2014年7月31日木曜日

「佐世保高1同級生殺害事件」についての所感

 正直言ってこの事件には特に興味もなく、またよく分からない点も多い。だからもともとは記事を書く気はなかったのだけども、この事件に関するマスコミや各種の反応があまりにも、噛み合ってないような違和感を感じてどうしようもなく、後に色んな情報で印象が上書きされるために、あえて少ない情報時点での私の所感を書いておくことにした。


<事件報道に関する違和感>
この記事を書く気になった原因である、事件報道に関している違和感についてまず説明する。まず全般として感じるのは、どうもニュース情報(新聞社、2ちゃんとかの掲示板なども含め)てデマ情報が多いような気がしてならないことである。一時は掲示板上で殺人中の書き込みがあったとかいうのもあったが、それはデマらしいという話になっている。それに犯人に対しても、容姿端麗だの頭脳明晰だの文武両道だの、事件に直接関係なさそうな余計な情報が多すぎる。うまく説明できないが、他にも疑問を感じた理由はあると思うのだが、私なりの乱暴な結論をいうと「信頼できる情報がない」というのが現状だと思っている。

これは一般的な刑事事件なので、あえて情報をかく乱している、または警察(検察?)がわざとミスリードになるような誘導をしているとは考えにくいのだが、なんかちょっと変な気がしてしょうがない。だから最初に述べたように、私はこの事件についてよく分からない。判断するだけの情報がないと考えている。

ようするに事件の詳細ではなく、かってに犯人の印象についてのデマゴーグだけが、どんどん増殖しているだけなのだ。逆に、むしろ事件当日の時系列でみた情報などといった、本当に事件を示す情報はまだない。だから現時点での解は不明であるとなるべきだが、既に犯罪心理学だの家庭の事情だのといったおかしな推測が飛び交っている。

最近読んだ「なめらかな社会とその敵」という本のテーマに「複雑なものをありのままに見ることはできないか」というのがあったのを思い出したが、いまの事件報道に対する現象は、複雑でわけわかんないので、勝手に簡単に解釈して締める事にしました・・・的なものである。だから正直言ってイラッとくるし、読む気もあまりしない。


<事件へのコメント>
かと言って、何にも事件に対しる事を書かないのもつまらないので、ちょっと気になった点だけを「超推論(あてずっぽう)」でコメントしておく。犯人は殺した相手をまるで解剖するかのように切り刻んだ、もしくは昔から解剖に興味を示していたといったような話をよく聞くが、仮にそれが事実だとするならば、私はその行動にこのような解釈を割り当てる。

解剖とは秘密を暴くことである。本来は血にまみれたような内臓を美しく装った皮膚や衣装をはぎ取る行為と解釈できる。これは虚構を暴くとも解釈できるし、不確かな命がどこから生まれているのかを解き明かそうという試みとも読み取れる。

この行為だけを聞くと、なんとなく犯人は虚構に満ちて信じられなくなった世界を、自分の手で暴き出そうとしたのかな・・・。話だけ聞くと、私にはそんな風に思えた。

だから言いたかったのは、安易に印象操作されずに、もしも事件について考えるならbが、あくまでもありのままを考えて欲しいという事である。


<余談:酒鬼薔薇事件を思い出した>
これらの報道をみながら、過去に酒鬼薔薇事件について書いたことがあるのを思い出した。当時は私は事件に興味を惹かれて、犯人の書いた脅迫文をよんだのだが、あまりにもニュース報道で受ける印象とは違っていて驚いた。ニュース報道だと犯人は怪物かのように書いているが、脅迫文から受けた印象は「怪物になろうとして成れなかった人間」にしか見えなかった。あまりにも人間くさいように感じたのを今でも覚えている。

2014年7月27日日曜日

くたばれSNS

 まず初めに、「くたばれSNS」などと言ってみたもたが、これは良いタイトルが思いつかないので、とりあえず言ってみただけである。私は本気でSNSを全滅させるべだとか、SNSをやめる運動を開始すべきだ・・・そうだ有志をFaceBookで募ろう、みたいな事は思ってない。
 しかし、ときどきSNSでの過剰さ、パラノイア的というか強迫精神症というかが気になる事がある。そしてこの問題を考えてゆけば、
本来は多様性を育てたり維持したりするはずのSNSが、実は逆の役割になりかねないのではないかという懸念があり、ちょっと違う視点でSNS批判をしてみようと思う。


