2014年8月25日月曜日

「パイが決められた社会」(需要のない社会について)

 長くサラリーマンをやっているなかで「成果主義」に代表されるような会社組織の不条理にはずっと疑問を持っていたのだが、最近はネットの記事などを見ていて、色々と思う事があったので、久々に考えた事をまとめてみる。


1.「成果主義」で成果が出た話を聞いた事がない

 成果主義とは、仕事の成果に応じて報酬を払うという制度である。だが世間一般で目にする状況をもっと下世話に説明すると「ニンジン目の前にぶら下げて社員の尻を叩くこと」あるいは「社員の給料をなんとか値切ろうとする、理由づけの制度」である。
 本来はそこまでクソミソに言われるようなものではなかったのかもしれないが、現実はおおむね上記のような使われ方をしている。

 ちなみに、なぜ私がそこまで成果主義をクソミソにこき下ろす理由は、最近よくあった「ブラック的な企業」によく見られる以下のような発想が嫌だからである。
・社員のモチベーションは報奨金でいくらでもあげられる。
・社員を甘やかすと結果がでない。常におどして締め上げるぐらいでちょうどいい。

 現実的にはこういった話を露骨にはしないかもしれないが、概ね心のなかでは似たような事を考えている人が多くいる。(実際に見たことや会った事もある)
 だがこういった理論が正しくない事はずっと昔から科学的に証明もされているし、コーチングやマネジメントの本などにも記されている。例えばニンジンぶら下げる効果については「ロウソクの問題」としてずっと昔に挙げられているが、単純化された作業については効果が出る事があるものの、ある程度のクリエイティブ(ちょっと考えないといけない)さが要求されると、かえって害が生じることが多いというものである。
 また、脅して締め上げる事の効果も、例えばソフトウェア工学の書「デッドライン」で問題ありとして書かれている。これらは私の経験則とも一致する事であり、実際の会社経験のある人ならば、目線を改めて遭遇したいろんな事柄を考えてもらえれば、普遍的な事だと理解して貰えると思う。(確かドラッカーさんだって、そんな事はやっちゃダメって言っていたと思う)


2.だが残念なことに・・・

 しかしながら、残念な事に成果主義的な発想というものは名を変えて品を変えて登場し、むしろ世の中に広まってしまった。私の見たところ、最近では新自由主義に代表される「自己責任」という言葉があたるかもしれない。ブラックな企業も後を絶たないし、ケチケチした嫌な上司も世の中からなくならい。

 こういった事を考えていた時に、ふと頭に浮かんだのだが、多くの会社では「成果を挙げる」より、むしろ「コストを下げる」事を目指しているのではないかという疑問だ。成果を挙げたいのならば成果主義は障害である。しかしコストを下げるならば成果主義というのは良い言い訳になる。

 つまり彼ら(会社)は、「パイが限られている」(分配する利益が限られている)という前提で行動しているわけだ。

 この事に気が付いて、私は「あれっ、そもそもそんな世の中だったっけ」と考え込んだ。もしも近年の若者(20代ぐらい)までだと、そうかもしれないが、もっと上の世代というのは「パイを増やそうとする時代」として生きてきた人も多いからだ。

 ここでもう一つ思い出した事を書いておく。私がこの「パイが限られている」考えに引っかかっているのは、ながらく現在の経済成長をひたすら追い求める社会(EU、アメリカ、日本とかの先進諸国)というのが、そろそろ本格的に限界にきているのではないかと思うようになったからだ。
 その時に思っていたのが、現在は「需要があんまりない社会」に既にたどり着いていて、昔みたいにバンバン物作って生産性あげて売りまくればみんなハッピーみたいな世の中じゃないよねという事だ。

 でもそれを認めると経済成長が止まるから、みんなあの手この手で需要を作ろうとしてきた。毎年何かのファッションを流行させないといけないし、何かの食事を流行らせたりとか、宣伝しまくってみんなを欲しがらせようとする。例えば日本の例でいえば、内需拡大するために核家族化(親子が別に住むとかの孤立化)を進めて家電とかいろいろと売ったり、あるいは浮気だのなんだのもまるでファッションのように色々と取り上げられるようになった。つまりは恋愛もいつからか露骨にビジネスになったわけだ。

 だが、そこまでやっても、やっぱり現在は「需要があんまりない社会」になったのだと思う。欲しがる事に疲れてきた(あるいはバカバカしくなった)人も増えたのだろうし、機械とかで生産性は年々上がっているから需要が減るのは本来自然で当たり前のことなのだ。


3.需要がない社会は問題なのか?

