2012年11月11日日曜日

楽ばかりしようとして駄目になった例について


 ここ最近は政治経済やメディアも含めて、日本そのものが劣化したなと感じる事が多くある。その中でも、「効率化」という名の下に、結果として「楽する」事だけを追求したあげく、どうしようもなく落ち込んで駄目になってしまったという事柄が目立つ気がする。

 そこで今回は「楽ばかりした結果、どうしようもなく落ち込んだ事例」という物を列挙してみた。結論として、やっぱり目先の事ばかり考えていると駄目なんじゃないという話になると思うが、そこから本来どうあるべきだったのかという点に視点が進む事を期待して記しておく。

1)音楽業界
 個人的にダウンロード違法化でムカつくことの多い業界だが、ここも解りやすく劣化した例である。ちなみにダウンロード違法化をした後では、さらにCD売上が低下したようで救いようがない。ダウンロード違法化は結果的に、一般人から音楽に触れる機会を減らし、音楽離れを加速化させたようだ。
 では、ダウンロード問題が売上を低下させた主要因ではないとすると、この業界の問題とはいったい何だったのか? 端的に言えば、それは「AKB商法」を例とする安易な商売の仕方である。

・2012年 オリコン年間シングルランキング 44週目時点の暫定順位速報
 http://www.tnsori.com/archives/51932863.html

 上記を見るとあきらかなのだが、上位を占めるのはAKBと嵐などが大部分で、これはもはや音楽のランキングではない。特にAKBは握手権を売っているようなものなので、本来はまともなカウントなど出来はしない。これを見れば、音楽業界が死んでいる事があきらかだろう。
 そもそも論で言えば、AKBや嵐などが売れるのは電通やメディアの洗脳に近い刷り込みによるものだけで、音楽的な価値ははほとんどない。しかしAKBが売れる事で味をしめたメディアなどが、先をこぞって持ち上げるので、あたかも文化的なムーブメントでもあるかのような状況になった。そしてこの間に、まともな音楽を作ろうとしているものは無視されてきたのでおそらくは、ちゃんとした音楽はかなり淘汰されてしまったのだと思う。
 唯一の救いはボカロのような営利を目的としない、個人作家が多く現れた事で音楽の質向上が目指せる可能性がある事だ。しかしダウンロード刑罰化は、それに冷や水を浴びせている。そもそもAKBしか売れてない時点で、ダウンロード問題など意味がない事が明らかなのに、いったい音楽業界は何をしたかったのか?

 今はAKBで持っている音楽業界だが、こんなパンチラを売りにしたジャリタレがいつまでも続くはずはないので、どこかでバブルは崩壊するだろう。その時こそ、音楽業界が死んだ事が明らかになると思う。できれば音楽業界は死んでもいいから、ボカロのような場で良い楽曲が産まれる事を期待したい。

2)TV業界
 韓流叩きでさんざんなフジテレビが最も解りやすい例だが、フジの場合はおそらくどこかで、経営を効率化しようとして、その結論が「韓流」を大きく売り込む事だったのだろう。自分のところで番組を考えるのはコストがかかる、逆に韓流を輸入すれば制作費はかからないし、なおかつ韓国では自国文化を広めるのに躍起なのでキャッシュバックもある。
 そしてそれに頼り切った結果、自分のところで番組を作るノウハウがすっかり枯れてしまった。そして作る物は二番煎じ三番煎じばかりである。当然売れない。


3)家電業界
 家電業界はのきなみ不振だ。特に国内の携帯メーカは壊滅状態だ。理由については色々意見があると思うが、今回のテーマにそって言えば「努力して新たな価値を創造する事に怠けていた」のが大きな原因だと思う。
 日本のメーカは慢心していたのだろう。だが一番の問題は自分たちの頭で考える事をいつしか止めてしまった事だと思う。ずっと過去にSONYがウオークマンやPlayStationなどを作り始めた頃は、まだ新たな価値を創造しようとする意気込みもあったし、実際に行動をしていたように思う。
 だが最近の国内製品を見ても、値段の高い安いを別にしても、とにかく魅力的な製品がない。このメーカの物を買いたいというものがない。昨年TVを買い替えたが、どれも同じに見えたので結局は売れ筋の無難な製品を買った。品質も今ではあまり変わらない。(個人的にはデジタル化した家電は故障が増えて品質が落ちたなとここ数年前からずっと思っている)


4)政治、メディア
 政治やメディアが昔は良かったのかどうかは解らない。でも、少なくとも昔は、もう少しは自分の頭で考えて行動していたのではないかと思う。政治はアメリカに頼りっきりで新たなコンセプトを考える力を無くしてしまったかのようだ。その結果として彼らの議論は、政治ゲームの駆け引きしかなくなった。逆に言えばそれしか仕事が無くなったという事だろう。
 もちろん、本来の政治の仕事はそんな事ではない。しかし彼らは明らかに忘れてしまっている。そしてメディアも同様に、条件反射のような反応を繰り返すだけで、自分のやっている事の意味を検証できていない。TVはほんとうにどうしようもないが、全国紙の大手新聞もクズである。ちゃんとした記事が読みたければ、地方紙を読む方が良い。

5)警察、検察
 脅迫メール事件で誤認逮捕〜自白捏造をしていた警察も似たようなものだ。捜査の可視化にはあくまでも抵抗し、自分のやり方をかえようとはしないし、反省もしていない。誤認逮捕はIT技術の未熟さだとは認めたが、自白捏造についてはなんら対策をしていない。
 もっとも懸念なのは、彼らの捜査技術が向上せずに、捏造技術だけが今後は進化するのではないかと言う事だ。
(反省してないのだから、当然そうなるのだろうが・・・)

 とりあえず最近考えていた5つの分野について例を挙げてみた。それぞれ個別の事情もあるのだろうが、その根本には誤った効率化(楽すればいい)という発想があるように思う。でも楽する事だけに終始していれば、結局は実力や能力がどんどの退化していっていずれはバブルのように崩壊する。

 「適応しすぎた種は滅ぶ」

 昔からの生物学でのセオリーだが。現在社会や文化でも同様の事が頻繁に見られる。それにしてもこの日本はあぶない。逆に言えば今までは平和でうまくいった時間が長過ぎたのだろう。先人が苦労して作った物を、二代目、三代目が潰している例も多い気がするし、そろそろ自分の頭で考えないとやばい時代になったのだろうと思う。

 中国との領土問題も継続する大問題だ。でも、その大事件の最も緊張した日でさえも、日本のメディアでは「AKBじゃんけん大会」を大々的に報道し、政治は自民の総裁選びに終始していた。当然これで済むはずはないので、こういった危機感のない為のツケは後で大きく跳ね返ってくるのだと思う。

2012年10月7日日曜日

良い仕事とは、たいてい地味なものだ

 良い仕事とは、たいていが地味なもので目立たない。だから本当の意味で評価される事もあまりない。

 どういう事かというと、仮に3人のマネージャーが存在して、それぞれ高め難易度のプロジェクトをまかされていたとする。

 Aマネージャー>
  凡庸なマネージャーで事なかれ主義。たいして良くも悪くもない。

 Bマネージャー>
  Aとさほど変わらない能力だが、逆行になってからの粘りと謙虚さがある。

 Cマネージャー>
  優れたマネジメント能力と先見の明があるマネージャー。

 そして上記の3つのプロジェクトは下記のように推移した。

<Aの結果>
 事なかれ主義なので、途中で挫折する。どうにかこうにか調整能力を発揮して対処するが、あまり良い結果とはいえず。プロジェクト的には明らかに失敗。

<Bの結果>
 Aと同様に途中で挫折するが、持ち前の粘りと謙虚さで失敗に気付いて、なんとかプロジェクトを持ち直す。迷走はするが、結果としてはなんとかプロジェクトを成功に導く。

<Cの結果>
 持ち前の先見の明で事前に問題を回避。たいしたトラブルもなくプロジェクトを成功させる。


 上記のような結果がでたとき、果たして各マネージャーにどのような評価がされるだろう?

 世間一般では、たいてい評価されるのはBマネージャーとなる。Aは凡庸だから当然の評価されないが、Cもあまり高い評価は得られない。どうしてCが評価されないかと言えば、Cの先見の明は、Cマネージャー以外の他者には理解できない為に、プロジェクトが成功しても運が良かったとか、難易度が低かったのだろうと思われるからだ。

 これは凡人には天才のやる事が理解できないというのと同じ理屈だ。世間の大半が凡人である以上、認められるヒーローは凡人の中から選び出される。まあこれは多少釈然としないがよしとして、しかし最も問題なのはCが評価されない事により、Cのスキルや仕事が他に継承されない事である。Cは持ち前の才能を元に、新たな手法や優れたチェック方法を考えだし、これが取り入れられれば次の全員がやるプロジェクトでは成果が得られるはずだが、凡人には理解できない為に継承される事はほぼない。
 おそらく、優れた先人が築いた優れた手法が定期的にロストして再発見を待つのはこのようなサイクルがあるからだろう。そして最悪なのは、評価されないCがいずれは凡庸なマネジャーになってしまう事である。(だって優秀な作戦を立てても、結果的に凡庸なみんなから反対されるのだもの・・・)


 これは昔から時々感じていたことだが、ここ1年ほどの日本の災害や政治や官僚の度重なる問題などを見てて痛いほど感じる。政治を例にすれば、民主党や自民党は凡庸なAマネージャーだろう。維新はAか、パフォーマンスだけのBマネージャーだろう。維新の仕事がたいした結果を出せるとは思えない。私達が本来望むのはCマネージャーだが、それに相当する人はいない。もしくは居ても埋もれてていて表に出られない、あるいはメディアで報じられない。本当に困ったことだ。良いアイディアを持つ人は居るのだが、結果として採用された試しがない。

 結論としては、飛び抜けて優れたリーダーを望む前に、一般の底上げをしない事には話にならないという事だろう。バカな連中がリーダーだけは優れた人が欲しいというのは過ぎた望みだ。(だって、居たところで、貴方達はリーダーに選ばないでしょう?)


