2011年11月24日木曜日

グローバル化の先に向かうには

 グローバル化をテーマに数回にわたってブログ記事を書いてきたが、書いているうちにだんだんと頭の中が整理されてきたので、ここらで自分なりに理解をまとめておきたい思う。

 もともとグローバル化やTPPについて何故考えるようななったかというと、きっかけは3.11の福島原発事故からだ。それまで私も多くの人と同じように、原子力は多少の危険性はあっても必要悪だといった程度の認識で、あまり核や原子力について深く考えた機会はなかった。しかし原発事故が実際に起き、まともな報道がなされない状況で、なんとか自分なりに四苦八苦しながら、いったいどんな状況なのか、この事故は収束が可能なのか、もう日本から出てゆく決断を求められるような自体なのか、といった事をなんとか調べようとした。

 そしてこの過程で、いかにメディアが情報を隠蔽しているか、あるいは歪めているか、そしてメディアを抑え、ここまで原子力を押し進めてきた政財界+学会+官僚+検察+・・・etcのどこまでも続くつながりや連鎖の存在に気がつくと同時に、絶望的な気分となった。これらに原子力行政やメディアに対する不審というのは、過去のブログでも記載していたが、そのうちに「そもそも原子力とはなんだったのか?」もっと言えば、現在あたりまえのように運営されてきた政治や社会といったものが、そもそもなんだったかのかという疑問を感じるようになった。原子力だけではなく、原子力を生み出した構造、それを求める人たち、そこから利益を得る人たち。

 この想いが私の結論として、「未来を消費する社会」というブログの記事につながった。なんだ、結局のところ我々の社会モデルはこのまま継続できないじゃないか? 破綻寸前の危うさや多くの危険性を含んだ、きわめて危ういものだったのだという所に考えがたどり着いた。そしてそれらを押し進めてきた最大の要因が、グローバル化であり、世界の主役が国家から多国籍企業を例とするような巨大資本へと変わった事を意味しているのだと、ようやく気がついた。そしてグローバル化と、最も現在危惧しているTPPについてのブログを書いてきた。

 ここで少しだけグローバル化について補足すると、世間でのグローバル化やTPPに対する議論は、その前提において幾つか誤解をしている場合が多く、それがこの問題の理解を妨げている面がある。復習の為のまとめると、次のようになる。

   * グローバル化が進んだ社会の主役は、個人でも国家でもなく、多国籍企業などの国境なき巨大資本である
   * 経済成長と国家が豊かになるのはイコールではない、当然個人が豊かになるのもイコールではない
   * つまりは日本(国家単位)が豊かになる/ならないという時代ではなくなった
   * ゆえに日本の経済成長などと言う、経済アナリストの意見は聞いても無駄である
 
 だが同時に、ずっと考え続けてきたのは、ではグローバル化をどうやって止めるのか、それに変わるどのような新しい社会モデルはたしてあるのかという事である。しかしこの問題に対しては、まだ実行力があると思われるような明確な解答はまだ得られない。でも幾つかそのヒントになりそうなものはある。

 ひとつは過去の歴史に学ぶこと、例えば以前に「江戸時代は究極ともいえるリサイクル社会だった」というのをTVでみた事がある。少なくとも近代以前の社会は未来に対して継続可能であり、そのままであれば何千年でも社会を維持できるようなモデルだったと言えるのだろう。また現在のように、未来にはエネルギーや食料不足だけが残り、おまけに核廃棄物まで抱え込まないといけないというような事は無い。最近話題になったブータンのような社会にこそ本来の解があるのかもしれない。

 もう一つ最近見て強く印象を受けたのはビデオニュースの「TPPで食の安全は守れるのか」に登場した藤田和芳氏(大地を守る会会長)の言葉である。藤田氏は「大地を守る会」を作る時に生産者と消費者の中間に立つことを目指し、また顔が見えるようなビジネスによる信頼関係の構築を重視したと語っている。おそらくは、こういった事が現在最も欠けている視点であり、今後の新しいモデルを考える場合の重要な基礎となるのだと思う。

 いずれにしろ、私の結論としては、今までとは違うルールで社会を再構築する必要があると考えている。その為には新しい社会モデルや経済モデルが必要であり、豊かさの定義や幸福の定義も見直さなければならないだろう。

<備考>
 巨大資本が暴走しつつ、なおもそれを止める事ができな現状や問題点については、昔読んだ「暴走する資本主義/ロバートライシュ:東洋経済新報社」に解りやすく書かれています。せめて民主主義:資本主義=50:50ぐらいならばいいが、現状は10:90ぐらいかな。いまとなっては、情報化社会以後は民主主義の敗北の歴史と言ってもいいぐらいだとさえ思います。