 そこで考えるべきなのは、現在の世界で色々な経済政策だのなんだのとごちゃごちゃやっているが、ある意味それらは、「需要があんまりない社会」に対しての悪あがきで、需要を無理やり作るか、パイの取り合いで争う(コスト削減競争)を続けているわけだ。

 でも、それは本来はちょっと違うのじゃやないかと思う。需要が無いならないでいいじゃないかと私は思う。むしろこれだけ生産性(テクノロジー)が進化した社会では、あくせくしない方法論だってあるはずだと思う。そして本来は、そういった提案を経済学者にしてほしいのだが、まだそこまでは世の中は進んでいないらしい。


<補足>
※ここで考えた話は、結局は過去に書いてきたこれらの記事とつながる話題なのだな。経済学者を嫌う理由がまた増えたかな・・・。
・未来を浪費する社会
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2011/10/blog-post_08.html
・経済学者を信じるな!!(その1)
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2013/01/1.html



<参考>
・書籍 申し訳ない、御社をつぶしたのは私です/カレン・フェラン(著)
 http://www.aty800.com/yaotyan/2014/08/post-29ad.html

・【TED日本語字幕まとめ】「インセンティブ制度は生産性を下げる」- ダニエル・ピンク:やる気に関する驚きの科学
 http://u-note.me/note/47484826

・名著!「デッドライン」
 http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2006/09/post_adea.html

2014年8月18日月曜日

『なめらかな社会とその敵/鈴木健』の紹介について

 この本は「この複雑な世界を複雑なまま生きることは、いかにして可能か。」という問題定義から始まる。私はこの本を読んで、とても驚くと同時に興奮もした、そして多くの人に読んで貰いたいとも思った。

 だがこの本に書かれていることは何なのかというのを説明するのはとても難しい。何故ならば、冒頭にあるように、この本が目指しているのは「複雑な世界を複雑なまま受け入れること」であり、だからもしも私が適当に簡単にまとめて説明するような事をすればその意義を永久に無くしてしまうからだ。

 まるでおとぎ話のように、いや、むしろ至る所にあるが私たちが忘れている、本来この世界の出来事は、そのまま変換可能や交換可能にはならないという事を思い出させる。
 例えば「オーケストラの生演奏」を録画して再生しても、その場で聞いた音には届かないだろう。同様に完璧なディナーを完全に真空パックなどで劣化しないように保存することはできないし、恋人とのデートをお金をもらって再現したところで同じにはならない。
 本来この世の出来事は全て交換不可能・変換不可能である。だが、近年は「あらゆるものはコストにて変換可能である」というプロパガンダが幅を利かせるようになって、そのことを忘れがちだ。別に資本主義は全てを救えるわけではない。


 どうも話が脱線したが、私はこの本の事を正しく要約することはできないのだが、それでもどうにか紹介したいので、あえて個人的な見解や誤解も含めた理解にて乱暴にはなるが、なんとか説明をする事にする。

 まず、この本は下記の3つの章で構成される。
  第1部、なめらかな社会
  第2部、伝播投資貨幣 PICSY
  第3部、分人民主主義 Divicracy
  第4部、自然知性
  第5部、法と軍事

 第一部が、そもそもの問題提起にあたる部分で、現在は複雑な社会をうまく理解や表現できていないという点についての解説であり、またその対策として想定する「なめらかな社会」というものの説明である。そして第2部以降が、「なめらかな社会」を実現する手段や考え方の提案である。

 ちなみに、この本は簡単ではない、だが決して理解できないほど難しい本ではない。何故ならば、作者はこの書籍を一般的な読者に読んで貰えるように懸命に丁重な説明をしているからだ。
 なお、私は第一部での問題定義については賛同するが、伝播投資貨幣にの実現については懐疑的である。でも、それで良いし、そのように多くの人が読めば良いと思う。あくまでもこの本は問題定義と提案であり、目的はまさに多くの人が問題定義について知る事であり、提案について考える、あるいはこの本にない新たな提案を考えることであるからだ。