 ちなみに、ここに書いたのは一般論ではない。もしも私達が身近な仕事を注意深く見ればいくつも似たような事例を見つけられる事だろう。だから政治と身近な仕事場での愚かさはだいたいにおいて比例している。私自身もソフトウェア開発の現場でなんども苦い想いを体験してきた。せっかく優れたアイディアや管理方法を考えても、それが全体に採用されるのは極めて稀だ。

 例えば将棋で3手先までしか読めない人は、5手先・10手先が読める人の打つ手を理解できない。結果としての勝利を見たとしても、その優れた打譜を理解できないので採用はしない。仮に勧められたとしても無視してしまう。解らないぐらいだから、成功の原因も解っていない。こうしてバカな作戦が繰り返されるわけなのだが、特に日本はこれが酷いような気がする。

2012年9月17日月曜日

日中韓の奇妙な争い

 いうまでもないが、この数ヶ月で日本は韓国(竹島問題)、中国(尖閣諸島)という2つの領土問題が火を噴いて、ともに大問題となっている。韓国では反日デモが広まり、中国では反日デモが暴徒化して日系企業が破壊される騒ぎになっている。領土問題は今に始まった話ではないが、それでも以前はここまで拗れる事はなかったはずの問題が今では紛争や戦争への拡大を懸念されるような事態になりつつある。
 この原因や経緯は、色々なメディアやブログでとりただされているので、私はそれをここで繰り返そうとは思わない。私が書きたいのは、大手メディアで述べるような通り一遍の記事ではなく、むしろネットも含めたメディア全体を通して感じる違和感についてだ。その違和感とは「はたしてこの争いは誰が願ったものなのか?」というものだ。

●韓国>竹島の争いとは何か?
 竹島の問題、まずはこれが奇妙であり、私は問題当初からどうしても違和感を感じずにはえなかった。李明博大統領の過激な行動、そしてタイミングについては当初からどう見ても合理的な意図が読み取れない。もうオカシイ事だらけだ、ぱっと思いつく物を並べると次のようになる。
  1. 何故オリンピック期間中に問題を取り上げたのか?
  2. そもそも竹島は韓国が実行支配しているので問題を大きくする必要はないのだが?
  3. 大統領自らが竹島に上陸という、後に引けない最終カードをなぜたやすく切ったのか?
  4. 天皇というタブーを取り上げてまで、日本をナショナリズムに煽る意図はなにか?
 私がまず最初に感じた違和感は、何故オリンピック中に事を荒立てたのか? という疑問だ。確かに野田政権が韓国側の問題に対して無視を決め込んだかして対応しなかったのが、腹が立ったとしても、わざわざ世界中に領土問題を広げてアピールする意図がわからない。それに、そもそも一ヶ月かそこらを後回しにしようが関係ない問題を、まるで説破詰まって一刻も延ばせないかのように拙速に騒ぎ立てた理由が解らない。

 これらの韓国の意図を、文字通り素直に受け止めるならば、これはまさに「宣戦布告」と受け取っても良いような事態し、対応を韓国政府はしている。しかしどう考えても、現時点で韓国が日本に紛争もしくは戦争をしかけるメリットが存在しない。また行う意味もない。
 そもそも韓国も日本もアメリカの同盟国なので、米国がそれを許可しないというのがある。米国の立場としては、紛争程度はどうぞご自由にと言っても本格的な戦争については立場にもこまるので、どうあっても許可をする事はあり得ないと思われる。

 私がどうしても良くわからないのはこれらの状況で、どうしても合理的な説明をつけられないことだ。韓国政府には日本をいますぐ責める緊急の要件は存在せず、また米国が裏で糸を引いてというのも、現状からすると考えにくい。深読みすれば、日本を右翼化して兵器を売りつける、もしくは米軍基地を強化させるという米軍の意図があったとしても、ここまで問題をこじらせる必要はないし、却って面倒ごとを増やしているようにしか思えない。
 それに韓国政府としても、日本を煽って右翼化〜核武装をさせたいとは思わないはずだ。どう考えても不可解な状況で、あるいは北朝鮮と韓国が組むというシナリオも考えてはみたが、どうしても現時点ではそれもありえない気がする。もしも韓国が西側から抜けて北朝鮮や中国と組む事にしたとしても、いま行動を起こす理由はなく、2014年に米軍が撤退してからの方がよりスムースな事は確かだからだ。


●中国>尖閣諸島の争いとは何か?
 個人的には竹島より、中国の対応の方が比較的理解しやすい。尖閣諸島は実行支配は日本がしており、中国はメンツとして領有権を主張し続けている。そしてかこに日本と中国はこの問題を棚上げする事で日中友好化条約を結んだという経緯もある。その経緯を踏まえれば、ルール違反をしたのはむしろ日本の方であり、中国はメンツを維持する為になんらかの威嚇行動をする必要があった。

 この問題が拗れたのはあっとう的に石原東京都知事と日本政府の責任が多いのだが、それはちょっとおいといて、それでもやはり私にはショックだったこと、そして腑に落ちない部分がある。それは今回の反日デモで暴徒が日系企業を破壊したり、暴力行為を行うのを、中国政府が止めなかった(あるいは止められなかったのか?)という事だ。デモが起こるのと工場が破壊されたり、邦人が教われるのは問題のレベルが違う。ここまでやられては、普通ならば国交断絶、もしくは紛争および戦争しかないというところまで、突っ走った事だ。

 中国政府的には、反日デモなどでプレッシャーをかけつつ日本に譲歩をさせるのが普通の作戦だと思うのだが、現状を見ると勢い余って最終カードを切ってしまったように見える。反日デモで暴徒が日系企業を破壊し、日系企業が中国から全部引き上げるような事態になれば中国としても相当な痛手を伴うはずなのだが、なぜここまでやったのかという事だ。だから、正直いってこの事態は本当に中国政府が意図した結果なのかという疑問が生じる。


●愛国心ってなんなんだ?
 上記に書いたように、私はこの二つの争いについて考えるにつれ、どうしても意図が掴めない。いったい誰が書いたシナリオなのか? そもそもこの争いでいったい誰が本当に利益を得るのか? この落としどころをどこにしたいのかが、まったく理解できない。ただひたすらに、領土問題という愛国心(ナショナリズム)が独り歩きして問題を広げていっているようにしか見えない。

 しかし愛国心だといったところで、いくら愛国教育をしたところで、この枯れた領土問題でこれだけ中国、韓国の国民が騒いでいるとは正直思えないというのが本音で、政府やメディアが煽っている架空の戦争ではないのかという気がする。

 ぶっちゃけたところ、私は中国で本当に愛国心から反日デモを行っているというのは正直信じられない。なぜかというと、中国のニュースでトラックが事故で横転すると、周りの人が運転手をたすけずに、荷台の荷物を全員で盗んでいったというような記事を度々目にするからだ。同胞の窮地すら助けないような民意で、愛国心などというものが発生するとは正直考えられない。しかも自分が行った事もないような島でだ。

 領土問題ということで、メディアはさかんに煽り立てるが、そもそも本当に日本・中国・韓国で自分が銃を取ってでもこの問題を解決したいと考える人間がそもそもいるというのが、正直私には理解できないし、虚構ではないのかと感じる。

 これは私が日本という長い平和ボケした国に住んでいるせいなのかもしれないが、やっぱりこれらの争いは全て人々を通り越してメディアの上で煽られている架空の争いではないかという気がしてならない。奇妙な現実感の無さがつきまとう。

 政府と無責任なメディアが煽って、こじれた架空の争い。だがその火種は、このままでは現実にも飛び火して戦争をも起こしかねない。しかもおかしな事に、これを取り上げる参加国の政府ともに、内政がうまく行ってなくて問題を抱えている。自国に問題を抱えた者同士が、言い訳やら屁理屈だのをごねて、話をややこしくして後に引けなくなっただけじゃないのか? なんだか解らない、この火遊びはいったいいつまで続くのか? だれかこの争いの説明できる人がいれば、教えて欲しい。


参考リンク:
・横転したトラックから積み荷を強奪、制止を聞かない傍若無人な住民―甘粛省蘭州市

2012年9月8日土曜日

スキルには二つの種類がある

 システム屋(ソフトウェア開発)の仕事を始めてからもう20年近くになる。そのなかで度々、プログラミングの新人教育をしたり見てき結果、ソフトウェア開発に重要なのは、コンピュータや言語の知識ではなく、本人の教養(地力)ではないのかとだんだん思うようになった。

 そう思ったきっかけは、身近な経験からして結局のところ優秀なプログラマーや設計者というのが根本的に少なく、また他のエンジニアを見てても、そもそもスキルというものを誤解しているのではないかという気がしてきたからだ。

 例えば私は比較的に勉強嫌いなエンジニアなので、ここ数年は業務やシステム知識の勉強は会社以外でする事はない。(やった方がいいのだろうけどね、元々面倒くさがりなもので・・・) そして私とは逆に熱心に勉強会を開いて勉強しているエンジニアや会社などがある。
 しかし一緒に仕事をしていてよくあるのが「なんどその知識を活かせないの?」「ここまで解っていたら、この問題解けるだろうに?」というケースだ。おかげで、結局のところ不勉強な私がネットとかで技術や知識を探し出して、問題解決方法を作る事が多々ある。
 これは仕事を教えてきた後輩だけではなく、他社の関わったエンジニアなども含めてもよくある事だ。

 そういった事を経験してから、だんだんと重要なのは技術知識ではなく各自の地力(教養)だと考えるようになった。そしてこれはソフトウェア開発だけの問題でもないと思うようになった。

 では、何故そのような事が起こるのだろうか?

