について推測で補足しておく。

 残念なことに私は安倍内閣は確信犯で、このような事態になる事を予想したうえであえて中東外交で仕掛けたのだと考えている。そもそも安倍内閣は要約すると「自民党(特に安倍内閣)が与党である事だけを目的とし、その為ならば何でもやる」という理念で動いている内閣だからだ。

 ゆえに、与党であり続けるためならば、人権無視もするし言論弾圧もするし、将来に経済破たんしても良いし、国内でテロが起ころうが気にはしない。その為に既得権益者(現時点での旧体制派)や官僚には大盤振る舞いをし、また主要メディアを飴とムチで懐柔している。

 正直私も安倍内閣が実現するまでは、こんなふうに日本を切り売りするような方法で与党に居座り続けるようなやり方があるとは考えた事がなかった。しかしこのダーティな方法は今のところは成功しているようである。ただし経済だけはいくら市場介入したところで限界があってもうかなりボロが出てきている。だが最終手段としてまだ次の手が残っている。

 残る切り札は「戦争をする」事だ。これは突飛なように思えるが、同様の事が911後のアメリカで起きている。対テロ戦争のおかげて、人気の無いブッシュが二期も大統領でいることができた。だがその時代の付けは大きく、世界にテロを拡散し、経済をかき回し、アメリカでの人権や報道の自由なども多いに毀損した。今となれば笑い話だろうが、当時のアメリカでは政権に対して都合の悪い事件が起きる度に「テロ警報」が発令されてウヤムヤになったという話を私も過去に聞いた事がある。

 私が見たところ、安倍内閣はブッシュと同じことをしようとしているようだ。イスラム国との戦争になれば、これは自衛隊を海外に派兵する口実になる。いくら温厚な国民でも国内でテロが起きれば海外へ派兵するのを拒否するのは難しい。そのうえで戦争となれば戒厳令扱いで、まさに秘密保持法などの出番となるので、内閣に批判的な勢力をいくらでも押さえつける事が出来るし、勢いで憲法改正もできるかもしれない。仮に経済破綻しても、戒厳令的な強権(例えば預金封鎖とか)で強引に整理できるかもしれない。
(要はやりたい放題好きにできるという事だ。どこかのアジアの国みたいにね)

 ゆえに安倍内閣は戦争が願いであり、人質解放には極めて消極的である。はっきり言ってサボタージュと言っても間違いではなく、どうも「解放に向けて努力する」ポーズすら取る気が無いように見える。


<メディアの動き?>
 どうも主要メディは政権と揉めるのを避ける為に、あんまり角が立つ話を避けているようだ。ゆえに戦争する/しないといった本質の話をさけて、画像が合成だのなんなのとか、つかまっている人がなんだのとか、母親の話がどうなのと言った細かい部分をつまみ食いしてエンターテイメントにしてしまっているらしい。
(らしいというのはあまりテレビを見てなくて又聞きだからだ。恐らく見ると不快になるので、今回はあえて見てない)

 なので世間でも緊張感が無い。本来は直ちに号外が出ても良い事件だし、内閣が内輪でごにょごにょして良い話でもない。だが野党の方もメディア同様にエンターテイメント方面に食いついて行動しているように見える。
(どうして彼らは安倍総理の外交失敗をもっと突き上げないのだろう?)

 そういう意味では主要メディアとクソコラ祭りはあんまりレベルは変わらないのかもしれない。上品か下品かを除けば、共にどちらもエンターテイメントに重きを置いている点には変わりない。

 ちなみに今回ネットを見てて興味を持ったのは自己責任論が色んなところで話題になった点である。ツイッターなどを見て改めて色々と考えされられた。ただ日本人の多くが言ってる自己責任論って明らかに異様ではあるが、まだうまく説明できそうにないのでこれは改めて別テーマとして考えたいと思う。
(確かにクソコラや自己責任だと騒ぐ人たちより、むしろテロリストの方が良い人に見えるなんて言うのは異様である)

