2012年4月30日月曜日

大都市不要論(その2)

 以前にこのブログで「大都市不要論」という記事を書いたが、それからもこの考えは度々頭の中に浮かんでくるので、今回はマインドマップにしてみた。最近はTPPなどグローバル化についての話題が多い。しかし、どうしても私にはグローバル化、大都市化といったものは旧い方法論だとしか思えない。メディアで目にする経済学者やコメントは、どうしても近視観てきなものばかりで屁理屈をこねまわした中身のない物にしか見えないし、今後の10年・20年・30年〜100年・200年といった持続可能な社会モデルにはほど遠いところにあるような気がする。

 ここで書いてみたマインドマップは、現在の大都市化の課題と、関連するトピックおよび対立するモデルについて簡単にまとめたものである。分散型都市のコンセプトは物理拠点に依存しないネットワーク社会であり、現在の技術でも十分に実現可能だ。むしろ現在行われている新幹線をひたすら延長するとか、リニアモーターカーで東京間をつなぐよりも、はるかに現実的であり、いずれは必然的に移行しなければいけない社会形態だと考える。
 

2012年4月22日日曜日

創造主のジレンマ

 「創造主のジレンマ」この言葉を思いついたのは「スワロウティル人工少女販売処/藤真千歳 早川書房」を読んでいた時だ。この本は久々に見つけた良いSF作品で、ネタバレしない程度に簡単に説明を述べると。近未来に「種のアポトーシス」という奇病により、人種隔離、さらに男女隔離政策がとられた元東京の一部である自治区にくらす人々の話である。ここでは人間の男女が隔離されて暮らすのが前提の為、代わりに人工妖精と呼ばれる人間を模した生命体と一緒に暮らしている。なかなかうまく説明できないけれど、人工妖精とはアップルシードに登場したバイオロイドのようなもので、人をサポートする為に作られた人工的なパートナーといったものだ。

 スワロウティルの物語で面白いなと思ったのは、人工妖精はもちろん人が作り出した者なので、たんに人間を模しただけではなく、さまざまな能力や役割があらかじめインプリティングされている事だ。大部分は男女隔離された性差を補う為に、人間の夫や妻になるべく作られたものだが、中には指導者として作られたものや、人間の子供の友達用として成長しない子供の姿で作られたものや、孤独な人間をフォローする為に過去の記憶を持たないように作られた個体までいる。

 そして、物語の中にあらかじめ子供の姿で作られた永遠に成長しない妖精や、過去の記憶を持てないように作られた妖精に対して、哀れみを感じる事を傲慢だと問うシーンがある。このくだりを読んでいて私も色々と考えされられた。

 私は「哀れみ」という感情が嫌いで、意識的にはそれらをずっと否定する事にしてきた。だがこの物語に登場するような、あらかじめ運命を決められた者達の話を聞くと、それでも知らず知らずのうちに哀れみを感じてしまっている自分に気がつく。そして、もしも神(創造主)というものが仮に存在したとしたら、彼は予め運命を割り当てる事に、過酷な役割を与えなければならない事に対してジレンマを抱いたのでないだろうかという考えた。これがタイトルの「創造主のジレンマ」という意味である。

 もしも世界を創造するのであれば、おそらくはあらゆる事柄に対立軸を作る必要があるのだろう。そして棲み分けなどの役割分担も作る必要があるだろう。あらゆるものを公平作るなどは、たとえ神が存在したとしても不可能なのだと思う。全てが均等に固定された世界があるとすれば、それはエントロピーが均等に達した死の世界しか存在しえないはずだからだ。
 そしてそうやって作られた世界が存在しえたとしたら、強/弱、美/醜、賢/愚・・・などの限りない対立軸や差異を生み出すしかない。例えばライオンを作った事で、シマウマのように一方的に狩られる存在に哀れみをもったり、貝に動く自由や言葉を与えなかった事を悲しいと思ったりするだろうか。

 こういった「哀れみ」に伴う考え方は、ちょっとずつ形をかえてこの世には至る所に存在する。たとえば反捕鯨団体などは代表的な例だ、かれらは生命全体ではなく、ただクジラだけを保護の対象として過激に行動する。また先進国では後進国に対しておせっかいとも言えるような押し付けがましい支援も中には行ってきただろう。それらを一からげに、良かった、悪かったと論じる事はできないし、私にも正直言ってよく解らない。

 だが、それでも私は「哀れみ」という考え方は傲慢だと、やはりどこかで思う。それは、私が「哀れ」という時は、必ずそれは自分の物差しに当てはめて語っているからだ。本来は人の数だけ、あるいは生命体の数だけ価値観というものは存在し、異なるルールが成立している。それが自然界の多様性であり、棲み分けであり、現実の世界をバランスしている。そして、私は自分自身が、所詮は一本の物差ししか持てない存在である事を、ついつい忘れてしまいがちだ。

 問題なのは、どうも私達はすぐに他の価値観が存在する事を忘れてしまうことだ。そういえば、昔見た「アップルシード」のシーンで、「麻薬のようにはびこった価値観を一掃するチャンスなんだ」というセリフがあった。むしろ現在の問題は価値観の押し付け合いや洗脳しあいがあちこちで蔓延している。
 例えばTPPやグローバル化の議論は、「自由経済至上主義者」達による価値観のおしつけと見る事もできる。この思想も最近では、だんだんと宗教じみてきたように思う。もっと身近では、TVのコマーシャルなどがまさにそうで、ひたすら消費と普通(標準)である事を押し付けてくる。標準というのは所詮は幻想でしかないのだが、こういった圧力が多くて、むしろ日本社会では閉塞感が増しているような気がする。

 もとの話から、かなり脱線してしまったが、久々に読んだ小説から色々と考えされた。ちなみに「スワロウティル」は久々に見た良い作品なのでお勧めです。