 過去に内田樹が「トレビアとは1問=1解答に答えること、教養とは1問=複数解答を見つける能力」と書いていたのを読んでなるほどと思った事がある。これが、まさにこの差を生んでいるである。私が例にあげた勉強はしているが問題解決能力のないエンジニアというのは、トレビアは沢山持っている。だが応用力や分析力、洞察力などといった力があまりないので、結局は知識をうまく活用できず、問題解決力が低いのだ。

 これはとても残念な事だ。問題はソフトだけではなく、いまの日本社会全体の教育の問題ともいえるのかもしれない。私が実際に仕事をした経験からすると、本当に使えるエンジニアというのは本当に少ない。例えばプログラマーで本当に仕事をお願いしたいと思う優秀な人材は約20人に一人ぐらいだ、そしてまあまなのが10人に3人ぐらい、最悪なのが10人に二人ぐらい。これが現実で、おそらくは他の業界でも似たようなものなのだと思う。この比率はプログラマーでなく設計者で見てもおそらくは同様だろう。

 ライバルのレベルが低いから、私は勉強をあまりしなくても仕事が無くならないのかもしれない。そういった見方もできるだろう、だがおかげで日本のソフトウェアはレベル低く、デスマーチが横行し、そこで仕事をしていると低次元な作業に足を取られて本当に高度な要求を満たすような設計やプログラミングをする機会を奪われているとも言える。
 だから、私は長い間ずっとソフトウェア業界のレベルがもっと上がって欲しいなと思ってきた。しかし現実はあまり進歩していると感じられない。


では地力(教養)とは、なんなのだろうかという事について考えてみる。彼らには何が欠けているのだろうか? 思いつく部分をピックアップすると次のような点が見えてくる。
  1. 問題そのものを分析できない。(問題の本質を掴めてない)
  2. 分析した情報をドキュメントなどに体系化したりして整理する能力がない。
  3. 分析した情報を全部バラして再構築する事ができない。(上記が出来てないので当然)
  4. 関連する知識を、他に応用する事ができない。(そもそも応用するという発想がない)
  5. 頭が固くて、いまのやり方以外の方法があるとは考えない
  6. 言われた事をやる事以外に発想が思い至っていない

 こうしてまとめると、これはソフトウェア業界だけの問題ではないことが良くわかるだろう。ようは過去にあった事をなぞる事はできるが、応用して新たな道をつくる力が圧倒的に弱いという事だ。

 ちなみにスキルというのも大きくは2種類ある。
  1. 過去に体験した事をそのまま再現する為のスキル
  2. 新たな事柄に対して、新たな方法や手順を行う為のスキル

 これは業界にもよるのだろうが、定型的な仕事を繰り返す(例:事務職)ならば、圧倒的に上記1のスキルを使うのだろう。だがソフトウェア開発などの開発業務は圧倒的に2のケースに相当するので、想像力にまつわるスキルが必要だ。しかも最近の社会は世の移り変わりが激しいので、過去に比べて2のスキルを使う割合が本来は増えてきたはずだ。(現実ではあんまり使っているの見た事無いけど・・・本来は)

 そして前もって述べるが、こういった事を書くと、だいたい誰かが「これは教育のせいだ」などと言い出すものである。

 なるほど、確かに教育はもう一つなのかもしれない。しかしこういった地力というものは、もともと教育して身に付くようなものではない。むしろ定型化された教育以外での幅広い視点や思考方法を学ぶことによるものだ。むしろ次のような趣味を持っている方が地力があがるのではないかと思う。

  • 将棋などの戦略ゲームの趣味を持つ
  • 読書(なるだけ幅広いジャンル)を持つ
  • 歴史を学ぶ
  • 心理学的な知見を持つ、手品を研究するとかもいい
  • 自然科学などを知るとか、自然を観察して洞察するとか
  • 音楽や画のような創造的な趣味を持つ
  • 武術などのような長期的な鍛錬経験を積む
 あえて補足すると、短期的な趣味より、長期的な趣味で1つを極めつつも周りに目を配るというのが理想だと思う。これは一見デタラメに見えるかもしれないが、過去に私は手品のトリックに興味を持って調べた時期があって、その際に「この発想はすばらしい、是非ともプログラマーにこの本を読ませたい」と考えた事もあった。だから、本当に発想そのものを学ぶというのは重要で、意味があると思う。

 ちなみに私自身事を少しだけバラすと、私は元々プログラマーになる前は、小説家や漫画家等のクリエイターになりたくて、過去は宗教、オカルト、科学からなんでも片っ端から興味を持って調べていた時代があったし、ここ数年は楽器の練習も再び始めたりもしている。無駄に思える色んな趣味や知識が結果として、仕事でも役立っているように思う。つまりのところ「同じ物を見たとしても、そこから何を思いつくか」が地力という物の本質なのだと思う。

2012年8月19日日曜日

「貧乏人の経済学」について

 「貧乏人の経済学/みすず書房」を手に取ったきっかけは、たまたまネットで紹介されているのを見た事、それと私自身がずっと経済学というものに疑念を持ち続けていたからである。
 経済学や経済論争についての疑念というのは、主に次のようなものを感じている。
  • グローバル化や新自由主義の単純化されたモデルについての疑い
  • 金融工学に代表される、金融至上主義とでもいうべきスタンスへの反論
  • メディアで喧伝される経済論争というのは、レトリックだけで中身の無い物ではないかという思う
 これらは、ずっと長い間おかしいと思っているのだが、私自身は経済に特に詳しいわけではないし、じゃあグローバル化に変わるモデルは何なのと聞かれても、うまく答えられない。
(本当はこういう根本的な議論や研究を行うのが、経済学者の仕事だと思うのだが、メディアに登場する学者は、新自由主義の信者で自分の考え以外をまったく認めようとしない人が多いので、呪文のような同じような話ばかりをきかされる事になる)
 そういった想いがあって、この貧乏人の経済学という本を取ってみた。しかしこの本は別に期待していたグローバル化の話はほとんど実は出てこない、だが予想外の色々な事柄を考えさせられるとても良い本だった。

 本のテーマは世界の貧困問題、例えばアフリカであったりアジアの貧困層へどう支援をするか、どうアプローチすれば貧困を改善できるかの調査結果の集大成である。ただし世間一般に流布されているような経済書と一線を画すのは、これは理念だけの話ではなく、大本の経済理論〜現地政府〜現場の支援者〜貧困層の人々までの、ようは全体を細かく実際に調査したデータを示して、分析している事である。単に空論を述べているわけではなく、現場の実際をこまかく調査した、それに対する具体的な所見を述べたものだ。

 この調査や示唆に富んだ分析は、とても素晴らしくて私にとっても新鮮で驚きに満ちたものだ。例えば本書の始めに、まず議論される「飢えに関する誤解」というものも聞いて初めて解る意外なものだった。多くの人は私と同様に、例えばインドネシアの貧困層では饑餓で死ぬ人が多くあり、こういった国の経済を立て直すには、まず彼らに十分食べさせる事から始まると思っている人が多いと思う。しかし本書の調査では、実際に貧しい人に食料援助をしてもそれが彼らの生活向上に結びついていないという結果が紹介されている。彼らは確かに十分な栄養を取ってないが、障害となっているのは食事の不足ではなく、例えば衛生面の問題や、仕事の問題、保険がない事による問題などによって貧困層から抜け出せなくなっているというものだ。
 そして政府や支援団体が色々やるが、単に物を与えればうまくいくわけではなく、現場で細かい手順や試行錯誤を繰り返して、なんとか改善しようとする試みがとても重要だという事が調査のなかから見えてくるのである。

 本書のすばらしさは、ここで記された情報ではなく、トータルコーディネイトともいえる調査や思考、口先ではなく実際に調べて現場で考えるという発想と行動についてである。ちなみにこれと同様の事柄で過去に感銘を受けたのは、畑村洋太郎の「失敗学」「危険学」などの書籍を読んだときの事だ。危険学の素晴らしさは、理論だけではなく実際に現場で調べその文化的な経緯やルーツなども含めて検討し調査する、その結果でやっと問題の本質が見えてくるというのが実地で示されているからだ。

 私がメディアで流布されるような経済学者に対して常に疑念を感じるのは、こういった本書で示されるような実際に現場を調査してその背景までを視野にいれた考察が欠けているからである。大部分はエリートが考えた机上の空論の域を出ていない物ばかりだ。

 しかし本書を読んで考えされられたのは、これは後進国での貧困問題に対する研究の書であるが、実際に日本で広がりつつある貧困の問題についても、多くの示唆を与えてくれるようにも思えた。

 例えば本書では、貧困対策がうまくいかないのは、「政府の問題」か「政策の問題」なのか? 例えば民主化が少ないからうまくいかないのか? 大きな変革をしないと対応できないものなにか、そうではないのかという議論が何度も繰り返される。そして、その答えはどちらでもないという結論へと辿り着く。たしかに政府や民主化などのイデオロギーの問題は大きな障害になりうる。ただし現場で出来る事は沢山あり、同じ政策でも工夫してやるのと垂れ流し的にやるのとでは結果が大きく変わるという事が示されている。

 これらは日本であっても、十分に考えるべき重要なテーマだ。例えば経済政策の一つを取ったとしても、問題の根本は理念ではなく、現場に対する無知や無関心、また結果を評価するという地道な努力の欠如ではないのではないか? 同じ政策であっても、もっとちゃんとしたやり方があるのではないか? という点だ。

 個人的には、日本で最近問題になった生活保護と貧困の問題についても、本書で記されていた研究結果に大きなヒントがあるような気がする。この本は色々な示唆に富む、久々にあった良い内容の本だった。貧困には興味のない人でも、是非読んでみて欲しい本である。

2012年8月18日土曜日

新しいパートナー(人口知能による政治参加)

 3.11以降、多くの問題が顕在化して加速する日本の政治や社会状況をみていると、最近は「そもそも人間に妥当な政治は無理なのかな・・・(特に日本人には)」と思うようになった。

 こう考える事自体が問題なのかもしれないが、正直にそう思えるのだからしょうがない面もある。そう考えているうちに、ふと頭に浮かんだのが、人工知能を作って政治に参加させたらどうなるか? どのようなフォローが出来るだろうかという空想だ。

 ここで誤解が内容に述べるが、別に私は人間に悲観しきって、全ての政治権限を人工知能に任せようと思っているわけではない。そうではなくて、人間の政策や行動を評価する冷静な第三者として人工知能を使えばいいのではないかという事だ。簡単な例では、現在の国会にもう一つ人工知能による院をつくって、3院制度に変更する。
 3院(人工知能)は、多種多様なアルゴリズムや評価方法をそなえ、政策のシュミレーションや新たな提案だけを行うものとする。あくまでも決定は人間の参議院・衆議院が行う。こうやって評価や政策が可視化されたり、明確化されれば、あまりにも馬鹿げた政策や説明(聞いてて恥ずかしくなるような)は減らせそうな気がする。少なくとも、我々が選択されなかった選択肢を知ったり評価できるようになるのではないかと思う。

 この考えとドラマを、マインドマップで書いてみた。やろうと思えば、現在の技術でもある程度は可能だと思うし、そういった試みや実験があっても良いのではないだろうか?(ひょっとしたらアメリカあたりでは研究あるかもね)

参考リンク:


2012年7月22日日曜日

「アメリカのデモクラシー/トクヴィル著」について語る

 最近「アメリカのデモクラシー(第1・2巻)/アレクシス・ド・トクヴィル著(岩波文庫)」を読んだのだが、あまりにも内容が素晴らしかったのでコメントを書く事にした。もともとこの本に興味を持ったのは、内田樹が幾つかエッセイの中でアメリカを理解するには最も有益な書として紹介していたのがきっかけで知ったものであり、いつかは読もうと思っていたものである。

 この本は、1831年に貴族階級の青年だったフランス人のトクヴィルが、フランス革命後の政府につとめながら、アメリカの制度を研究を行うという名目で、アメリカを約9ヶ月間調査してまわったことをまとめた書籍である。政治や文化の研究や考察をメインとした書籍だが、専門用語などは少なく、文章は比較的理解しやすいものだ。だがその内容は非常に密度が高く、私は一回一通りめを通したが、どうしても十分に内容を消化できたとはいえない。
 しかしそれでも、あまりにも内容がすばらしく、示唆に富んでいるのでこの本を読み終わった直後として、所感や考えた事などを述べてみたいと思う。

 アメリカのデモクラシーの構成は、主に次のようなポイントで記されている。

<第一巻>
・アメリカが成立した地的条件、最初に建国した人々とその歴史的な背景
・アメリカ固有の条件と、政治体系
・アメリカの奴隷制が抱える課題など
・アメリカの文化と、デモクラシーを成立および繁栄させている背景など

<第二巻>
・デモクラシーがアメリカの人々に与えた影響
・デモクラシーが人々の考え方や性質をどう変えたのか、変えてゆくのか
・デモクラシーが今後どのようになるか、他の国で実現する際の問題や可能性など

 上記は私なりの強引なまとめ方だが、この書を構成するトクヴィルの視点は主に次のスタンスで語られている。

・なぜアメリカでは最もデモクラシーが発展したのか? 
・他国との条件の違いは何か? 他国でも同様の繁栄が可能か?
・デモクラシーは貴族専制社会から、人々や文化や産業をどう変えてゆくのか?
・デモクラシーが変えた人々や文化は今後どのような経路をたどるのか、その未来と問題点はなにか?