2015年1月19日月曜日

「シャルリー・エブド事件」という「踏み絵」に対する反論

 2015年1月7日、フランス週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教徒に襲撃され12人が死亡するという事件が起きた。いわゆる風刺画事件である。この件については既に色んな記事が書かれているのだが重要な事件でもあるので、私もこの事件について思った事を書き留めておく事にする。

 まずこの事件に対するツッコミどころだが、これは「イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ」の記事に見事に書かれているのでこういった詳細を省略する。代わりに事件を聞いて第一に思って、どうしてもツッコミたかった次の事を書いておく。

 それはこの事態に対してフランス等のメジャーニュースが、あたかも2択しかない踏み絵を突きつけるかのような問いかけをしている事だ。

<2択の踏み絵:シャルリー・エブドの支持について>
1)シャルリー・エブドを支持する
 言論の自由を支持する
2)支持しない
 テロリストを支持する

 だが私はせめて次の4択にするべきだと思う。

<4択の踏み絵:シャルリー・エブドに対する解釈>
1)シャルリー・エブドの記事を評価する +テロ攻撃を評価しない
 記事は良い内容で、テロはけしからんという選択
 → 一般的な選択で、多分フランス政府や多くの国の支持内容

2)シャルリー・エブドの記事を評価する +テロ攻撃を評価する
 記事は良い内容だが、テロにあうのは当然だという選択。
 → こういった選択は普通ないだろうが、いちおう分岐例として残す

3)シャルリー・エブドの記事を評価しない+テロ攻撃を評価しない
 記事はくだらない内容だが、テロはけしからんという選択
 → ★この選択が欲しい、私はこういう意見です

4)シャルリー・エブドの記事を評価しない+テロ攻撃を評価する
 記事はくだらない内容でかつ、テロでやっつけるのも当然である
 → この選択をする人が本来のテロリストだと思う

 ようするに、テロはあくまでもいけないのだが、シャルリーの風刺画は低レベルで下劣なのでこれを評価したくはないなと思う人も一定数いるわけです。そしてこれを代表として述べてくれたのが現ローマ法王(フランシスコ法王)である。法王は他人の信仰を侮辱するべきではないとし、シャルリーの記事はまるで相手の母親の悪口を言うような低俗な内容だというニュアンスで暴走しそうな世論に釘を刺した。
 さすが現ローマ法王よくぞ言ってくれた。これを読んでまず思ったのは「さすがローマ法王フランシスコ、ロックだね」である。まさに法王は上記3)の選択を支持していたのである。

 だがちょっと現在は危ない風向きで、このままでは中東を中心として世界大戦レベルの大揉めがおきかねない。乱暴な話だが、一部メディアの煽りはイスラム教徒=イスラム国、そこまでいかなくともシャルリーを支持しない連中は全てテロリストだと言い兼ねない勢いになっているからだ。
(そんな理屈ならば全イスラム教徒はテロリストだし、ローマ法王や私もテロリスト扱いになる)

 それと、どうも気になるのは・・・なんだか事件を利用して中東で戦争したい連中がわざと油を注いでいるような感じがすることである。どうしても「911事件」とかぶって見えてしまう。あたかも「中東情勢は不安定で困るからこの際に先進国みんなで潰しちゃおうよ」とでも言っているかのようだ。
 しかし、本当にそんなノリで戦争を始めればこれはえらい事になる。しかしも対立軸が「イスラム教徒VS先進国」となるのが目に見えているので、これは一気に世界中でテロの嵐が吹き荒れる事になるだろう。そうなった場合の規模は911事件などとは比べ物にはならない。本当に世界中を巻き込む大混乱になるだろう。
 なのでローマ法王がクールな発言をしてくれたのは世界に対して冷静になれよという強いアピールであり、これは唯一の救いである。だがこれからどうなるかは要注意である。


<余談1:日本で起こった同様の事件について>
 ちなみにこの事件を見て次に思ったのは「日本の植村元朝日新聞記者の脅迫事件」の事である。。これは現在も進行中の事件だが、簡単に説明すると「元朝日の植村記者」が一部の勢力から慰安婦捏造問題の元凶扱いされており、脅迫行為を受け続けているという話である。しかも悪質なのは植村氏が大学に就職しようとした際に、大学に対して生徒を傷つけるという脅迫まで発生したという点だ。