1.まず、何が気に入らないのか?
 SNSの問題として良くあげられるのは、一日の大半がSNSに費やされて人生の浪費じゃやないかというものをよく聞く。有名な話はFaceBookの「いいね」ボタンを押さないといけないというプレッシャーがある。これは友人が書いたFaceBook記事に「読んだよ、いいね」というチェックを押してあげないといけないのではないかという、プレッシャーである。特に日本人だと「あ・うん」呼吸を優先するので、こういうプレッシャーは強いと思う。「いいね」ぐらい大したことではない、しかしこれは数十人だとどうか、とういて記事を読み切れないし、中にはツマラナイものもあるだろう。でも知り合いだと批判もしずらいといったジレンマが起こる。
 だから昔みただれかの漫画(短編だったかな?)では、N氏は毎朝起きると、FaceBookのすべての記事に「いいね」をつけてくれるボタンを押すのを日課としている・・・といったような笑い話がでてくる。(じつはこういうツールが既にできているかもしれないのだけど)
 これがよくあげられる問題である。しかしそれ以外に最近私は「共有(シェア)しろ」というプレッシャーというのが、だんだん世の中で強くなってきたなと感じるようになり、ほかにも色んな問題(ウザさ?)が多く発生しているように思われる。


2.SNSの具体的な問題
 1.で書いたようなSNSでの不快さについて、気が付いたものを挙げてみると次のようなものとなった。基本的にはしつこいというか、押し付けられているという感覚からくる窮屈さ(プレッシャー)である。

<SNSの窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
(3)「シェア」プレッシャー
(4)「ぼっち」プレッシャー

 (1)はLINEに代表される、早く読めよというプレッシャーである。LINEは既読か未読かわかるので特に強い。2,3日放置すると友達が減るかもれない。

 (2)は最初に説明して、FaceBookで「いいね」ボタンを押せというプレッシャー。お世話になった人に「いいえ」は押しにくい。

 (3)は最近、Gメールとかを使っていたりして感じるようになったのだが、Google+とかで「あなたの意見をシェアしませんか?」的なしつこい押しでウンザリさせられる事が多くある。ほかのメディアでも似たような事があるが、最近は共有しろというプレッシャー、言い換えると「なんでおまえ共有しないの? ケチか?」とやんわり詰られているように感じる。

 (4)はSNSで知り合いが少ないと、変な人かさみしい人と思われるのじゃないかというプレッシャーである。例えばTwitterなんかは顕著で、フォロワー多い方が偉い的ないびつなステータスが生じている。

 しかし、ここまで書いていて気が付いたのだが、このSNSのプレッシャーというのは、全てが身近な現実世界であったものばかりだ。書いているうちに、なんだか、人間の業(カルマ)というか性(サガ)を見ているようで、ちょっと悲しい気分になった。例えばこれを田舎の暮らしに置き換えると分かり易い。

<実世界の窮屈さ>
(1)「読んだ」プレッシャー
 >回覧読んだか? 向かいの○○さんの嫁の話を聞いたか? 的なものとか

(2)「いいね」プレッシャー
 >おまえも、そう思うだろう、なぁ? 的なちょっとくどい人が身近にいるような感じ

(3)「シェア」プレッシャー
 >おまえんちのあれ良い物だねちょっと使わせてよ とか

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >なんか田舎で浮いちゃっている気がして不安的なものとか

 なんか例えはもう一つになってしまったが、これらは全て「地域共同体」や「会社」「学校」といったローカルコミュニティの課題に置き換え可能であり、完全に当てはまる。よく考えると、本当に全部が人間的な日常的な課題ばかりだ。

 という事は、これらの大部分は技術が生み出したものというよりは、現実世界をモデルに作られたがゆえの仮想世界上での制約だという事がわかる。だから、こういった問題を根本的に解決するには、まず現実世界での「ウザさ」というものと、我々がどう向き合うべきかというテーマについて考えなければならない。つまりは、次のような深い命題に辿り着く。

「日常生活をウザくもなく、寂しくもないような、快適な暮らしや付き合いをどうやって築くべきか」

 しかしこのテーマは、壮大すぎて明らかにこの記事や私の理解を超えてしまうので、ここでは語らないことにする。
(おもいつきで書き始めた話から、こんな根本的なテーマが発生するとは、実はちょっと驚いている・・・)


3.SNSは何が違うのか
 2.ではSNSの問題は、実は現実世界と同じであると書いた。ただし、すべてがそうだとは言い切れるわけではない。今まで無かった新しい道具は、必ず新しい問題を生むというのは良くあることだ。そこで思いつくものを列挙してみた。

<SNS独自の課題>
(1)拡散範囲が広い、全世界
(2)履歴が残る、俗に言う黒歴史とか
(3)匿名・実名の混在社会

 SNSを実社会をモデルとして仮想世界の一つだと考えた場合に、SNSならではの課題を挙げたのが上記である。

 実をいうと(3)の匿名性については、あんまり影響が小さいのかもしれない。現実世界でもよく見ると、詐欺だのカタリだのあるし、作家はペンネームを名乗るし、サラリーマンは役職などのニックネームで呼び合う。実は実名などというものは、お互いを識別できる以上はそれほど意味がないのかもしれない。

 むしろ、もっとも重要かつ課題として注意すべきなのは、(1)の全世界に拡散するということだと思っている。そしてこれが、本当に書きたかったこの記事のテーマである。(途中で脱線しまくったせいで話が見えにくくなったけど)
 だから、まず私的な例からこの問題について説明しようと思う。