 しかしこの本を読んで最初に思った衝撃は「伝播投資貨幣」についてだったので、これだけでも少し説明をしたい。この提案は現在の資本主義社会が抱える課題。資本がよりよい事にうまく投資されないという課題に対する提案である。つまりは、公害や環境破壊なので後々に影響を与えるような問題投資を、現在社会がうまく制限できない、あるいは評価できないという問題についての検討である。
 そしてその手段として「伝播投資貨幣」というものは、通貨そのものが株式投資と同様に概念をもち、社会に貢献した投資にたいするキャッシュバックが生じるというものだ。簡単な例をあげると、私が100万円つかって森を整備したとする。後に整備した森が人々の集まる場所となって公園になって色々と発展すると、私に対して後から社会貢献分の20万キャッシュバックが生じるといったものだ。(補足:ちょっと不安だけど、大まかにはこんな理解であっているはず・・・)

 この話を読んで、私は「すごい事を考える人がいるものだ」と素直にとても驚いた。この発明(発想)というのは、ある意味「産業革命」と同じか以上に凄いパラダイムシフトを生みかねないものだと直感したからだ。私はもともとシステム屋(IT)なのだが、いつからか現在社会をシステムとして見立てた場合に、数多くのバグや、時代遅れと思われる部分があって、なんとかリファクタリングする手段はないものかと夢想するようになった。だが、ここに書かれているような、発想は夢にも思ったことがなくて、本当に驚いたし、凄い事を考える人がいるものだと思った。だから、是非とも多くの人に読んで貰いたい本ではある。


<補足>
 「伝播投資貨幣」を単なる荒唐無稽と思う人は、近年あらたに生じている事を知るべきである。ギリシャでは経済危機により、通貨がうまく機能しなくなった為に、新たに「地域通貨」が生まれたり、あるいは物々交換による経済活動などが一部では始まったという事である。日本にいるとピンとこないかもしれないが、現実は遥かに先をいきつつある。
 なお「伝播投資貨幣」というのは、今思い出したが内田樹が言っていた「贈与経済」的な考えともつながる気がする。ちなみに私は最近はずっと、経済破たん後の世界や暮らしという事が頭に離れなくて「半自給自足型の社会」(経済成長優先よりも、半分自給できるように余地を残した社会)というものをよく考える。
 そろそろ日本も現実を見て、経済成長しか道がないというような馬鹿丸出しのような政策を止めて、もっと地に足がついた生存手段を考えるべきだと思うのだが・・・なかなか、まだ時間がかかりそうだな。

<参考リンク>
・『なめらかな社会とその敵』を読む
 http://blog.tatsuru.com/2013/02/13_0755.php
・経済成長の終わりと贈与経済の始まりについて
 http://blog.tatsuru.com/2012/04/08_1110.php

2014年8月12日火曜日

映画「風立ちぬ」について思った事

 宮崎駿の「風立ちぬ」、この作品はあたかも「古典」となるように新たに創られた「映画」であるように思う。ゆえに面白かったのだが、同時に少し悲しくもあり、色々と考えさせられた。だから、ここに書くのは作品論というよりは、映画論かもしれないし、あるいは文化についてかもしれない。

 多少、ネタバレ的なところもあるので、ご了承を・・・。

 まず「風立ちぬ」という映画は、大きくは2つの物語から成り立つ。実在の人物や事象もあるが、あくまでもフィクションである。

1)実在した零戦の設計者「堀越二郎」を元にした物語
2)結核の恋人との生活を描いた小説「風たちぬ/堀辰雄」の物語

 私が見た所では、この映画のメインテーマは小説(風立ちぬ)であり、映画化する際のドラマとして夢を持った飛行機設計が戦争に流されてゆくさまを入れたのだと思う。だから映画の世界観は小説のものであり、ちなみに私は小説も読んでみたのだが、これが良かったし、この小説で表された独特の空気みたいなものを、おそらくは監督(宮崎駿)は描きたかったのだと思う。