 まあこの事件は経緯や内容を聞くと、あきらかに事実誤認による濡れ衣であり、とばっちりとしか思えない内容である。だが安倍政権の執拗な朝日叩きと、メディアが真面目に調査して記事を書かない事もあって、いまだに植村氏が一部で敵視され続けているという事態は変わってないようだ。

 そこでフランスのシャルリー事件を見てまず思ったのは、日本の植村記者の強迫事件に対し「これは言論の自由に対する許せない挑戦である」という本気の態度で政府や警察が動いたという話を聞いたことがない。むしろ耳にするニュースや動向ではサボタージュしているように思えるほどである。それに主要メディアもこの問題をあまり大きく取り上げない。フランスと比較すると、まあいつもの事だけども、正直言って情けなくなる。


<余談2:安倍総理の外交補足>
 このブログを書いているあいだに聞いてずっこけたニュースだが、安倍総理がイスラエルに訪問して次のように述べたとしている。
 「このような卑劣なテロは、いかなる理由でも許されず、改めて断固非難したい。イスラエルをはじめとする国際社会と緊密に協力しながら、テロとの闘いに取り組んでいきたい」

 正直驚いたし、今のタイミングでこの発言は間が悪すぎてドン引きする。なぜならば、これはあたかも「日本はイスラエルに味方してイスラム国及びイスラム過激派と戦いますよ」というメッセージに受け取れるからだ。さすがにアメリカですらここまで突っ込んだ発言はしてないのではないか。まるで鉄砲玉(アメリカの?)みたいな無謀な発言だ。

 イスラムの問題は歴史や文化も含めたとてもデリケートな問題である。こんな気軽に口を突っ込んで良い話ではない。誰が安倍総理に言わせたのか分からない、あるいは本人の意思なのだろうか、まったく理解できない行動だ。まるで古いヤクザ映画に出てくる口先だけですぐに死亡フラグを立てるチンピラみたいじゃないか。もうこの人については語りたくないのだが、久々にツッコミをいれずにはいられない行動である。


<参考リンク>

2015年1月10日土曜日

レゴブロック・エイジ ~オリジナルはどこから来たのか~

 「ふだん意識せずに使っている道具や知識、さらにはもろもろの前提事項はどこかレゴブロックみたいな物だ」最近そんな事を考えるようになった。きっかけは最近クラシックの演奏会に時折出かけるようになってからである。


 そもそもの話をすると、どうしてクラシック演奏会に行くようになったかと言えば、たまたま知人が無料の演奏会チケットをくれたのが元である。私は普段からDTMで作曲をしているのもあって、たまには生の音を聞くのも良いかなと思っていた。そして実際に聞いてみると、もともとクラシックについての素養のない私でも以外に楽しめるという事が解った。それからは無料でやっている演奏会(~管弦楽団の演奏会)があれば良く出かけるようになった。
 とは言え、所詮は素人である。なんとか交響曲とかを聞くよりもアナ雪をやってくれた方が盛り上がる程度のレベルなので、正直言ってクラシック演奏のどこに着目して聞いて良いのかがなかなか解らなかった。例えば普通のポップミュージックならば、私はベースが好きなので、無意識的にベースラインとメロディラインに着目して音楽を聴いている。しかし管弦楽団などといえば数十人が演奏しているものなので、音が細かくてとても繊細であり、曲によっても傾向や趣向がまったく違うのでそう単純には決められない。
 そこで何度か演奏会に足を運ぶ度に「はたしてクラシックとは何ぞや?」というような事を考えるようになった。例えばポップスとクラシックとの明確な境界はあるのか、これを満たせばクラシックと言えるのかというようなポイントが果たしてあるのだろうか・・・などと漠然を考えていた。そんなある日ふと「ポップミュージックというのはクラシックに対してレゴブロックのような関係」にあるのだという事が頭に浮かんできた。長ったらしいが、これが今回のテーマである。