 そもそも私が気に入らなかったのはGoogoleとかでしつこく「共有しませんか?」と聞かれることだった。そして、それが繰り返されるたびに「なぜに奴らはそれほど共有させたがるのか?」「共有する事にどれだけ意義があるのか?」といった事を考えるようになった。

 そして、ようやく何故自分があれほど、共有しろというメッセージに対して不快なのかがやっとわかってきた。彼らが共有しろとプレッシャーをかけてきているのは、私の持つ個人的な情報や知識や体験、あるいは繋がりである。これらは、言ってみれば私の識別情報の一つだともいえる。私が「私」であるという理念やアイディンティと言い換えてもいい。だからこそ、私は自身の識別情報を公開するのを無意識的に嫌ったのだろう。

 これは感覚的なもので、言葉で説明するのは難しいのだが・・・

 私が理想とするイメージは「多様性に満ちた世界」である。これをメチャクチャ大雑把にいうと、所々に「適当さ」「冗長(非効率な)」「気まぐれ」的な物があって、それも良いんじゃない的な世界である。そして、それはすなわち「自然界」の姿だと考えている。

 自然界というのは、進化のしくみや、マイナーな特殊な生物、棲み分けの形等々といった事に興味をもった人ならば、すぐにわかって貰えると思うが、「ものすごく完成された緻密な環境」であると同時に、そこに「至る経緯はものすごく適当」である。ここでいう適当というのは、仮にサイコロを振りなおすように進化をやり直したとしたら、二度と同じものができるとは思えないという意味である。

 「適当だ(多様性)」というと、これは悪い事のように思う人がいるかもしれないが、これは凄い事であって、だからこそ生物や人類が生き残っていると言ってもいい重要なポイントである。危機的な事柄(天変地異、災害、気象変化、疫病等々)があっても、生命が残っているのは、簡単に言うと「色んな所に、色んな奴がいたから」である。

 ここで話を戻すと、私はSNSの文化(シェアしろという脅迫)はインターネットでの世界への伝播性が強すぎるがゆえに、「多様性を失わせる」方向に進ませかねないのだと懸念している。

 例えば、もう少しテクノロジーが進んで、私は可能なほぼあらゆる情報を共有したとする。なお必然的に私は、自身の情報を共有する為に公開し、同時に他者の情報を共有する為に取り込むとする。
 そうなった世界では、結果的にどいつもこいつも似たような奴ばかりいるみたいな、つまらない停滞した社会になりかねないのではないだろうか? もしも「人は本来影響されやすいものである」、だから付き合う人に染まってだいたい似たような人になると考えるならば、色んな色を混ぜすぎたら結局は黒っぽい色になったというように、均質で似たような人ばかりのような結末にたどり着くのでないかという予感がする。
 だから「おまえも、シェアしろよ、オラオラ」的なノリに対して、「勝手にいっしょみたいね決めつけるんじゃねーよ」的な反感を感じるのである。

 しかし、私は別にSNSを全否定するわけではない。むしろ、あって便利だし貢献している部分も大きいと思う。問題なのはSNSに流されてしまう事だ。SNSに流されて似たような一人になるのではなく、もっと独自でワガママであってもいいんじゃないかと思う。

 だから、提案するのはSNSの各種プレッシャーにまけずに、もっと歪で偏屈で気まぐれであっても良い、むしろその方が良いんじゃやないかと思う。

<対策「SNSプレッシャー」>
(1)「読んだ」プレッシャー(例:LINE)
 >気が向かないから見ない

(2)「いいね」プレッシャー(例:FaceBook)
 >つまんないのは「いいえ」

(3)「シェア」プレッシャー
 >秘密があってこそが人生、わざわざシェアする情報はあまりない

(4)「ぼっち」プレッシャー
 >孤独に歩め、悪をなさず、求めるところは少なく・・・的でもいいじゃない


2014年7月20日日曜日

「アクト・オブ・キリング/映画」を観て

 ついに「アクト・オブ・キリング」を観てきた。この映画はパンフレットの記事を偶然見かけた時に、その異端な内容から物凄く興味を惹かれていて、是非とも映画館へ行かなければと思っていた作品だ。たまにこんな風に是非見なければ、と思う映画はあるのだが、私はついつい面倒で見逃してしまうことが多くて後悔することも多い。今回はちゃんと見れて良かったし、内容も良かった。これは、ぜひお勧めして見てほしい映画なのでこの記事を書くことにした。

「アクト・オブ・キリング」は60年代のインドネシア大虐殺(100万人規模)をテーマとして、当時の人々にインタビューをして作り上げたドキュメンタリー映画である。大虐殺事件は複雑で解明されていない部分も多いようだが、説明の為に大まかにだけまとめると、次のようの事件である。
1965年にインドネシアのスカルノ大統領のもとで、陸軍の将軍がクーデターを起こしたとして、「スハルト少将(後の大統領)」が鎮圧する。そしてスハルト少将はクーデターを共産主義者によるものとして、インドネシア全般の共産主義者又は敵対者を次々に殺戮してゆき、ついには大統領も殺害して全実権を手中にしたのちに自らが大統領になって独裁体制を引くという事件である。なお実際の虐殺は、民兵とプレマン(自由人と呼ばれる地元のギャング)により大部分が行われたとされている。