 ちなみに、この映画は右寄りの人(百田尚樹)からは熱狂的に指示されて、韓国では一部は軍国的だとか批判されたりもしたようだが、内容的にはまったく軍国的なところとかはなくて、別に右翼・左翼がどうたらといったのはないと思う。たしかに主人公の堀越二郎は戦闘機の設計者であり、第二次大戦の物語なので、戦争に関する描写もある。
 ただ、おそらく監督が描きたかったのは、過酷な時代に夢を追おうとした人を描こうとしただけで、べつに戦争ではなかったのだと思う。むしろ、本当に描きたかったのは小説(風立ちぬ)にあった、繊細で日々を大事に生きようとした人の姿なのだと思う。

 私はその、繊細にそして日々を噛み締めるように大事に生きようとする二人の姿に感銘を受けた。だが、同時になんだか少し悲しい気がした。それは、この映画に描かれたような世界が現在に無くなっている事、そしてそれは物語の上ですら無くなったしまったのだという事を感じたからだ。

 昭和初期(戦前)には、あっただろう美しさ、だが現在では失われたものがある。ゆえに、この映画は新しく創られたものでありながら「古典」なのである。

 「いったい何が違ったのだろうか?」

 難しいが、なんとか説明を試みてみる。理由のひとつは、登場人物が多くを語らないからだと思う。現在の映画に慣れた人からすると、もの凄く無口だとなるだろう。だが、それゆえに美しい。そうだ、美しいものは、自らを「美しい」とは語らない。ただ存在すれば良い。存在そのものが美しさだからだ。

 だが、これが現在は最も描くのが困難なのだと思う。本来は「言葉で説明できない美しさ」というのがあったはずなのだが、いつのまにか私達は「言葉で説明できる美しさ」に着目するあまりに、説明できない美をどこかに置き忘れてきたからだ。

 だから小説(風立ちぬ)を読んで、私はちょっとショックを受けた。それは、私達がいつのまにか「退化」したのではないかと、恐れを感じたからだ。理由は沢山あって、どれのためとは言えない。コンピュータ化、戦後の教育で文化が変わった事、物質主義的なものが多くなったこと、反知性主義的なものが目につくようになったから・・・等々、きりがない。でも「無くしたくないな、この感じ」というのを考えさせられる映画だった。

<追伸>
 「風立ちぬ」と聞いて、まず私の頭に最初に浮かぶのは「松田聖子」の曲である。これだけで、私は自分の教養の無さを呪いたい気分になった。なんか記憶すらも低俗さに汚されているような気がする。これは別に松田聖子のせいではないないのだけどね・・・。

2014年8月8日金曜日

世界で最もヤバい国

 それなりの経済力があって、メディアの透明性は低くて、人権意識は乏しい、さらには政治家のオツムは弱い。そんな国が最近は核を持ちたいという意志もあらわに、軍事活動を行いやすいように法整備を進めようとしている。こう聞くといかにも、ほっとくと何かやらかしそうな国だ。だが、これは第3世界の話などではなく、私の目から見た安倍内閣が目指す日本の姿である。

 「安倍内閣とは何なのか、安倍総理は何をかんがえているのか?」私はたびたび考えこむ。だがどう例えるのが相応しいのか、いまだによく解らない。

1)右翼の皮をかぶった、グローバリスト
2)グローバリストに乗せられた復古右翼
3)自己陶酔する復古右翼
4)持ち上げられて舞い上がった馬鹿
・・・

 安倍総理の政策だけを見れば、これはグローバル資本家/企業を最優先にした政策である事は間違いない。分かり易くまとめると、ようは1%の人向けの政策である。集団的自衛権も武器輸出等でさえも、これは既得権益団体による新たな儲け話ねん出と考えれば全体を整合として説明できる。だから私は、彼を右翼という仮面でカムフラージュしたグローバリストと呼ぶのが最も適切な気がする。