 どういう事かと言うと、クラシックというのは言ってみれば何でもありの世界である。そして恐らくは「音楽だけではクラシックの世界観は完成しない」という事に思い当ったからだ。例えば何とか交響曲といった物は「暗黙のうちに聞く人がその交響曲についての物語を知っている事」を前提としていて、その物語の詩やイメージが頭に浮かんでいないと決して十分に理解できないような物だという事だ。

 話は少し変わるが、ちょうど似たような事を私は「短歌」や「詩」について考えた事がある。私は過去、どうしても短歌や詩というのが理解できないでいた。この世界には過去から現在まで有名な詩や詩人というものがあって、たまにはそれを読んでみるのだけど、どうしてもつまらない物としか思えなくて、どこに人々を感動させる力があるのかが理解できなかった。ただ、不思議な事に音楽についた歌詞であれば、これは魅力的な詩だと感じ事ができる。その違いがなかなか理解できずにいた。。
 しかし、ある時にそれは音があるかどうかの違いだという事が理解できた。つまり「短歌」や「詩」というのは、本来は黙読するものではなく、実際に声を出して読む事を前提に作られた芸術だという事に思い当ったからである。歴史を振り返ってみれば、本来短歌というものは歌会(いわばライブ)で演じるものであったし、詩だって朗読会のような場でライブを演じるものであった。だから本の上で字を見るだけではこれらは理解できなくても当然なのだ。例えるならばコンピュータ上のデータ転送みたいなもので、文章は記号(エンコード)であり、それを実際に肉体で声(デコード)にだす事で初めて価値が生じるといったところだ。
(補足:推測だが書籍を読んで詩に感動できる人は、たぶん暗譜するように脳内で音を鳴らしているではないかと思う)

 じゃあ本題に戻って「ポップミュージック=レゴブロック」という意味は、これはポップミュージックがクラシックと比べるとはるかに曲単独で成立する要素が高く、暗黙知や物語を必要としないという意味である。それは強固な前提条件(制約)の上に積まれているからだ。例えばセックスピストルズを聞く前に、わざわざPUNKの歴史やジョンライドン(Vo)の思想や生い立ちを気にする人がいないようなもので普段はそんな事を考えたりはしない。
 なぜならば「ポップ」「ロック」「テクノ」といったようなこれらのジャンルは土台その物が暗黙知(つまりはレゴブロック)であり、明確な境界線がひかれているからだ。もちろん過去の先人たちは、別にこういったレゴブロック的なものを作ろうという意図でジャンルを生み出してきたわけではないのだろう。しかしその成立過程でもろもろの暗黙知を含んだ型となり、後世で聞くものはその土台に乗っかる事で特別な知識を必要としないのである。


 そこまで考えてみると、このレゴブロック化した物というのは別に音楽だけの話題ではなく、現在のありとあらゆる物がレゴブロックで覆われているのだという事に気が付く。例えば日本人であるという文化(空気読む)とか、社会人だとか、さらには科学知識や技術についてもそうだ。我々は普段はどうやって作られたのか、どういう経緯で作られたのかもしれないブラックボックスに囲まれ、あるいは利用して生きている。大抵の現在作られるオリジナルは過去の積み重ねの上に新たなレゴブロックを積み上げる事で作られる。そして玉ねぎの皮を剥くように繰り返される構造は、本当のオリジナルがどこにあるのかを解らなくする。
 これは普遍的な事柄であるが少し懸念する事もある。過去に著名なソフトウェアプログラマーが、現在のプログラマーというのはポップアートだと発言した事があった。つまり現在のプログラマーは過去の蓄積された技術の中身(クラシック)を知らないし、知ろうともしていないという意味である。

 つまり、現在のあたかもレゴブロックに囲まれて育った人間は、パイオニアをリスペクトしないどころか軽視したり、あるいはパイオニアが存在した事も理解していない可能性があるおいう事だ。これは時によっては大きなリスクともなりうる。なぜならば現在のブラックボックスは規模も複雑さも旧世代とは比べ物にならず、どんどん進化し続けているからだ。そして過去を知るものは徐々に去ってゆき、いつしか我々は中身の解らない箱に囲まれて暮すことになる。