 
 私がこの本を読み驚いたのは、トクヴィルの洞察力の凄さである。彼は当時はまだ25歳の若者だったが、その慧眼や教養はまさにおそるべきものがあり、200年前にこれほど優れた教養人が存在したという事がまず衝撃だった。
 そしてこの本はアメリカの事を、そして我が日本など他の国々の民主主義や社会などを理解する上での最も優れた書籍だと思う。トクヴィルは後に政治家としても活動するが、この書籍は政治だけではなく文化や人間の進化や歴史までも含めた、幅広い視点の考察によりかかれている。本当に私が驚いたのは、現在が抱える多くの問題などを、既にトクヴィルが200年前に可能性として予見し、どうあるべきかなどといった事についても考察をしている事である。

 もちろんアメリカは以後おおきく変化している。トクヴィルが知っていたアメリカとは領土も人工も大きく違うし、世界との地政学的なかかわりも変わっている。だがこの本の中には、デモクラシーが人々を変えて、社会がどのように変えてゆくかの可能性がかかれており、私は概ねこの予見は的を得ていると感じる。
 例えば第二巻第四部について述べているのを読めば、言葉は違えど、現在のグローバル化した社会が抱える危惧についての指摘とも読み取れる。200年前に、すでに現在の問題や課題が予見されているのは驚きとしたいいようがない。


 そしてこの本が素晴らしいのは、政治の本ではないからだ。仮に政治学的な視点だけをたよりにデモクラシーを語るならば、それはおそらくは無味乾燥な空論に聞こえるだろう。トクヴィルは歴史・文化・宗教などをベースに、デモクラシー成立の背景と、それを支える力についても考察し、検証をしている。だからこの本は別にデモクラシーについてあまり興味が無い人でも、社会や歴史を知るという観点からでも有益かもしれない。まだ読んだ事の無い人には、ぜひお勧めしたい本である。

2012年7月15日日曜日

いじめという曖昧な犯罪

 大津市のいじめによる中学生自殺事件が最近おおくのメディアで取り上げられている。この件についてはネットでも多くの意見がでているが、私も色々と思う点があって、少し考えを整理してみたいと思う。

●まず、いったい何が問題なのか?
 この自殺事件には沢山の問題があって、あまりに多過ぎて逆にポイントが見えにくい。私が思った問題点を上位から記載すると次のようになる。

 1位)警察
 2位)教育委員会
 3位)学校長
 4位)加害者の親
 5位)担任の教師

1位の警察について
 何故警察がトップなのかというと、この件はネットでも多くの意見がでているが警察の問題を取り上げた人は少ないようだ。しかし今回の事件で私が最大の問題をおかしたというのは警察である。何故かといえば、ネット上の情報を見る限りだと、死亡した少年のすぐそばにいじめ加害者の少年が集まっていたという話がある。これが事実ならば、自殺ではなく他殺だった可能性も十分に考えられるからだ。
 例えば、加害者側が少年を無理やり突き落とそうとした、あるいは落とそうと脅して本当に落としてしまった。あるいは実際に突き落とした可能性もある。状況的には十分に殺人かどうかの検証が必要な事件である。

 しかし警察は殺人という視点での調査はしなかった。これは警察の大きな怠慢、あるいはもっと悪く取れば加害者側との認識が事前にあって、積極的に隠蔽に加担したという疑いもある。これは本来は少年の不審死による事件である。だが警察はこれを放置した。
 さらに言えば、事件を調査してと依頼した被害者両親の依頼を無視しつづけた。ここに至った詳細な経緯は私は把握していないが、これまでに聞いた情報だけからすると、警察はむしろ積極的に隠蔽工作に加担し、殺人を隠蔽したのではないかという疑惑がどうしても生じる。

 ちなみに加害者側の親は地元の有力者であり、警察や学校、教育委員会など全部が問題隠蔽工作に協力したという噂もネットでは聞くが、この点については私は把握していないので、真偽はわからない。ただしあまりにも警察の対応が不審なので、ありえた話ではないかという疑惑を感じる。


2位の教育委員会
 次に問題があるのがこの機関。なんの為に存在するのか良く知らない機関ではあるが、普通に考えれば下位組織である学校運営の問題をチェックするのが仕事だろう。ここはまったく機能せず、むしろ積極的に隠蔽に加担した。

3位の学校長
 これも教育委員会と同じで、問題隠蔽だけをひたすら行った。

4位の加害者の親
 ネット上の噂レベルではあるが、加害者両親の力で問題隠蔽が勧められた疑惑が多くある。だがそうであれば、これは大問題である。これは殺人事件の隠蔽にあたるからだ。これは単なる親バカという問題ではなく、刑法上の重大な問題である。

5位の教師
 教師はどんな人物なのかは不明。だが問題隠蔽に加担し、また問題を放置した、問題を明らかにしなかったなどの職務上の問題が大きい。


とまあ、私のなかで問題の重大順をあげると次のようになる。だがネット上で見ると、どちらかというと私とは逆の順序で問題を指摘する人の方が圧倒的に多い。これは「いじめ」という問題に対する考え方の違いによるものだ。


●「いじめ」とは単なる犯罪行為である
 これは私の持論なのだが、「いじめ」という言葉はもう廃止した方が良い。このような言葉を使うから問題が見えにくくなる。だからはっきりとこう言えばいい、学校で起きた、暴行傷害事件、窃盗事件、器物破損、差別等々。「いじめがいけない」のではなく、これらの重大な犯罪行為が問題なのだ。
 今回の加害者側の少年がしでかした事は、もしも社会人だったら十分に犯罪で刑務所に送られる事ばかりだ。だが場所が学校というだけで、「いじめ」という言葉で包まれて大目に見られる。世の中にこれほど理不尽な事はない。

 だから私の意見としては、「いじめ」ではなく、これらは犯罪行為だと認識して常識的に処理するべきだという事である。そうすれば被害者の少年は少なくとも死ななくてもすんだはずだ。

 ちなみに私は少年法などというのは廃止すれば良いと思っている。そもそも同じ罪が、子供の場合だけ軽くなるなど馬鹿げた話だ。誰がやろうが罪は罪である。それに子供は校正の余地があるが大人は無いという考え方もいびつでおかしい。こういったゴマカシが「いじめ」という言葉を産み出し、学校という閉鎖空間での犯罪行為を容認している。


●最大の責任は教師にあるのか?
 どうも各種の記事を見ると、最大の問題を教師だとあげる人が多いが、私は少し違うような気がする。教師の多忙さと難しさから考えると、仮にやる気があって優秀な教師でもいじめの問題を独りで解決するのは難しいと思う。それに今後の問題を防ぐ為に何をすべきかという視点で考えた場合、教師にそれをにおわせるのは無理だろう。
(もしも、自分が教師だったらと考えたら、そんな事まで責任とるのは到底むりだとしか思えない)

 いじめみたいな問題は、周りの子供や大人や全部が協力しないと解決できない問題だ。もちろん加害者の親にも責任はある。そして被害者の級友や近くにいる大人などの力も必要だ。

 今回の事件では教師にも、もちろん重大な責任はある。しかし実際問題を考えれば、教師に勉強以外の事を教えろというのは無理なはなしだ。本来の教育は親や社会全体で面倒をみなければいけない。


●どうすればこのような事件を防げるのか?
 これは難しい問題だが、次のようなアプローチが考えられる。

1)犯罪事件として扱う
 いじめではなく、これらを通常の犯罪事件として扱い、必要であれば学校に警察を介入させる。そうすれば少なくともここまで酷い事態を防ぐ事はできるだろう。

2)透明化
 今回の事件が大きな問題となったのは学校サイドの隠蔽工作だ。これは正常な組織の範囲を逸脱している。問題を透明化し、問題があった事件でしかるべき対処を外部に求めるような事も必要だろう。

3)教育について
 教師は所詮は学校で勉強を教えることだけしか訓練を受けていない。(受けていたとしてもたかが知れているだろう) だから教師以外の力も必要だ。礼儀や倫理や協調性を教えたいならば、そういった役割の組織なり人間なりを育成しないといけないだろう。本来は親や地元の人々が力を合わせるのが理想だが、日本では共同体がほぼ壊れているので、それだけに依存するのは実質無理があると思う。警察しかり、第3者的な機関も作るべきだと思う。


●最後に
 今回の問題は過去に例がないほど、大きく取り上げられた。それは学校サイドのあまりにも明らかな問題隠蔽があったからだ。これは大津市が酷かったのか、それとも学校組織とは全体的にこの程度のものなのか、そのあたりも気になるポイントだ。だがこれだけ大きく取り上げられたのだから、できれば今後は改善される事を願いたい。
 心配なのは、問題が教師個人にのせられて、本質的な対応が行われない事だ。教師は確かに問題だが、これは教師に押し付けて解決できるたぐいの物ではない。スーパーマン的な教師を期待するのではなく、むしろ頼りない教師が勤めていてもちゃんと子供を守れるような組織や方法を設計する事がもっとも重要だ。

2012年6月1日金曜日

新聞やTVに、まだ見る価値がありますか?