ただしこの映画が特殊なのは、虐殺事件を調査する為に加害者側(プレマン及び民兵など)と直接話をして、さらには加害者側が当時の再現映画として作ろうとしたことである。そして「アクト・オブ・キリング」は、この加害者側が作る映画のメイキング映画という形式で様々な話が展開されてゆく・・・!!

まず、これが普通有り得ない!! 虐殺事件といったものは通常はタブーとされていてインドネシアのように加害者側が支配しているなかでは、話をするだけでも難しいのだが、なんと当時の実際に虐殺を行った加害者が役者となって再現映画を作るのである。まずこの試みが前代未聞である。
ただしオッペンハイマー監督は、最初からこのような計画を立てていたわけではないらしい。普通にドキュメンタリー映画として虐殺を取材していたら、軍から脅迫をうけて中止となった。そこで仕方なく加害者の話を聞こうとしているうちに、再現映画を作ってみてはという話になった。これが話だけ聞くと理解できないが、その背景としては加害者側は現在でも実権を握っており、残酷な虐殺者ではなく、一種の英雄のように扱われているという現状があるから出来たことである。よって映画は加害者側の、過去の栄光を再現して多くの人に自慢する、もしくは宣伝するというような目的にて作られる。だが実際に再現映画を作るうちに加害者側の認識も複雑なものへと変わってゆく・・・。


おっと、映画の説明だけでこれだけ文面を割いてしまった。つまりはそれだけ特殊な映画であり、おそらくは今後もこんな映画は二度と作れないのではないかと思う、奇跡のような作品である。映画全体としては善悪が逆転した世界によって行われる、ブラックコメディーのように物語が流れてゆく。スプラッターほどのグロいシーンはない(いくつか再現映画のところで血とかあるけど)、だから普通の人でも見れるだろう。時間は2時間ほどだが、異世界のような話に引き込まれて時間が長いとは思わなかった。あらすじ的な説明はこれぐらいにするが、あとは実際に観て欲しい。そしてどう感じたかを教えてほしい映画である。


私はこの映画をみて、どんな事を思ったかというと、大きくは2つの事を考えていた。。

1つは、20年以上前(まだパソコン通信の時代)に、ネット上で世界平和について語る人がいた。それ自体は別に悪い事ではないが、私は彼が語る言葉にどうしても違和感を感じてたまらなくなって、掲示板だと思うがコメントを付けた。

そこで当時の私が書いたのは、世界の紛争などを考えるのはいいが、まずはもっと身近な事を理解してくれという事だった。例えば当時の身近にいる老人は第二次世界大戦の生き残りであり、彼らの数人に一人は大陸で何人かの人を殺してきたのだ。普段の付き合っている礼儀正しい、善良そうに見える人々が、実際に殺し合いをしてきた。あるいは一方的に殺人をしてきているのかもしれない。その事実を理解して、そのうえで語らないとあまりにも空虚すぎる・・・と。確かこんな意図のような事を書いた気がする。

この映画の中で中心人物として語る、1000人を殺したというプレマン(ギャング)は映画上では陽気で人好きのするような人物である。孫もいて家族や友人を愛している、ごく普通の人間である。そして彼の周りにいる当時の虐殺者、あるいは現在も権力を握っている民兵なども、多少はやくざなところがあったとしても、基本的にはごく普通の人間である。その普通の人間が、簡単に虐殺者になったという事実、それらを、この映画を見ると有無を言わさず理解させられる。

たまたま最近は「永続敗戦論」や三島由紀夫の本を読む機会があって、日本の戦争について考えることが多かったから、余計にこの事実について改めて考えさせられた。それは日本では、いかに「戦争の事実」「敗戦の事実」が忘れ去られてきたかという事。しかも、むしろ「あたかも無かった事」「悪い夢」「済んだ事」といったように消し去ろうとしてきた事だ。
なんか、こういった事を書くと「ネトウヨ的な人」が、永久にアジアに謝罪しろというのかと非難しそうな気がしたので、一応補足しておくが、私はそんな意図で言っているのではない。そうじゃなくて、我々はそもそも「これほど危うい、ちょっとしたきっかけで、やらかしてしまう」、そういった存在だという事を忘れるなといういう意味であり、故に第二次世界大戦の事も、すべて忘れるわけにはいかない部分があるという事である。
そして、この「我々の危うさ」こそが、まさに現在の日本で海外から懸念されていることであり、私が安倍総理に懸念することである。


2つめは、共産主義とはいったい何だったのかという事だ。ちょっと前に三島由紀夫の「若きサムライのために」を読んでいて、全共闘について書かれている部分を読んだ際にも思ったのだが、現在に住む私にはどうしても理解できない部分が多い。
・なぜ、当時の人はあれほど「共産主義」に入れ込んだのか?(革命としての破壊を必要とするほどに)
・また、どうして当時の人はあれほど「共産主義」を恐れたのか?