 これは大げさに聞こえるかもしれないが、以前に「失敗学/畑村洋太郎著」の中にも、大事故を調査すると、たいていはパイオニアの不在(約20~30年経過して引退した事)を機にするものが多いという研究がある。失敗学ではこの事より「文化としての知恵の継承の必要性」を強く説いているが、まあ大抵の組織はできてない。
(実際に私が仕事上で見てきた組織やシステムでもできてない)

 例えば現在日本の欠陥や問題なども、多くはパイオニアや創始者の引退によるところが大きい気がする。というわけで、切りがなくなるので、ポップミュージックからレゴブロック化した文明についての話をこれで終わります。

2015年1月4日日曜日

未来予測2015 ~不安定化する世界~

 今年で3年目となった未来予測について記載する。長期的な展望(10年単位)とかは、まあそんなに変動がないので、今年のトピックを元に、興味の湧いた事柄を中心に書いてみる。

1)全体的な所感、世界及び日本の動向
 最近毎年書いている気がするが、年々不確定要素が増えて今後の見通しが難しくなってゆく。特に今年は以下のような思いがけないトピックもあって拍車をかけた思いである。

 (1)ロシア・ウクライナ問題
  2014/2/27にクリミア(ウクライナ)で武装勢力が地方政府を占拠してロシア併合~うんぬんという流れからもう1年近く経つ。しかし、いまだに解決策も落とし所も見えていない。このニュースは私も驚いたが、まさに活火山のような紛争地帯が新たに世界地図上に誕生するといった出来事である。
 ロシアのクリミア併合はEU・アメリカとロシアとの衝突をまねく大事件なのだが、誰もがロシアとのガチな揉め事を望んではないので、なんとか穏便におさめようと経済封鎖だのなんだのと続いてきたが、むしろこの1年で傷口は広がった気がする。当初はロシアvsEUだった対立もこのままでは徐々に軍事対立になる懸念がある。
 それどころか、多少込み入ってきて「ロシア+中国」対「EU+アメリカ」という形が出来上がりそうだ。さすがに大国間の露骨な軍事衝突はないとはおもうが、これは経済や政治での激しい闘争を生んで、さらに世界全体的なをややこしくしそうだ。そして少なくとも4、5年は、このハラハラするようなチキンレースは続くのだろうと思われる。

 (2)イスラム国の台頭
 これもすぐに解決しそうにない問題である。アメリカ・EUは対イスラム国をテロリスト扱いで攻撃をし続けるが、おそらくこの結果は世界中にテロを撒き散らすだけの事になると思われる。私見ではこれはむしろ現在の宗教戦争(十字軍2014)みたいな物のような気がする。だが、対立軸はそれほど単純ではなくて、グローバル資本主義vsイスラム遊牧文化との対立であったり、第一次世界大戦で西洋に引かれた国境や傀儡政権などの問題ともからむので、とても一言で総括はできる問題ではない。
 私の読みとしては、さんざん西洋軍で中東でドンパチやったあげくに決着はつかず数年後に、アフガンのように撤退して、その間に世界中にテロが撒き散らされる結果になると思う。個人的にはイスラム国が主権を確立して現在の中東国境線を引きなおす方が、長い目で見れば適切なように思うのだが、そこまで彼らがやれるとも思えず、結局はイラク・シリアの一部をイスラムが国家として統治するというグレー状態が長期にわたって続くと思う。

 (3)エボラ出血熱のアフリカ流行
 このエボラ出血熱問題は単体でも大問題なのだが、これがさらに(2)イスラム国の問題とリンクしそうで怖い。中東問題が今よりも荒れて、テロが全世界にまかれるならば、やはりエボラもテロとして全世界に撒かれる覚悟をする必要があるだろう。
 ちなみに私は2015年中のエボラ出血熱決着は無理だと読む。だから世界のあちこちで(規模は大小ありつつも)この問題とも付き合う必要があるだろう。そしてクドイようだけど、この問題とテロがリンクしないように世界の揉め事を減らすべく政治家は行動して欲しい・・・のだけど、してないね。