 しかし、こう書きながらも「アベちゃん」はホントにそんな明確な意思(確信犯)があってやっているのかなという疑念もある。仮に確信犯であるならば、私は彼の評価を「ヒトラー並に優秀で危険な政治家」へと改めなくてはならなくなるのだが、違うのならば「ジョージ・W・ブッシュ前大統領を超える馬鹿な政治家」という事になる。
 ちなみに私は、ながらく彼の事を「後者」の方だと考えていた。だが最近は、じつは馬鹿のふりをしてみんなを欺いてきた曲者ではないのかとすら思える時がある。そう考えたくなるぐらいに、彼が行っている政策は日本の急所を突き、国民から政治を遠ざけている。

 だからこそ恐ろしくもある。まだ多くの識者は彼を馬鹿だと思っていて、次の選挙でひっくり返せばよいと思っているのかもしれない。だが、私が危惧するような確信犯なのであれば、次の選挙を永遠に封じて権力を独占しようとするかもしれない。

 その方法は「戦争を始める」ことである。

 なにも全面戦争でなくとも紛争でよい、なんならテロとの戦いでもよい。いったん戦争状態ということであれば、非常事態宣言とともに選挙を封印して権力をずっとおさえることができる。そして、その間に法制度を改めて、合法的に反対論者や政敵を葬ることもできるだろう。

 これは一見すると馬鹿げた妄想だと思う人もいるかもしれない。だがこれは普遍的な独裁手順であり、あまり珍しくもない。ちなみにもっとも近年類似した例は、ジョージ・W・ブッシュのアメリカである。あの時代には、政治的に都合の悪い事があるたびにニューヨークで「テロ警報」が発生したのは有名な話だ。


 だからこそ私は懸念する。ちなみに、彼がどんな意図をもっていようが、結果はだいたい似たようなものになる。馬鹿か天才なのかを論じることにはあまり意味もないし、重要でもない。

 問題なのは、いまだにまだ安倍政権の支持率が45%ぐらいあるという事である。(ホントにそんなにあるのかという疑念もあるが、まだそれなりにあるらしい) これが私には理解しがたい、1%側の政治へばく進中なのに、なんで99%側の人が支持するのだ・・・そんなに、この世はアホばかりだというのか、多少新聞がヨイショして持ち上げた数字としても信じがたい。

 「今の時代は戦前に似てきた」そういう意見をたまに目にする。私もずっとそう感じていた、だがあくまでも「比喩」だという意味で思っていただけだ。だが、最近は本当に「何か、やらかしかねない」という気がしてきている。だから次の選挙は重要だ。
 だが、それでも、やっぱり何も考えずに(あるいはデマに乗せられて)今まで通りなら、危機感もないというのなら、ホントウにこの国は滅んでも仕方がないのではないかと、やや諦めつつもある。しかし、この国はまだ腐っても世界3位の経済大国なので、この国の混乱は大きく世界を歪める災いをおこしかねない。それが、第三次大戦に繋がりかねない紛争なのか、あるいは世界的な経済恐慌を引き起こすのかは、解らないのだけど。


<補足>
 私は安倍総理の語る敗戦前に復古しようとする考え(どこまで本気かわからない)が大嫌だ。だが「永遠のゼロ/百田尚樹」(小説)は大好きで、小説に感銘を受けて当時の戦記(手記とか)を何冊か読んだぐらいだ。でも、だからこそ、復古的な考えは「ありえない」と思っている。

 第二次大戦について考えた時、私が何度思い出しても腹が立つのが「ガダルカナル攻略」「インパール作戦」、さらには「特攻兵器(特攻機、人間魚雷等)」についてだ。

 「これだけ味方を無駄死にさせた愚劣な作戦が、歴史上他にあるか」何度思い出しても怒りを感じる。負けるのは仕方ないとしても、ここまで愚劣な連中を他に思いつかない。そして負けたあとの戦犯や指導者のセリフとしても「時代や空気に逆らえずにやった」的な言葉しか出てこないのが、さらに腹が立つ。自分のやっている事の覚悟も理解もなしに・・・これだけクズな連中は近代史では、探すのも困難である。
(もちろん、当時でも立派な人はいたはずで、「永遠のゼロ」はむしろそんな時代でも立派に生きた人の話を書いた物語だとして読んでいる)