ちなみに私は一般教養として一応マルクスも代表的な部分だけでも読もうと試みた事があるのだが、すぐにイラッとして投げ出してしまった。合う合わないの問題なのかもしれないが、私にはマルクスという奴が、変に理屈っぽくて回りくどい(無駄に引用多いしね)文に思えて「こんな鼻持ちならない奴の話など聞けるか!」といった風に思ったのだ。
だから私には、なぜマルクスがあれだけ多くの人々を動かせた理由が分からない。例えばこれが、ヒットラーならば簡単に理解できるのだけども。まあ個人的には、両方とも問題を異常に簡略化して極端な3段論法的なものでシンプルに美化しただけの、戯言としか思えないのだけどね・・・。

そして同時に、なぜ当時は共産主義があれほど恐れられたのかということだ。「アクト・オブ・キリング」でも描かれているように、共産主義者だと言えば、無条件に殺してOKとすんなり通る処が分からない。ちなみにこの映画で描かれている虐殺を行った政権は反共という事で西側には支持されてきた。当然日本もこの虐殺には目をつむって支持をしてきたのだという事実も忘れるわけにはいかない。


しかし、なんというか、むかし、近代史について幾つか読んでいたら、あっちこっちでの虐殺の話ばかりが多くてなんだかブルーになったのを思い出した。アフリカないし、イスラエル然り、近い場所では北朝鮮とか。そういえば過去に友人が、日本というのは例え猫の死骸ですらすぐに片づけられる、世界で最も「死」が隠される社会だと言っていた。そういった忘れそうになっている物を思い起こさせる映画である。

<参考リンク>
・この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/

2014年7月17日木曜日

「国民は馬鹿である」VS「我々はカモである」

思い返せば、去年に「TVは馬鹿が見るもの」という文をかいたのだが、最近のニュースで幾つか、政治家や官僚さらにはマスコミ側は「国民は馬鹿である」と思って行動しているのが、ありありと読み取れるものがあって、さすがにちょっとイラッとした。ゆえに似たようなテーマになるが、この点について書こうと思う。


まず一つ目にイラッとした事は「取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶」という記事で、世界的にも稀な奇病との闘病をつづけているミヒル君に対するテレビ局の取材で、苦しいながらもなんとかポジティブに行こうとする姿に不満で、なんとか「死に怯える不幸」の絵を取ろうと、ミヒル君に対して酷い態度で取材したという事だ。
細かい点は除くが、パワハラ面接的といえばいいのか、将来の希望を語る彼に対して、「でも、もうすぐ君は死ぬよね」的な言葉でインタビューに臨んで、最後には父親に怒鳴られたらしい。
(ちなみにミヒル君は本当に珍しい奇病で、他のイギリス・ドイツ等のテレビ局などから取材を受けたことがあるらしいが、日本のテレビ局のように不快な体験をした事はないという)

もう突っ込みどころが多すぎて困るぐらいなのだが、日本のテレビ局に対するこの件での問題点を明らかにしたいと思う。
1.少年に対する、残酷かつ無礼な振る舞いの数々
2.そもそも真実報道するつもりがない
3.そして視聴者は馬鹿だという過程を前提に行動している

上記1はわざわざ説明不要だと思うので省略するとして、2と3について説明したい。
「2.そもそも真実報道するつもりがない」と言うのは、仮にTVスタッフは取材に赴く前は「少年は悲嘆に暮れている」と思っていたとしよう。それは別に構わない。そして実際に取材すると、少年は苦境ではあるのだが負けずにポジティブに立ち向かおうとしている事がわかった。
私からすると、じゃあ、それをそのままTVに乗せればいいじゃないかと思う。いい話が聞けてよかったじゃないかと思う。そもそも取材前の想像と現実が違うことはあって当たり前のことだ。その為に、わざわざ現地まで取材に出かけているのだからなと。

だが彼れはそうしなかった、それが「3.そして視聴者は馬鹿だという過程を前提に行動している」という事だ。TV局のスタッフ達は、親切にも視聴者の知能レベルを気遣ったらしい。「苦境に立ち向かうポジティブな勇気」というような高等な概念は、日本の視聴者には少し難しくて理解できないかもしれない。もっと分かり易く「お涙頂戴の話」にしよう。そうすれば自分より不幸な人々が居ることをしって視聴者は安心し満足するだろうと・・・。