 (4)OPEC産出制限による原油安
 これも今年驚いたニュースの一つである。これは単純に原油が安くていいね、といった問題はではなく、ようは中東産油国とアメリカ(シェールガス)との経済戦争である。だが話がややこしくなるのは、このチキンレースによってロシアにプレッシャーをかけるという状況が生まれつつあり、結局OPEC主導の原油安はアメリカが裏で糸を引いているのではないかという疑念もある。
 この問題が怖いのは、結果として現在構築されているスパゲッティみたいに絡み合ったグローバル金融市場を勢いで崩壊させないかという懸が起こる。

 ・・・とまあ、他にも幾つかあげようと思えば出てきそうな気がするが、今年は特に不確定要素が大量に発生した年であった。だから結局のところ何が懸念かというと、ブラックマンデー的な金融/経済崩壊がいつおきてもおかしくない気がすることだ。それにアベノミクスで暴走をつづける日本も、潜在的に世界経済のリスクの一つになりつつある。


2)日本経済の見通しについて
 もともと数年前から2020以降に日本経済は破綻するという意見が以前からポツポツ見かけるようになっている。私も漠然とこのままでそうなるかなと思っていたが、今年1年の状況×安倍政権の暴走からすると下手すれば2020までにクラッシュしかねないのではという気がしてきた。
 もともとアベノミクスというものは壮大なバラマキであるが、私にはこれらが「残った日本のリソースを全て切り売りするバーゲンセール」に思えてしょうがないからだ。(しかも店じまいの大安売り的な・・・)

 安倍政権がやっているのは、日銀を使った株式バブルの維持であり、既得権益者へのバラマキ、官僚を働かせる為に彼らにもバラマキ、なおかつグローバル資本が積極的に日本に介入しやすくする新自由主義的な政策を強烈に押す。結果ととして日本の金融資産や債券に対して外国資本が多く入る事になる。または日本のリソースが海外へどんどん流出する。
 怖いのはこの状況で、不安定要素が膨らんだ世界金融市場がクラッシュすることである。その時に、円暴落に近い状態で何も売るものが無くなった日本で何が起こるのだろうか? 餓死者を数えるような混乱事態へと流れてゆくのだろうが、これは正直言って私ですら憂鬱な想像で考えるのも嫌になる。


3)日本という国家の形
 今年のテーマの一つであったのが、ヘイトスピーチ問題であり、ネトウヨであり、メディアの問題である。正直言ってこの国の知性はもうガタガタだ。政権は国内問題に対処せずに、無責任な右傾化して問題を他国やヘイトにすり替える。そしてメディアは事なかれ主義で、「日本は素晴らしいね」的なヨイショ番組や記事が蔓延し、さらに政権は言論や思想の自由といった高度な文明的なものを葬り去って独裁体制へと傾いてゆく。リア王の中に「狂人が盲人を導く・・・」というくだりがあるようだが、まさにそんな状況なのかもしれない。
 しかもややこしいのが、日本での右傾化は対米従属を強める方向に働いているということだ。どこの世界にみずから進んで奴隷になりたいと望む者がいるのか、進んで檻に戻ろうとする獣がいるのか、この国はもはや滑稽を通り過ぎてグロテスクだ。


<まとめ>
 じゃあどうすればカタストロフィを避けられるのかという事になるのだが、はっきりいって特効薬などは無い。逆にあらゆる思いつく限りの基本の手を尽くして痛みと時間をかけるしかないだろう。糖尿病になってこのままでは命は無いぞとおどされたデブが、命がけであらゆる対策に取り組むようにやれば、あるいは回避できるのかもしれない。

 だが現在の日本はそういった道を選ばず、現実逃避する道を選んでいる。

 ゆえに私の未来予測は「もっと徹底して日本は堕ちるところまで落ちるしかない」となる。そしてそこから「もう一回這い上がる」事を願うしかない。

 だがそれすら最悪ではない。最悪なのは落ちた結果で国家が完全に消滅、日本人や日本文化も消滅するという事態である。昔から「国破れて山河在り」というが、せめて山河は残すようにしてほしい。何も努力せずに山河が残ると考えるのは大甘だと考えて欲しいという事である。

<参考>
未来予測2014 ~安倍政権という方向性~
未来予測2013 ~私的予言録~