 私はもともと、政治や社会問題そのものには関心がうすく、あまりTVや新聞を読まない方だったのだが、3.11原発事故がおきてからは、色々と記事をチェックするようになった。そして、まじめに記事をチェックするようにすると、すぐにTVや新聞の報道があまりにも実情と乖離している事に気がつくようになった。

 それから1年以上過ぎたが、結果としてその間に私の中で報道やメディアに関する信頼は下がる一方で、逆にこれほど大手メディアの報道は問題があるのかと驚く事が多かった。それだけ、ここ1年では重要な事件やニュースが多かった事もあるが、注目した問題を挙げると次のようになる。

1)原発事故関連

   * 放射能汚染に対する隠蔽疑惑

   * 放射能ガレキ拡散に対する疑問

   * 原発再稼働ありきの欺瞞

   * 虚偽報道による鉢呂大臣の辞任劇



2)TPP関連

   * 経団連の広告塔

   * 海外記事の歪曲報道

   * 誤った情報誘導



3)小沢裁判

   * 小沢氏に対する歪曲報道

   * 検察不正に対する沈黙


4)その他

   * 読売による出版社への異例な出版停止裁判



 ざっとポイントを挙げるだけで、すぐにこれだけ出てくる。まあここ1年で急に報道の質が落ちたわけではないので、もともとなのだろうが、正直私もここまで酷いとは思ってなかったので、ショックを受けた 特に原発問題やTPP、消費税などについては、政府や業界団体のスポークスマンと呼んでもいいぐらいで、どうしても「大本営発表」という言葉を連想してしまう。

 救いはSNS、ネットメディアやフリージャーナリスト、あるいは有志で海外記事を翻訳している人たちのおかげで、大手メディア以外の情報も入手可能だという事だ。


 大手メディアが何故これほどに劣化しているかと言えば、次のような点が挙げられる。

1)スポンサー依存
 結局のところ、新聞の利益は市民の購読料ではなく、スポンサーの広告料に依存しているという事。だからこそ東京電力の巨大な広告料につられて、偏向報道的なことしかできなかった。これは結果としてメディアが市民の利益を代表していないという、大きな課題がある事を示している。

2)記者クラブ、既得権益
 もしもフリージャーナリストの行動がなければ、原発事故はもっと酷く隠蔽して歪められただろう。だがそのフリージャーナリストの壁になっているのが、記者クラブである。記者クラブというのは本来は滑稽なはずなのだが、ここでの話が大手新聞に乗り、それを信用するような人がまだ多くいるという事が問題なのである。

3)事なかれ主義
 記者の知力、モラルの低下もよく取り上げられるが、最大の問題は事なかれ主義だろう。クレーマーやスポンサーに気兼ねして、結果的に重要な報道を行えていない。

 ここで私は、この記事を読んでいる人がいれば質問をしたい。

「それでも貴方は、新聞を読みますか、TVを見ますか?」と問いたい。

 私はNOなので、あえて新聞もTVもあまり見ない。

 理由は単純で、事なかれ主義やスポンサー広告まがいの記事など、情報ソースとしては邪魔なだけだからだ。こういった情報を仮にいくら集めたとしても、経済危機は予測できないだろうし、原発事故のようなシビアアクシデントには使えないし、将来の展望を予測する事もできない。ゴシップ知識ぐらいは身に付くかもしれないが、はっきり言って、重要な情報が必要なタイミングで得られないならばなんの意味もないし、役にはたたない。

 しかし、それでもやはりメディアというものは重要である。例えば今のような問題が山積する日本で、今までと違う選択肢や可能性を求め、そして政治や社会を動かすにはメディアの役割も必要だ。だからこそ、問題がある今のメディアにはっきりと皆がNOを突きつけて、姿勢を正させるべきだと思う。

 最後に、では実際に私はどういった方法で情報を選択しているかというと、iPhone + Evernoteによるネット情報の収集が大部分であり。具体的には GoogoleReaderによるキーワード検索結果や、登録ブログなどの発信情報などを見出しで集めて結果をEvernoteに登録してからあとで興味のある話題を集めたり、Twitterによる話題をチェックしたりしている。その中にはフリージャーナリストの情報や、海外の翻訳記事なども多くあるので、比較的に幅広い情報を集めるのが手間無く行える。
 既存メディアを正させるには、個人の情報リテラシーを高める事、それが唯一の解決策だと思う。



2012年5月12日土曜日

テクノロジーとしての原子力

 最近読んだ原子力関連の記事「ATOMIC DREAM ワインバーグ博士とありえたかもしれないもうひとつの原発の物語」がなかなか面白かった。3.11より原子力関連の記事に注目してきたが、この話はどちらかというとテクノロジーとしての原子力の歴史や経緯であり、いままでと違った視点で読める話なので興味深かった。

 簡単に記事を要約して説明すると、現在世界で多く存在する軽水炉(福島原発と同じ形式)だけではなく、原子力研究の過程ではもっとさまざまな原子力利用方法が検討されており、そこには最近話題に上るようになってきた「溶融塩炉」というものもあった。最近でこそ中国で取り組みが具体化してきたり、マイクロソフトのビル・ゲイツが研究に資金を出したりして注目が集まり始めているが、この技術は1960年代にには試験稼働できる技術があり、軽水炉型にくらべて幾つかの大きなメリットもありながら歴史上でほぼ日の目を見なかったという話である。
 この記事の中では、溶融塩炉型には以下のメリットがあるとして紹介している。

   * 燃料となるトリウムはレアアース採掘の副産物として世界の大部分で採掘される。処分が難しい物質の為、これをエネルギーに転換できると廃棄物処理観点からもメリットがある。

   * トリウムは自ら燃えない為に、火種としてプロトニウムを利用すれば、プルトニウムの処分も同時に行う事ができる。
   * 液体化したトリウムを利用した場合、事故時に爆発を起こす要因が少なく、軽水炉よりは安全と言える。
 面白いのは客観的に評価した場合には、現在のウランを利用する軽水炉型よりはメリットがあると考えられており、研究者レベルではそういった認識はあったものの、政治や営利的な経緯で、日の目を見れなかったという事だ。次のような点がポイントとして挙げられている。

   * プルトニウムを出さないので核兵器に転用できない。核兵器を作れない。

   * 一番最初に稼働したの原子力潜水艦ノーチラス号(軽水炉)だったので、流れが軽水炉に傾いてしまっていた。
   * いったん軽水炉型原発が稼働を始めると、既得権益者が別の技術の発展を阻む結果となり、実現レベルに行かなかった。
 科学史として読めば非常に面白い記事であり、また結果的に世の中の流れは科学よりは政治や営利で水が低きに流れるような代表的な事例だとも言える。私は元々科学大好きな人間なので、こういった記事は好きなのだが、いまさらながら既に危険だと解っていて、ずっと色々な方法が検討され続けてきた原子力分野が、結果的にはただ営利や政治に流されていい加減な事をやってきたという事を再確認させられる記事である。

 そう言えばちょっと前に、日本の原発をインドネシア、ベラルーシなどに輸出という記事をみたところだが、こういったテクノロジーの歴史を知ると、より一層に原発輸出というのが馬鹿げた事なのだと思う。軽水炉とはずっと長い間、科学者の中では危険性を懸念されてきたものであり、本来はとっくに旧式で引退させるべき技術だった。それなのに日本では3.11後に原子力の後退は先端技術を失うと騒いでいた原発村の科学者などがいたのだから、イタすぎてコメントする気すら萎える。

 もっと言えば、福島事故時には結果的にフランスとアメリカに便りっきりであり、日本にはまともな技術がない事は証明されている。また技術に取り組む姿勢として問題が多い。よそに原発を売ることよりも、4号機を国家総力でなんとかしないといけない事態になのだが、どうも危機感が未だになさすぎる。

 ちなみに誤解が内容に述べるが、溶融塩炉という技術も原子力である以上、それなりの危険やリスクを伴う技術である事には変わりない。実用するにはまだ課題はありそうだし、実際に稼働を始めてから見える問題点も出てくるだろう。

 しかし、それでも日本の原発推進キャンペーンの低能さと比べればはるかにマシな議論ができるだろう。旧式の軽水炉を先端技術として崇めているような馬鹿ばかりが集まりながら、それでも反原発の人々を低能呼ばわりしている状況に比べれば・・・せめて、こういった技術的にも高度な議論をしてもらいたいものだ。

 最後に、仮に溶融塩炉がいかに素晴らしい技術であっても、それでも3.11を経験したこの国に住む者としては、原子力発電は止めるべきだと思う。研究までするなとは言わないが、今までさんざん騙され続け、被爆者を減らそうとも救おうともせず、ごまかしにごまかしを続ける、この原子力村の状態を見れば、原子力のようなリスクのある技術を到底任せる事はできない。原子力よりさきに、原子力村をなんとかする技術なり方法論をクリアする方がさきである。 
 
<参考>
・ATOMIC DREAM ワインバーグ博士とありえたかもしれないもうひとつの原発の物語
 http://wired.jp/2012/04/11/atomic-dream-01/ 
・トリウム熔融塩炉は未来の原発か?
 http://wired.jp/2012/05/03/thorium/
・トリウム溶融塩炉ってなんだ?Part2
 http://www.nagaipro.com/2009-10-05-06-25-25/1592-part.html
・中国、トリウム溶融塩炉と進行波炉開発に照準
 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0316&f=column_0316_013.shtml
・Life is beautiful: 日本が50以上の原発と大量のプルトニウムを抱え込んでしまった本当の理由
 http://satoshi.blogs.com/life/2012/05/nuclear.html
・フランス原子力庁最高顧問、福島原発第四号機・核燃料プールの危険性を指摘
 http://franceneko.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/53-e776.html

2012年4月30日月曜日

大都市不要論(その2)

 以前にこのブログで「大都市不要論」という記事を書いたが、それからもこの考えは度々頭の中に浮かんでくるので、今回はマインドマップにしてみた。最近はTPPなどグローバル化についての話題が多い。しかし、どうしても私にはグローバル化、大都市化といったものは旧い方法論だとしか思えない。メディアで目にする経済学者やコメントは、どうしても近視観てきなものばかりで屁理屈をこねまわした中身のない物にしか見えないし、今後の10年・20年・30年〜100年・200年といった持続可能な社会モデルにはほど遠いところにあるような気がする。

 ここで書いてみたマインドマップは、現在の大都市化の課題と、関連するトピックおよび対立するモデルについて簡単にまとめたものである。分散型都市のコンセプトは物理拠点に依存しないネットワーク社会であり、現在の技術でも十分に実現可能だ。むしろ現在行われている新幹線をひたすら延長するとか、リニアモーターカーで東京間をつなぐよりも、はるかに現実的であり、いずれは必然的に移行しなければいけない社会形態だと考える。
 