 だから自民党が前にやろうとした憲法改正で、昔の道徳的なことを書こうとして却下された件とかを聞いて、本当にこの連中は救いがたい馬鹿だと思った。そして、こいつらのような連中こそが、時代が違えば「ガダルカナル攻略」「インパール作戦」を立案したような奴らだと実感する。

 どこの国でも、政治家に馬鹿はいるはずだ。だが、日本ほど、自分のやっている事を理解していない馬鹿はあまりいないんじゃないかという気がしてならない。


<参考リンク>
・報道の自由、日本後退59位 福島事故と秘密法響く
 http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021201001249.html

・安倍内閣支持率45・6% 第2次内閣発足後最低
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140721/stt14072112080002-n1.htm

・「憲法が何であるかを理解しないまま議論が進められていることが問題」・小林節慶応大学教授が日本記者クラブで会見
 https://www.youtube.com/watch?v=Lfxpw6ODn5k

2014年8月2日土曜日

遠まわしに考えた、選択しない社会というもの

 長らく体調を崩しがちな為に、最近は生活習慣を見直そうと考え、なかでも食事を基本的な部分から見直す事にした。ちなみに、それまでは太らないようにカロリーはある程度気にしているが、以外はサプリメントを飲んで、無理やり帳尻を合わせるようにしていた。もっとも手間がかからない、単純な方法である。
 しかし、根本的に考え直すならば、まずそこから見直さないといけないだろう。じゃあ代わりにどうするか?

 新たな健康法を求めればよいのか、最新の科学的な知見を考慮すべきか・・・色々とあるが、私は最新科学や流行の方法ではなく、なるだけシンプルな古くからある日本の食事に戻そうと考えた。単純に言うと、江戸~昭和初期ぐらいの「まだ西洋化していない食生活」を理想とした。
 どうしてそうなったかと言えば、食事法については最新科学(ホントか疑わしいのもあるが)で色んな説によるものが沢山あって、まずどれが正しのか分からない。一部は正しいのかもしれないが全体的には間違いが多い可能性もある。
 だから、あえて最新科学をちょっと置いといて、古くから日本人が暮らしてきた食事(西洋化する前)を選ぶ事にした。何故ならば、これらは長い古人の経験や言い伝えに裏打ちされた実績があるので、もっとも手堅い方法でもあるし、現在立ち戻る原型とするに相応しいと思ったからだ。

 そんな経緯で関連する本を調べているうちに行き当たったのが「粗食のきほん/佐藤初女・幕内秀夫・冨田ただすけ」という本である。この本は面白かった。そして食事の話だけではなく、もっと人間や生活といったものに対する根本的な事を教えられた。
 中でも特になるほどと思ったのが、料理を作る時に軽量カップを頼りにするのではなく、自分で味を見て考えなさいという指摘だった。例えば塩分一つにしても、味を見ることで必要な塩分量がおのずとわかる。つまりは体が欲しているもの知り、それを与えるのだと考えて料理を作りなさいというものだ。

 これはとてもシンプルな教えであるが、とても理に適っている。そして、この話を聞いて思い出したのが「脳は体に悪いものも欲しがるが、体は必要なもの(良いもの)しか求めない」といった話だ。これは、例えばタバコや麻薬は脳が求めているのであり、体は基本的にはそれを拒否しているという意味である。さらに、関連して思い出したのは「頭で考えている内は二流である」「全身をもって行動し考えよ」という話である。

 これは一見バラバラな話をしているようであるが、食べ物話では済まない、とても深い示唆を含んでいる。例えば次のような話をよく聞いた事はないだろうか?

 とある生産性が上がらない工場がある。その工場では年々少しずつ生産性が低くなり、社員はよく上層部に小言を言われていた。だが社員からすれば、年々機械などは消耗したり、十分にメンテナンスはできない等といった色々として欲しい事もあって、上層部になんども言っているのだが、一向に話を聞いてもらえないと不満を抱いていた。
 やがて上層部は、生産性が改善できないので外部コンサルタントに依頼する事にした。そしてコンサルタントの指摘により、色々な機械やソフトを購入する事になった。だが最新の知見や方法論によるとして期待された方法だが、もひとつ目覚ましい成果は上がらない。むしろ、今までと変えた事によるトラブルなどが目立つぐらいである・・・これは、わりとどこにでもある話だと思わないだろうか。