正直言って「これほど胸糞の悪い話」というのはそうそう無い。しかも、これだけ馬鹿にされながらも、いまだにテレビを見る視聴者が一定数以上存在する。だが、あるいは私は誤解しているのかもしれない。実はテレビの視聴者は高度な知性を持っていて、テレビ局側が仕掛けるあらゆる誤報を見破るという知的ゲームを楽しんでいるのかもしれない、いやあるいはその逆か? もはやこれらは、アメリカンジョークよりもブラックだ。


と言ったような事を考えているうちに、「社民ポスター「パパは帰ってこなかった」」なのだが・・・。いや社民党の言いたい事は分る。「集団的自衛権」について細かい理屈を述べるより、こうやって男は戦争で死んでいく未来になりかねないのだよと、イメージを伝えた方がきっとみんな分かるよねって、といった気配り。

でもこの言い方って、最初に挙げたテレビ局の問題と同じだ。大半の国民はちょっとでも知的な議論にはついてこれないから、絵でも描いてイメージ伝えないとむりだよねとか、つまりは「国民は基本的には馬鹿である」という前提に立っているのが露骨に伝わってくる。まあ、これにさらに輪をかけて、国民は数もまともに数えられないし、昨日の事も覚えてないよね・・・というような前提に立っているのが、現在の与党(安倍政権)なんだけども。


ここで私は一言いいたい「相手の事を馬鹿という人が、馬鹿なのですよ」と。確か小学校あたりで教わった気がする。そして、この言葉には真実があるようだ。相手の事を馬鹿だと仮定する人は、馬鹿を相手にする故にそれ以上進歩せず、少しずつ退化してやがて馬鹿へと至る。あるいは最初から馬鹿だったという事もあるかもしれない。あるいは「すべては馬鹿になる」とでも言うべきかもしれない。

いぜんにビデオニュースで「東浩紀(哲学者)」が、確かこんなような事を言っていた。
”政府や官僚達は、国民は多少愚かなぐらいが扱いやすくて丁度良いと思っていたのかもしれない。でも最近の若者の中には「AKBが最高の芸術だ」と思い込むような輩も出始めて、さすがにこれではまずいと思い出したのかもしれない”

この言葉に私も同感する。彼ら(政府や官僚達+企業家達)は、勤勉で余計な疑問を持たない扱い易い人材が、低コストで増えれば良いと思ってきて学校改革などを繰り返してき。(どこまで明確に意識してたかは別として) その方が、政治に余計な首を突っ込まれていい加減な仕事だと指摘される心配もなければ、マスコミにつられて期待通りに消費してくれるだろうと。

ちなみに私は、しばらく前にあった一時の「不倫ブーム」的なマスコミのあおりなどは典型だと思う。(最近はあんまりテレビ見ないのでしらないけど) ようは彼らはとにかく消費してほしいのだ。景気をあげるには、主婦だろうがなんだろうが、不倫でもなんでもいいから恋愛して、どんどん遊びにいって消費してくれればいいと心から願っていたのだろう。私はそれらを見てぼんやりと「ああ、ついに恋愛も露骨にビジネスになる時代がきたのか」と思ったのを覚えている。(同時に「他人事だとおもって適当な事ばかり言いやがって」とも思ったが)

そしてその長い彼らの成果が出ているのが、現在の日本である。見事に馬鹿ばっかりの国になったのではないだろうか? 馬鹿であふれた馬鹿の国。馬鹿のエリートが官僚に成り、馬鹿に選ばれたのが政治家ならば、もう、どこから突っ込んでいいのか分からない。原発ぐらい爆発してもおかしくはない。

ある意味、長い時間をかけて作り上げた究極の馬鹿が、現在の与党=自民党であり、安倍総理なのかもしれない。ゆえに彼らは手ごわい、馬鹿のエキスパートであるが故に、馬鹿を知り尽くしていて先導する術に長けている。その戦術は幼稚だが強力だ。

自分に都合の悪いことは忘れるかとぼけて徹底的に誤魔化し、相手のちょっとした揚げ足は徹底的に持ち上げまくり、そして国民がちょっと目を離したスキ(例:オリンピックとはワールドカップとか等)に密かに重要な政策を通す。

NTTやマスコミを恫喝または懐柔し、大手既得権益企業の要望は全部聞いたうえで、負担は全て国民に回す。それでもまだ足りない処があれば、紛争危機をあおって全員の目を外に向ける。なにせ、憲法すら守らなくて良いことにしたのだから、国内で彼らを縛るものは何もない。その気になればすべてやりたい放題である。都合悪いことがばれそうになっても、そこは抜け目なく準備しておいた「秘密保護法」がある。もはや無敵状態になりつつある。

だが悲しい事に、彼らがいくら無敵だと言ってもそれは所詮は国内においてのみである。例えば集団的自衛権などはアメリカへのごますりでしかないし、アベノミクスについても日本の経済破綻を止めることはできない。(なんせ目先の都合や思い付きでやっているだけだから、当たり前なのだが)故にこの馬鹿の楽園も永久に続くわけではない。
しかも性質が悪いことに、この馬鹿の国は核も持っているし、まだ世界第三位の経済大国でもある。馬鹿が勝手に沈んでゆくだけならいいのだろうが、また世界を相手に大騒ぎを起こす可能性は否定できない。