2012年4月22日日曜日

創造主のジレンマ

 「創造主のジレンマ」この言葉を思いついたのは「スワロウティル人工少女販売処/藤真千歳 早川書房」を読んでいた時だ。この本は久々に見つけた良いSF作品で、ネタバレしない程度に簡単に説明を述べると。近未来に「種のアポトーシス」という奇病により、人種隔離、さらに男女隔離政策がとられた元東京の一部である自治区にくらす人々の話である。ここでは人間の男女が隔離されて暮らすのが前提の為、代わりに人工妖精と呼ばれる人間を模した生命体と一緒に暮らしている。なかなかうまく説明できないけれど、人工妖精とはアップルシードに登場したバイオロイドのようなもので、人をサポートする為に作られた人工的なパートナーといったものだ。

 スワロウティルの物語で面白いなと思ったのは、人工妖精はもちろん人が作り出した者なので、たんに人間を模しただけではなく、さまざまな能力や役割があらかじめインプリティングされている事だ。大部分は男女隔離された性差を補う為に、人間の夫や妻になるべく作られたものだが、中には指導者として作られたものや、人間の子供の友達用として成長しない子供の姿で作られたものや、孤独な人間をフォローする為に過去の記憶を持たないように作られた個体までいる。

 そして、物語の中にあらかじめ子供の姿で作られた永遠に成長しない妖精や、過去の記憶を持てないように作られた妖精に対して、哀れみを感じる事を傲慢だと問うシーンがある。このくだりを読んでいて私も色々と考えされられた。

 私は「哀れみ」という感情が嫌いで、意識的にはそれらをずっと否定する事にしてきた。だがこの物語に登場するような、あらかじめ運命を決められた者達の話を聞くと、それでも知らず知らずのうちに哀れみを感じてしまっている自分に気がつく。そして、もしも神(創造主)というものが仮に存在したとしたら、彼は予め運命を割り当てる事に、過酷な役割を与えなければならない事に対してジレンマを抱いたのでないだろうかという考えた。これがタイトルの「創造主のジレンマ」という意味である。

 もしも世界を創造するのであれば、おそらくはあらゆる事柄に対立軸を作る必要があるのだろう。そして棲み分けなどの役割分担も作る必要があるだろう。あらゆるものを公平作るなどは、たとえ神が存在したとしても不可能なのだと思う。全てが均等に固定された世界があるとすれば、それはエントロピーが均等に達した死の世界しか存在しえないはずだからだ。
 そしてそうやって作られた世界が存在しえたとしたら、強/弱、美/醜、賢/愚・・・などの限りない対立軸や差異を生み出すしかない。例えばライオンを作った事で、シマウマのように一方的に狩られる存在に哀れみをもったり、貝に動く自由や言葉を与えなかった事を悲しいと思ったりするだろうか。

 こういった「哀れみ」に伴う考え方は、ちょっとずつ形をかえてこの世には至る所に存在する。たとえば反捕鯨団体などは代表的な例だ、かれらは生命全体ではなく、ただクジラだけを保護の対象として過激に行動する。また先進国では後進国に対しておせっかいとも言えるような押し付けがましい支援も中には行ってきただろう。それらを一からげに、良かった、悪かったと論じる事はできないし、私にも正直言ってよく解らない。

 だが、それでも私は「哀れみ」という考え方は傲慢だと、やはりどこかで思う。それは、私が「哀れ」という時は、必ずそれは自分の物差しに当てはめて語っているからだ。本来は人の数だけ、あるいは生命体の数だけ価値観というものは存在し、異なるルールが成立している。それが自然界の多様性であり、棲み分けであり、現実の世界をバランスしている。そして、私は自分自身が、所詮は一本の物差ししか持てない存在である事を、ついつい忘れてしまいがちだ。

 問題なのは、どうも私達はすぐに他の価値観が存在する事を忘れてしまうことだ。そういえば、昔見た「アップルシード」のシーンで、「麻薬のようにはびこった価値観を一掃するチャンスなんだ」というセリフがあった。むしろ現在の問題は価値観の押し付け合いや洗脳しあいがあちこちで蔓延している。
 例えばTPPやグローバル化の議論は、「自由経済至上主義者」達による価値観のおしつけと見る事もできる。この思想も最近では、だんだんと宗教じみてきたように思う。もっと身近では、TVのコマーシャルなどがまさにそうで、ひたすら消費と普通(標準)である事を押し付けてくる。標準というのは所詮は幻想でしかないのだが、こういった圧力が多くて、むしろ日本社会では閉塞感が増しているような気がする。

 もとの話から、かなり脱線してしまったが、久々に読んだ小説から色々と考えされた。ちなみに「スワロウティル」は久々に見た良い作品なのでお勧めです。

2012年3月18日日曜日

TVは馬鹿が見るもの

 私はTVが嫌いだ。しかし昔からそうだったわけではなく、徐々に嫌いになって、いまでは家でTVをつける時間がほとんど無くなった。見ている番組と言えば、海外発信ニュース、科学ドキュメンタリー、映画などといった限られたもので、録画でたまに見る程度である。しかし、自分でも何故これほどにTVが嫌いなのかが良くわからないでいた。

 最近のTVはつまらない。この事についてはわりと世間一般で常識化していて、友達や知人と話をしていてもだいたい同じ見解だ。しかしそれでも、家にかえればBGMがわりにTVをつけているという人の方が多い。それと比べれば私は、BGMにするのも嫌なのでスイッチすらつけない事が多い。つまらないとして無視もできなくて、存在すら何故か腹が立つというレベルだったからだ。そして何故そこまで嫌うのかがうまく自分でも説明できずにいた。

 だが最近ふと、その原因が分かった。ちなみに私はAKBも嫌いで、なぜこんなにAKBが嫌いなのか、関連する記事やTVなどを見かけるといやな気分になるのかと考えていた。そしてようやく理由が判った。そして私がTV嫌いなのも同じ理由によるものだと解った。

 解ってみれば単純なのだが、AKBの販売戦略というのは、大量に広告をうって、色んな所に出て、しつこく何度も刷り込みのように売り込むものだ。そして彼らがやっている内容といえば、エロネタでもスキャンダルでも何でもいいから注目さえ惹けばいいというもので、本来の娯楽性も、ましてや芸術性など欠片も無い。
 つまり簡単に言えば、彼らは「視聴者が馬鹿である」という前提に立って全てを企画している。そして、おそらく私は無意識的に「勝手に馬鹿と決め付けるな」という反感があって嫌っていたのだ。これによって、同様に私がTVを嫌っているのも、主要メディアの報道を嫌うのも理由が解った。彼らは、暗黙の前提として「視聴者は馬鹿である」という仮定にたっており、たいていは問題の内容を歪めている。

 そうして考えると、普段私が目にしているいたる所で似たような状況があるような気がする。官僚は国民を馬鹿だと仮定しており、ゴマカシに満ちた提案や小細工のみを行っている。政治家も同様で、言質を取られないように曖昧な目標や具体性のない事ばかりを語る。そしてメディアも同様に、それらを左から右へそのまま垂れ流すか、あるいはお茶を濁すような報道をして終わる。

 しかし、では本当にこの国に賢いと呼べる人がいるのだろうか? という疑問がわいてくる。大上段から相手を見下ろしている彼らも、始めは確かに馬鹿に向かって、馬鹿に合わせた会話をしていたのかもしれない。だがいつしか、馬鹿話ばかりしていたせいで、まともな話をする能力が失われているのではないだだろうか? あるいはもともとまともな能力など無かったのかもしれない。

 だから、私が提案するのは、みんなでTV見るのを止めましょうという事だ。少なくても節電にはなるし、馬鹿向けに作られた番組を見る人が減れば、つまらないTV番組/TV局も淘汰されて減るかもしれない。また同様に大手新聞(全国紙)も読まないようにすれば、多少はメディアも淘汰されて良くなるかもしれない。はっきり言って現在の日本の新聞は読む価値が無い。中立性もないし、記事の中身もない。当たり障りのない事か、スポンサーに配慮した事か、お茶を濁した記事かのいずれしかない。正しい情報を得るよりも、むしろうっかり誤った知識を植え付けられる害の方が大きいのじゃないかと最近では思っている。
 いずれにしろ、次の点だけは自信をもって言える。

 TVは馬鹿がみるものです。そういう前提で番組は作られています。だから、貴方は見る必要はないのですよ。

2012年3月17日土曜日

この国が背負った恥について

 昨年は震災などの多くの事があって、私にとっても色々な事を考えされられ、同時にそれまでの考えを改める事もあった。少し前にちょうど震災から1年が立ち、何かを書こうと思ったが、うまくまとめる事ができなかった。震災の悲惨さ、収束しない原発事故の問題、危機によって見えてきた、社会や政治および取り巻くシステムのさまざまな問題があった。だが、そういったものは既に多くの人が書いており、色々な声が溢れている。だから私はちょっと違った視点で昨年から起こった事について書く事にする。テーマは「恥」である。

 昨年、3.11の震災および原発事故関連のニュースをみながら、私が一番衝撃をうけたのが、ある時を境に「政府は、この国は、震災による被災者、放射能により汚染された被害者を見捨てたのだ」という事をはっきりと意識したことだった。そして国家がこんなにも安易に、何十万人もの人を見捨てた事に驚き、同時にショックを受けた。

 私はこれらの事をはっきりと「見捨てた」という言葉で語る。だが、この私の言い方に反論する人もいるだろう。だから、ここで少し「見捨てた」と言わざるを得ない理由について説明をしてみる。

 その一番の理由は、彼ら(政府・業界・マスコミ・etc)が放射能汚染の問題を無かった事にしようとした事にある。最近でこそ、少しはメディアで報じられるようになったが、昨年の3月・4月は酷かった。3月の震災から一週間ぐらい経てば民放のTVは通常シフトの番組にもどし、震災被害、その時点でもっとも危険な状態であやぶんでいたはずの原発事故についてあまり報道しなくなった。だがTVや新聞しか見ていない人には、原発事故は収束したと勘違いしているものもいた。(実際に知人でそんな人もいた)

 あとからその理由がだんだんと私にも判ってきた、おそらくは次のような理由や状況だったのだろう。

   * 東京電力)放射能汚染による賠償を少なくする為に、問題をなるべく小さくしたい。
   * 霞ヶ関 )原子力行政(利権)を維持する為に、なるべく問題をなかった事にしたい。また被災者救済に手をだして、あとから責任を問われたくないので、前例がないのをいい事に何もしたくなかった。
   * 政府  )原子力行政(利権)を維持する為に、なるべく問題を無かった事にしたい。
   * マスコミ)広告収入源である東京電力に配慮。また政府や霞ヶ関と対立するのを避けた。自分で判断せず、政府の発表をただ左から右へ流すだけに終始した。
   * 学会  )東大は原子力行政の寄付をうけており、学会全体はむしろ放射能リスクを軽視する方向で宣伝した。またドイツのように拡散予想を作ろうとした日本の学者に、圧力をかけて止めさせた。
 つまり、簡単にいえば、かれら多くの為政者や利権者たちは「何事もなかった事にして、いままでと同じ体制を維持したかった」のだろう。あるいは、本物の危機に直面してパニックに陥り、問題に正面から取り組むのを避けた、目を背けようとしたのかもしれない。