 もしもこの話を、上層部=脳、社員=体と置き換えれば、初めにしていた食事の話と同じである。問題なのは、どうして私たちはサプリや新たな健康法を試す前に、まず自身の体が欲している事を聞かないのかという点である。味覚などは正にそうだ。そもそも体に必要な栄養素といったものは個人差があって同じではない、だからこそ味覚は必要な情報を伝えるのである。例えば普段は酸っぱい飲み物であっても、疲れている時にはそれが甘くておいしいと感じる時のように。

 こういった事を踏まえて周りを見れば、似たような問題は多くあるような気がする。そんな事はないという人がいるならば、いちど「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。/カレン・フェラン」(サブタイトル:コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする)を読んでみる事をお勧めする。
 私はと言えば、つくづく「こんな当たり前の事が分かってなかったのか」という事を思い知らされた。同時に食事ばかりではなく、今までの仕事ぶりなどにつけても、本当にちゃんと話を聞けていたのだろうかという疑問を持った。


 なお食事の話題に関連して興味をもって、最近は貝原益軒(江戸時代)の「養生訓」を読んでいたが、こういったものは、そもそも現代人の考え方の根本的な問題からくるのではないかと思えてきた。「養生訓」を読んでいると、これは単なる健康法の話ではなくて、むしろ「幸福とは何か」とか「生きるとはなにか」といった事に明確な指針をもって書かれている。また、そうでなければ語れなかったのだという事がよくわかる。

 それに比べれば現在人は、自分の内なる声をきかず、何かにつけて外部に文句ばっかり言っているような気がする。昔何かで読んだ言葉に「文句を言うのは自分で選んでないからである」というのがあったが、一番の原因はここにあるのだと思う。

 現在、特に日本は顕著なのかもしれないが、今はあまり自分で選ばない時代である。何故ならば、たいていの事にはマニュアル(自己啓発本なども含めて)があるし、学校や社会ではあらかじめ「こうしなさい」という指示がある。分からない事があってもネットで探せば、どっちが得か損かといった事が書かれてある。
 自分の頭で考えず、自分で選ばず、だから内面は空っぽであり、出来ることは文句をいうだけしかない。例えばファッションや音楽にしても、どれだけ自分の意志で選べているというのだろうか。メディアや友達のだれかの影響ではないのだろうか。

 選ぶ必要がない、または巧妙に選ばされる社会。そもそも日本では幸福というものもあまり選ばせてないような気がする。子供に有名大学~就職~家建ててといった、あたかも幸福が決まっているかのようなワンパターンの押し付けは強すぎるような気がする。

 また貝原益軒を読んでいると、西洋化する前の社会では、比較的それぞれの暮らし方や幸福感というのは、わりと明確だったように思える。しかもあまり物質に頼らない(当時は無かったからだし)方法である。
 例えば「料理」ひとつを取っても、それをどう考えるかはさまざまだ。時間のロスや面倒な事という考えもあるが、逆に作ることを楽しむこともできる。古人はそういった生活のもろもろを、苦労であると同時に楽しもうとしてきたのではないかという気がする。

 だが西洋化した社会(近代化した社会?)、中でも最近の資本主義社会では、すべてが損か得かで判断するという方向性が強すぎる。それは一見、合理的に見えるが近視眼的であり、局所最適化はするが、全体最適化に失敗するような問題を多く引き起こしている。
 ひらたく言えば、いっとき流行った「成果主義」だが、私は「成果主義」で成果がでたという話を聞いた事がない。この原因はさまざまで説明すると長くなるので端折ると、ニンジンぶら下げて煽るような短期的な方法は、結局のところは効果どころか問題を引き起こす方が多かったという事を示している。


 話が脱線しまくったので締めようもないのだけど、つまりは食の話題から、現在の「選択していない」という病に考えがたどり着いたという事が言いたかったのである。もしも自分がクリエイターならば、作ることは最大の選択である。やっぱり「Everyone, Creator」でないとダメなのかもしれない。そういえば、料理を作ることはもっとも身近な「Creator」だったね。