<余談>
そういえば、この前に「永続敗戦論」を読んでいて思ったのだが、安倍総理が代表するような日本がアメリカに対してやっている事というのは、いわば究極の「片思い」(しかも、ややストーカーチック)である。

アメリカは別に日本の事を嫌ってないのかもしれない。でも別に恋愛しているわけではなく、いわば「ビジネスライクに付き合おうよ」と言っている。だが日本側は「私だけを見てほしいの」といって付きまとい、色々と貢いだりする。(集団的自衛権とか) さらには嫉妬から他の女に焼き餅を焼いて、色々と邪魔をする。(中国、韓国への挑発的な行動とか)
そしてアメリカから「そろそろお前も自立しろよ」と言われても、そんな生活考えられないと駄々をこねるとか・・・。

といった感じで、恐ろしい事に片思いに例えると、日米関係がほぼ全て説明できてしまうような気がしませんか?

<参考>
・取材された難病少年も静かな怒り、日本の海外ロケの無茶
http://webronza.asahi.com/global/2014071400001.html

・社民ポスター「パパは帰ってこなかった」
http://www.asahi.com/articles/ASG7J5KFBG7JUTFK00V.html

・TVは馬鹿が見るもの
http://conversationwithimmortalperson.blogspot.jp/2012/03/tv.html

2014年7月14日月曜日

「永続敗戦論/白井聡」を読んで

 「永続敗戦論」はvideo news「戦後レジームからもっとも脱却できていないのは安倍総理、あなた自身です」を見た時に、著者による「永続敗戦」という分析を聞いて、思わず購入した本だ。

 ちなみに私はいわゆる「日本論」的な書籍は、内容がたいてい薄っぺらくて、価値がないと考えて、あんまり読まない派である。乱暴な言い方をすれば、日本論的な書籍は「日本人向けに書かれた日本人目線の日本人論」であり、たいていは学校や会社ないの内輪ネタ程度の意味しかないものが大半だからだ。唯一面白なと思ったのは「日本辺境論/内田樹」ぐらいである。
 しかし「永続敗戦論」で描かれた分析は、そういった書籍とは一線を異なる、独自の視点で書かれたものであり、是非とも多くの「日本人」に読んで欲しい書籍である。


 この本の具体的な内容を解説するのは難しいが、興味を持って読んでみたいと思うかもしれない人のために、なんとか試みると・・・

 この本で述べているのは、3.11(原発事故)により明らかとなった日本社会の綻び、特に問題が生じてもだれも責任を取ろうとせず、何もかも誤魔化してうやむやとしているような構造について考察し、いったいどうしてこんな社会になったのか、それを支えている政治家および国民の思考などについて分析を行った内容である。

 そして、それを紐解くには、第二次世界大戦の敗戦(終戦とはあえて呼ばない)の意味をもう一度問い直し、その後の政治および日本の歩んできた道のり見直すことにより、現在抱えている問題を考えようというものである。
 日本で「敗戦」と呼ばずに「終戦」と呼ばれることのすり替えられた意味、そして敗戦時に保存された「国体」とは何だったのかという事、そこから見えてくるのは「本来のあるべき姿を直視できてない日本人の姿」であり、そこから生じる各種の歪みである。

 中でも序章にあたる「私らは侮辱の中に生きている」は圧巻である。ここでは3.11原発事故について感じていた、怒りと、どうしようもない下劣な誤魔化しに対する絶望感といった多くの事が、代弁されている。

 まずこの序章だけでもぜひ読んでもらいたい。ちなみに難解な内容について語っているが、文章や解説はきちんと順を追ってかかれており、難しくて理解できないようなものではないので、普通に読める本だと思います。

 読めば、私たちの多くが認めたくなかった「抑圧されて歪んだ日本の精神構造」について知ることになるでしょう。

<参考>
・戦後レジームからもっとも脱却できていないのは安倍総理、あなた自身です

2014年7月7日月曜日

信頼の価値と、不審のコスト

 今回のテーマは、「信頼」というものはどれだけ価値があって、むしろ「信頼」が無い事に対して、この社会はどれだけコストを支払っているかという話である。ちょっと大きなテーマで掴みどころがないように思えるが、こんな事を考える発端となったのは、知人(A氏)との何気ない会話からだった。

 A氏は年金をもらっている老人だが、年金以外に収入がなく、マンションに一人で暮らしている。この前に私はA氏のマンションで食事をしていた際に、年金以外に何か副収入でも入る事を始めたらどうかという話題になった。
 その時にA氏が、マンションの空き部屋を、例えば海外から留学や働きにきている外人に貸し出せたら良いのにという話になった。でも最終的には、実際に行うとなると難しいだろうという結論になった。理由は、見ず知らずの他人を住ませた場合に、盗難であったら破壊であったり等といったトラブルを想定しないといけないからだ。例えば親戚や古くからの友人とかならば成立するかもしれない、しかし面識のない他人では到底無理だ。つまりは「信頼」がないと出来ない事だという話になった。