 だが、私に取ってはこれはものすごい衝撃だった。まさに目の前で、数万〜数十万もの人がこの国で見捨てられるのを見る事になるとは、想像した事がなかった。

 米軍は80キロ圏外に退避したのに(米軍はSPEEDIの情報を得ていた)、福島県民は30キロ県外は退避する為の支援を受けられなかった。汚染の問題から正面に取り組み、危険をさけるすべを国民につたえるのではなく、安全基準を引き上げることでお茶を濁した。
 そして今でも常に被爆リスクにさらされながらも、原発周辺の人々は避難できずにいる。政府は被災者を避難させるより、自分たちで除染しろといった。いまでは除染はビジネスになり、巨額がバラまかれているが、当然のごとく被災者を救援するには役にたたない。
 そして数ヶ月たてば、政府はTPP推進と消費税増税の議論を始めた。本来ならば、そんな問題を後回しにして全力で被災地を救援する、いまなおリスクにさらされる被災者を避難させるべき努力をしなかった。そららは、あたかも為政者もメディアも、この問題を無かった事にしようとしているかのようだった。

 私は別段、愛国者でもないし、それほど日本が好きだと考えた事もなかった。だがこれらの状況をみて、憤りと同時に、どうしようもないやるせなさや、落胆を感じずにはいられなかった。おそらくは、これが「恥」という事なのだろう。この国に住む者は、等しくこの「恥」をかぶったのだ。
 正直私はいま「日本人でいることが恥ずかしい」と感じる。そして1年たった今でも、問題を隠蔽して先送りする事に終始し、あるいは除染マネーをバラまく事や、誰も責任を取らない事で、さらに恥の上塗りを続けているこの国に絶望する。

 本来のまともにやるべき事はとてもシンプルだったはずだ。

   * 福島県のように汚染度の高い住民は、順次他県へ移住させる。
   * 汚染ガレキは福島原発周辺に集める。また除染により発生した放射性物質も同様に集める。
   * 全原発を停止し、原子力に関連する技術者を福島原発に集めるなどの対策やバックアップにまわす。
   * 福島から離れた汚染のホットスポットは、除染か移住かなどの対策を調整する。
   * 汚染食材が出回らないように国家基準値を厳しくし、検査体制を整える。
   * 被曝被害が想定される人間のメディカルチェックを行う体制を整える。
   * 問題当事者の責任を明確にする。行政の方針を転換する。
 だが上記のどれもが、まったくか、あるいは満足に行われてはいない。それは今でも、過酷な現実とまっこうから向き合う事をさけて、お茶を濁す事に終始しているからだ。何事もなかった事にしたい行政や官僚達、そして今までと同じやり方を維持したい経済界やメディア。肝心の前提がゴマカシであり間違っているので、当然だが打ち出す政策や方針も正しいわけがない。いまのやり方は、汚染物資が全国に拡大させ、健康被害者を増大させ、国家としての信頼を国内・国外で貶めている。
 口の悪い言い方をすれば、薬で死にかかったあとのシャブ中がそれでも注射を打ち続けているようなものだ。いまのようなデタラメな事をしていては、後に何倍がえして問題が跳ね返ってくる事は目に見えている。

 この国は、自らで自らを滅ぼす、そんな恥ずかしい国なのかもしれない。

<追伸>
これに類似した例が過去にあった。それは太平洋戦争末期に日本が沖縄を見捨てた瞬間だろう。あの時代の愚かさを現代人は十分恥じていると、私は長い間思ってきた。だが結局は同じ事をしてしまっている。最近はだんだんと、日本人にはまだ主権を持つ資格ないのではないかとすら思う時がある。

2012年2月5日日曜日

世界をひとりじめしようする試みについて

 最近ふと思った事がある。「もしも著作権という物が世界をひとりじめしようとする試みならば、それはもはや時代遅れなのだろうと」

 こんな事を考えるきっかけになったのは、最近ちょっと話題になった「ウィキペディアのスト」の記事からだ。現在、アメリカで提出された「オンライン海賊行為防止法案(SOPA)」についてウィキペデイアは反対表明をする為に、1日ストとしてこの法案についての記事以外は全て表示できなくなった。この法案は現在のネットのあり方を大きく変える可能性があり、アメリカでは大きな議論となっている。
 
 では「オンライン海賊行為防止法案(SOPA)」とは何かというと、これはアメリカで提示された著作権保護を目的としたネット規制法案のことである。これが話題となったのは、法案の過激とも言える厳しさの為で、もしも原案どおりであれば、著作権に触れるデータが閲覧できるサイトがあった場合、そのサイトに対するネット接続を直ちに禁止できるという所まで踏み込んでいるからだ。技術的にはDNSサーバ上でサイトアドレスを変換できなくしようというものだが、これが実現するとどのような事がおこるかというと、違反サイトはGoogleなどのサーチエンジンでは検索できなくなり、実質ネット上では存在しないようになってしまう。
 例えば分かりやすい例をあげると、Yutubeで違法動画があった場合、その動画だけではなく、Yutubeそのものが見えなくなる(Googleで検索しても出なくなる)というような事が起こる。だからYutube, Twitter, Facebook, Googleなどのネット上で自由なサービスを提供している企業およびネットを利用するユーザに対して大きな影響があり、今のネット文化の根底をゆるがしかねない問題だとして議論になっている。

 なおこの問題は色んな角度から考える事ができる。例えば、次のようなものだ。

   * デジタルコンテンツの著作権をそもそもどう保護すれば良いのか? というそもそもの課題。
   * Yutube, Twitter, Facebook,などの新メディアと、映画会社、新聞社などの旧メディアの利権争い
   * ネット上における自由な情報公開という理念や流れに対する逆行
 私の意見を簡単に述べると、私はもちろんこの法案には反対である。理由はこの規制法案の権限が大きすぎて、これでは30年前に時計の針をさかのぼらせるような無謀な行為だからだ。また著作権侵害ひとつでサイトを殺せるならば、これは巨大な情報統制装置として悪用される可能性がある。

 だがこの問題について、私はふと「そもそもデジタルコピーの時代に「著作権」にしがみつづけるという発想が、既に時代遅れなのではないか」という根本的な疑問について考えるようになった。

 例えば私がネットでよく使うのはニコニコ動画で、最新のボーカロイド楽曲を聞いている。ネット+動画+ボーカロイドというものが出来たおかげで、いまや個人が作ったユニークな作品をだれもが視聴して楽しめるようになった。最近ではメジャーレーベルが出す音楽よりも、ボーカロイドなどを使った個人の自作曲の方が面白くて、そっちを聞く事の方が多くなったぐらいである。
 これらの作品は著作権はあるものの、基本的に個人で楽しむ限りにおいては特に制約されていない。だからこそ発展して広がっている。いつのまにか初音ミクが世界中に配信されるようなったぐらいだ。自由であるということ、制約が少ないということは、文化が発展する為には不可欠な条件である。
 
 その代表が音楽であって、いまや才能とアイディアさえあれば個人が楽曲を世界中に届ける事ができる。これはとても素晴らしい事だ。しかし逆に言えば、個人でこれだけの事ができるので音楽業界や仕事としてお金儲けをする事はとても難しい時代になったとも言える。なんせCDを買わなくても、ネットでだいたいの曲を探せるし、レーベルが無くても良い音楽を聴く事ができる。
 なのでネットで好きな個人の音楽家をどうやって支援すればよいのか、あるいはプロのミュージシャンで好きな作家をどう支援すればよいのだろうかと考えるた事があった。作品そのものが直接お金に結びつきにくくなったなかで、はたしてどうやって優れた作家を支援すればいいのだろう?

 結局のところ、私が思いついたのは「募金」だった。CDや動画に金を払わなくても、自分が支援した優れた作家には募金してお金を直接届ければいい。大金にはならないかもしれないが、それでもネットで楽曲が広がる事を考えれば、結構なお金を集める事が出来ると思う。

 これは原始的で乱暴な考えに見えるかもしれない。しかし近代になる前の音楽家や芸術家というのはある意味こういった存在だった。例えば中世の音楽家(モーツアルトなど)には必ず貴族のスポンサーがついていたし、そういったスポンサーが無い者達は大道芸や流しみたいな感じで歌いながら諸国を巡っていたのだろう。日本でも古い時代の民衆の音楽家は決して地位が高かったわけではなく、河原ものと呼ばれていた時代があった。むしろ現在のように芸術で大金が動くというのは本来は不自然なものなのかもしれない。

 そしてもう一つ思ったのが、そもそも「著作権」というのはなんだったのかという根本の話だ。私の解釈では、これは本来は優れたアイディアや作品を作る事、本来はあまり力を持たないアーティストを保護するのが理念だったと理解している。だが現在は、著作権や特許権などの権利が直接お金に結びついて世の中を歪めてしまっているようにも思う。
 その代表的な事例が「遺伝子に対して特許申請をすること」である。例えば人間のDNA解析結果で特許を申請し、それを用いた医療に対して高額な特許代を上乗せするような事が行われている。だがそもそも人間の遺伝子は私達誰もがもっているものであり、同様に自然界のDNAや元素ももともと等しくこの世にあるものだ。なのにそれを特許として、だれかが占有したり独り占めしようというのはそもそもおかしいのではないだろうか?
 