 そう言った話をしていて、思い出したのが、政府がやっている年金や少子化の対策についてである。長年政府は「年金」「少子化」について細々とした色々な対策(やる気があるのか、ごまかしているだけか微妙だが)をしているが、ずっと的外れな事をしているという気がしてならなかった事だ。
 どこに違和感を感じていたかというと、私はこの2つの問題の根本にあるのは「信頼」の問題だと思っていたからだ。つまるところ、人々は現在の政府の姿をみて将来に不安/不審を感じていて、5年後・10年後にちゃんと仕事があるのか、生活できるのかといった事をどこかで疑っているという事だ。
 未来に不安があれば子どもを作りたいとは思わないだろう。もっとも解りやすい例は年金で、将来貰えないとおもっているから、なかなか若者は払おうとはしない。それでますます資金不足になり、さらに不審をまねくという負の連鎖となっている。本来政治に求められていたのは社会に対する信頼の回復であるが、どうみても政権担当者はそんな事を考えているような素振りが見られない。

 そこでふと考えたのが、はたして「信頼のコスト」とはどの程度の物だろうかという疑問だった。しかしこれは量るのが難しい問題である。ゆえに、「完璧に近い信頼がある社会」というものがもしあったらという事について想像をしてみた。具体的には次のような社会だ。

<完璧に近い信頼がある社会>
・腐敗が少なく、民主的なプロセスで法治が実現されており、アンフェアな事例があまりない。
・経済的には成熟しており、急上昇/急降下の可能性が少ない。
・企業が社会的な責任を理解して運営されている。
・地域コミュニティがしっかりしていて、互助の関係が成立している。
・個人のモラルが高く、犯罪が少ない。

 もしも上記のような社会が存在したとしたら、どれだけ現在の社会的で日常的に行われている無駄なコストが無くなるだろうかという事を考えてみた。

<減ると思われるコスト>
・官僚/政府による無駄な事業コスト、例)利権団体へのバラマキ事業など
・セキュリティにかかるコスト、警察や犯罪捜査、刑務所及び関連法制に関わるコスト
・目先の利益優先によって産み出した公害等のリカバリコスト、例)原発事故の除染コストとか
・コミュニティによって支える事で対応可能なコスト、例)老人介護、教育関連など
・腐敗がなくスピーディに進めば少ない全般的な政治コスト

 こうして考えると、改めて現在社会というものは、ほとんどが「不審」に対する対策費で成立しているというのが良くわかる。順等に法的や理性的に考えて物事が進めば、スピーディかつフェアであるような運用ができるのだが、現実的には利害対立で足をひっぱりあい、さらには足をひっぱりあったり不正を監視する為の方や組織をつくってなどという形で、さらに追加コストがどんどん発生してゆく。
 詐欺などの悪さをしないように法律をつくり、監視して、本来は簡単ですぐ済む仕事がどんどん大きくなって無駄なコストを産み出してゆく。例えば、食品衛生についても、もしも各自の品質が信頼できるならば手続きが大幅に簡易化されてコストが下がるのではないだろうか。

 ざっくり考えると、もしも上記に挙げたような相互の信頼がある社会ならば、現在の社会の運用コストの7割ぐらいが不要になりそうな気がする。それだけ信頼というものは価値があって、喪失した場合の代償を払わなければならないという事ではないだろうか。
 しかし近年の政治や経済連などの、いかにも目先だけで誤摩化してやりすごそうとしているような政策は、ますまずお互いの不審を増長させ、多くのコストを産み出しそうな気がする。

 おそらく上記のような比較はシュミレーションが可能で理論的にも十分に証明できると思う。かと言って、上記のような理想世界に近づけるのは困難だろう。個々の人間や組織のモラルを向上させる事はとても難しく、一朝一夕にできる事ではないからだ。しかし、それでも、こういった事を頭にイメージできていれば、もう少しはましなやり方をしようという気になるのではないかなと、期待してこの文章を書いている。

<補足:とある営業マンの話>
 私の友人で最近失業した営業マンがいた製造会社は、数年前から不審でずっと苦しんでいたそうである。本来ならば全社員一致して対策を考えて頑張ればいいのだが、その会社では「技術部」は責任を営業が仕事を取ってこれないのが原因だといい、「営業部」は仕事をとっても品質が悪くてリピートオーダーが無いのが原因だとお互いに言い合って、まともに協力が行われなかった。それでついには会社を畳むか、もうっちょとだけ大幅に減給してつづけるかという所まで追いつめられ、友人はその事業縮小もあって失業した。
 その話を聞いて正直なところ、まるでドラマのような「なんて愚かな連中だ」と思ったのだが、案外こんな組織は多いのかもしれない。この国の政府の姿とも重なる所が多いしね・・・。