 本来は作家(力ない者達)を守ろう、優れたアイディアを大事にしようという理念が著作権という考え方だったはずなのだが、今では巨大企業がそれを盾に世界を縛ろうとしして歪めている事の方がむしろ目につく。だから悪い見方をすれば、現在の著作権や特許権というものは、まるで「世界をひとりじめしようとする試み」に見えてしまう。そしてこう感じるようになった背景として、世の中が以前とは大きく変わったのだという事がある。例えば次のような点だ。

   * 世界が狭くなり、開拓して新たにパイを得る時代から、決められたパイをみんなで分け合う時代になった。(エネルギーなど)
   * ネットが広がって世界を一つに結ぶようになった。結果として世界は今では深く依存し合っている。(特に金融などは)
   * 結ばれた世界では、全体の利益を考えないと、結果として自身の利益を維持する事が難しくなってきた
 だから著作権のように個人、1企業、1国家という単位で利益をひとりじめすれば良いという考えは、いろいろな局面で現実的にそぐわなくなりつつある。もはや世界はひとりじめ出来るような物ではなくなって、お互いにシェアしたりフォローし合わなければ成立できないような小さなものとして、考え方そのものも変える必要があるのだと思う。そして、ようやく世界をシェアするという視点にたった、ルールを作り出す時代が到来したのだと思う。


<参考リンク>
・ウィキペディアなどがストを計画 著作権侵害防止法案に抗議
 http://www.cnn.co.jp/tech/30005299.html
・ゲノム解析と特許、遺伝子情報は誰のもの?
 http://www.anlyznews.com/2010/09/blog-post_03.html

2012年1月15日日曜日

福島原発事故の現状について

 しばらくブログには原発事故については話題を書かなかったが、もちろんこれは事故がかたずいたからではなく、また我々のような一般人にたいする危険性がなくなったわけでもない。逆に書かなかった理由は、徐々に悪くなる状況と、こういった諸問題を隠蔽して逆に悪化させてゆく、日本全体のシステムに対して絶望すら感じるようになったからだ。過去にこれらの問題をさんざんブログに書いてきたのだが、改善されない状況にて気持ちが滅入るだけなので、単に同じ事を繰り返すだけの記事はあえて書かない事にしてきた。
 しかし前に書いた「ちょっとオカシイだろう日本人、「道連れ思想」というもの」(7月末)からしばらく時間がたったので、いったんこの辺りで状況を整理するのがいいだろうと思い、もう一回あらためて私なりに整理した状況をまとる事にした。私自身も日々Twitterやブログなどで原発事故の記事はよく見ているのだが、下記のようなポイントは整理が必要だと考えていた。

   * 福島原発事故は、多少なりとも収束に向かっているのか?
   * 放射能汚染エリアはどこまで広がったのか?
   * 食品汚染の現状はどの程度なのか?
   * 福島やその周辺地帯で健康問題は生じていないのか?
   * 日本は脱原発へと向かえるのか?
 むろんこういった話題はTwitterなどでよく耳にしている。だが話題を耳にして直感的に思うのと、実際に調べて確かめるのは大きな違いである。たまにはそういった事も地道にする方が良いので、あらためてネットなどで記事を探して考えてみた。

1)福島原発事故の対応状況
 政府は冷温停止して一段落といっているが、さすがにこれを信頼する国民はいないだろう。そもそもメルとスルーした原発に冷温停止などという言葉は似合わない。核燃料はすでに地下へ潜ったという見方が有力ではあり、これから懸念されるのは地下水の汚染である。地下水が汚染される事については、結果として海二流れて汚染される懸念と、地下水脈につながって広く本州の地下水が汚染されるのではないかという懸念がある。実はここが私はもっとも懸念しているのだが、正直、地下水脈がどうなっているのか私にはさっぱり解らない。この為に実際に本州や東北が広く汚染される可能性があるのかはわからない。
 ただし地下水脈が直接汚染されたらというのがとてつもない事だというのだけは理解している。何故ならば現在の放射能汚染で騒いでいる量というのは、海に流れた分と比較すれば何十、何百分の一ていどにも満たないからだ。地上に溢れたのはあくまでも粉塵となって散った物が大部分であり、直接水にとけこんだ高濃度のものとは比較にならないほど少ない量である。よってもしも地下水脈がおせんされたら、その水はおそらく食用どころか、工業用にも使えないような極端な汚染となるだろう。

 またもう一つの大きな懸念は4号機の建家倒壊である。ここには使用済み燃料が多く残っており、専門家が現在一番恐れているのが4号機だと言われる。もしも4号機が倒壊すれば、大量の放射性物質が3.11並みに降る可能性もあると思うが、それと合わせて人が福島原発に近づく事ができなくなり、結果としてさらに最悪の事態をまねく可能性がある。
 なぜならば冷温しているといいつつも、現在はまだ各原子炉は水をかけてなんとか冷やしている状態であり、これが止まればまた暴走や爆発などという可能性も無視できないからだ。よって人が施設にちかづけなくなれば、けっかとして原子炉が暴走してどれだけの災厄になるのか想像もつかない。

 だから冗談でも解決しつつあるとか言える状況ではない。よって、こんな状況で福島県に住民を戻そうという考えが、そもそもどれだけ馬鹿げているかが分かるだろう。


2)放射能汚染エリアについて
 そもそも汚染エリアとその扱いについては、安全側に倒して被害を小さく見せたい国側と、危険サイドに倒して危機感を持つべきという両方の意見が大きく分かれているので、そのまま記事をみても判断が難しい。なのでやはりチェルノブイリの経験を元に、日本の状況とその対策の妥当性を考えるしかないのだと思う。

<チェルノブイリの避難基準>
    (強制避難エリア)      :148万Bq/m2(MBq/km2)
第一区分(強制移住エリア)      :55万5千-148万Bq/m2(MBq/km2)
 (年間15ミリシーベルト以上)
第二区分(補償つき任意移住エリア):18万5千-55万5千ベクレル/m2(MBq/km2)
 (年間5ミリシーベルト以上)
第三区分(放射線管理エリア)     :3万7千 - 18万5千Bq/m2(MBq/km2)
 (年間1ミリシーベルト以上)


 単純に出回っている汚染マップだけを見ると、強制移住は福島周辺にほぼ限定される。しかし東京圏でも移住すべきという意見があるのは、どうも年間5ミリシーベルトという目安で考えた意見だ。ちなみに過去に日本政府は年間20ミリシーベルトまでは大丈夫といってきたが、これはチェルノブイリよりも緩い基準で本来は話にならない。

 では年間ミリシーベルトで考えると、日本の汚染状況はどうなっているのだろうか? 早川氏が作った地図によれば、チェルノブイリでの移住地域にも日本では多くの人がなんら保証もうけられずに住んでいるのが現状である。ちなみに新年になったあたりから各地のセシウム降下が増えているという話も聞いている。よってまだ期間半減してゆくという話をして良い時期でもない。
 また汚染ガレキの受け入れを、福島県外の自治体へまわそうとしている動きが相変わらずあり、油断をすればさらに汚染エリアを広げる可能性がある。よって東北以外の地域でも気付けば汚染されてしまう可能性がある。


3)食品汚染の状況
 関西に住んでいる私としては、直接関わるのが食品汚染の問題である。ちなみに3.11後は、お茶はほとんど飲まなくなったし、野菜や食材は福島県や東北産と分かれば買わないようにし、魚もほとんど食べなくなった。もっとも警戒しているのは魚で、検知するのが難しいとされるストロンチウムがどの程度あるか分からないからだ。また魚は産地偽装されているかどうかも判別しにくいので、もっともガードしにくい。

 こういえば私が根拠もなく心配しすぎているのではないかと考える人もいるだろう。しかし、そもそも外国では日本の食材を3.11以降は輸入禁止処置をしているのが大部分である。よって普通に考える人たちは、日本産など食べないのだ。また安全基準があるだろうというが、日本の安全基準(500ベクレル)というのは、ヨーロッパでは到底認められないような緩い基準である。
 よって私的には、安心して日本産が食べられるようになるには、まず海外が日本産の食品を輸入してくれるかどうかを目安だと考えている。ちょっとこの件をネットで調べたが、あんまり状況は変わってないようだ。例えば日本全体を禁止から、禁止は東北だけにするとか、厳重なチェック証明をつけてなんとか許可するとか、概ねはまだ禁止措置はつづいているようである。よって安心して食べられるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。


4)健康被害は起き始めているのか?
 私的には福島県レベルでは被害があって当たり前で、ないのが逆におかしいと思っている。だがこの情報が現在はもっとも分からなくて、ネット上でも公的なメディアや機関が明確に数字を出した例をしらない。しかしブログやTwitterなどでは、最近は心不全でなくなる人が増えたとか、運動部などの外で活動をしていた子供が健康を害する例が多くなったという記事はポツポツと目にする。5年ほど経てば統計的にも明確になると思うし、公的機関も数字をださざるを得なくなると思うのだが、それまで放置してよいような小さな問題ではない。

 できれば死亡した人の解剖と内部被ばく調査を義務づけるようにして調べてもらいたいところだ。それぐらい徹底してやらないと将来起きるべき被害に対する対策は立てられないだろう。しかし耳にするのは、公的機関やメディアがむしろ隠蔽側に加担しているといったような噂ばかりだ。


5)脱原発へと向かっているのか?
 さすがに推進する力はなくなってきているようだが、既存の大量にある原発を止めるまでにはまだ時間がかかりそうだ。さすがに最近では原発がないと電力不足になるとか、化石燃料だと電気代あがるとかを信じる人も減ったと思うが、電力業界の力はあなどれず、油断はできない。


 最後にまとめとして所感を書いておく。もう何度も思うのだが、原発事故に関する記事やブログを見てこの問題を軽視している人や、どうも他人事と思っている人、あるいは思考停止しているような人が多いという事だ。例えば放射能汚染を女性は気にしているが、亭主はなんにも気にしてなくてこの話題を出すとけんかになるとかといった例だ。

 男だから気にしないというのもちょっとおかしくて、この手の話を聞くといつも疑問に思っていた。ちなみに身近な友人や知人と話しても、食べ物など気にしないという男性は多い。これはTVや新聞のせいなのか、良くわからないが、小さな子供がいて本来は気にするすべきだと思うが、この話題を出す人はすくない。
 数年たてばそうも言ってられなくなると思うが、この危機感のなさが現在の日本では一番問題なのだとつくづく思う。

 3.11の原発事故は一歩まちがえば、国無くなるぐらいのインパクトがあった事件であり、いまでもまだそれぐらいの被害を起こす可能性を残している。それだけは、いまでもやはり間違いないことだと思う。

<参考サイト>
・放射能汚染地図・土壌汚染マップ【SAVE CHILD】
 http://savechild.sub.jp/
・チェルノブイリの避難ルールを基準にしたら、福島第一原発から80キロは希望すれば移住が認められる?! | TheNews
 http://the-news.jp/archives/2922
・【放射能汚染】チェルノブイリの強制移住基準超も…親ら調査 93万1000ベクレル/㎡ | SAVE CHILD
 http://savechild.net/archives/4654.html
・早川由紀夫の火山ブログ フクシマとチェルノブイリの比較(改訂版)
 http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-450.html
・世界各国の輸入規制~日本の食品(放射線検査など)【随時更新】 - NAVER まとめ
 http://matome.naver.jp/odai/2130813549464571801