<参考リンク>
・マル激トーク・オン・ディマンド第551回(2011年11月05日)TPPで食の安全は守れるのか
 http://www.videonews.com/on-demand/551560/002132.php

<過去ブログ記事>
・未来を浪費する社会
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_08.html
・グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html
・グローバル化は何が問題なのか
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_31.html
・グローバル化とフェアネス
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
・グローバル化とは、TPPは経済の問題ではない
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/11/tpp.html

2011年11月18日金曜日

グローバル化とは、TPPは経済の問題ではない

 TPPに関するブログを見てしばらく考えていた事がある。多くの人の色々な意見があって、賛成/反対はもちろんだが、なかには「どうでもいいや」というものもある。なかでも私は、この「どうでもいいや」という意見に凄く引っかかる所があってしばらく考えさせられた。私は大問題だと思っていたけど、実はたいした問題ではなかったりするのか、あるいは結果としては日本はそれほど以前と変わらない社会を保つのか? 

 実際にTPPの論議にはいびつなところがある。全国メディア(特に経済連関係と思うが)は一律推進で、メディア以外の知識人は概ね反対もしくは批判的、ネット上の空気はだいたい反対、各種業界団体は反対、でも日常ではあまり話題になる事は少ない。
 メディアの報道に問題があるせいでこじれているが、情報に敏感な人はだいたい反対だが、大多数の一般人は他人事扱いだ。そして彼らがなぜ気にならないのかと言えば、多くの人はよく解らない、それも「TPPによって自分が損をするのか得をするのかが解らない」からなのだろうという事に気がついた。

 そこでようやく私も「経済的な視点(損か得か)でTPPを論じるのは問題なのだ」という事に気がついた。

 私はTPPは非常に大きな問題(選択)だと考えている。どれぐらいかと言えば、原発の推進/反対と同じぐらい、また古くは日米安保で揉めたあの時代ぐらいに、本来は大きな選択だと思う。それは、この選択が経済(損得)だけではなく、日本社会や文化のあり方そのものを大きく左右するからだ。

 TPPが普通の通商条約と異なるのは、ISD条項により海外企業が日本の国内法に対して意義を申し立て〜国際裁判〜賠償へという流れに持ち込むことが出来る事に代表される。つまり従来は関税(税率)だけだった話が、日本社会の法律に対して他国の企業が文句をつけられる点、TPPはそのコンセプトとして、加盟国の国家政策(政府の監督政策、労働、環境、公共事業政策、安全基準、など諸々)すらも非関税障壁と見なして撤廃しようとする所にある。(具体的には力関係にしたがって、日本社会をアメリカにあわせろと言っているのとほぼイコールだが)
 ゆえにこれらの問題は、本来は経済問題ではなく、むしろ政治的な問題、社会および文化的な問題である。以前に「中野准教授」対談で印象的な話があった。

<抜粋:TPPは当初、農業だけと思って多くの人は気に留めなかった。しかし最近になってから影響が多くの業界にある事に気付いて反対運動が広がる。だがその反対運動も業界毎に縦割りで、なかなか纏まろうとしない>

 こういった例に示されるように、現状では多くの人がTPPを損得だけで判断しようとしている。しかし、これはあまり健全な議論ではなく、ややもすると本質を見失う。それがTPPに関する、多くの思惑が絡み合って話をややこしくする理由である。例えばネットをしながわ見た中でも、次のような思惑が見え隠れする。

   * 国際的なルールの単純化は多国籍企業には都合が良い。(国際展開している企業ならばね)
   * 既にアメリカの特定企業とTPPを進める前提でビジネスチャンスを設けているから推進だ。(経済連会長とか)
   * TPP導入の外圧を利用して、日本内の利権を整理しなおしたい。(官僚には一部あるらしい)
   * 対米従属の一環としてこれはやるしかない。(外務省かな)
   * 普天間問題の失態をTPP参加でチャラにしたい。(民主党政権)
   * 経済連やスポンサー企業に逆らえないので、かなり歪曲してもTPPを押す大手メディア(特に日経)
   * 国内の利権が消えるのを恐れて反対を仕掛ける官僚(外務省以外は、原則メリットないはずなので)
   * もちろんまっさきに影響する農業関係(農協とか)
   * 医療も大幅に改訂されるのを懸念して反対へ(医師会だったかな)
   * 日本国内の業界は概ね反対なので、各業界は概ね反対。
   * 食の安全や、医療などの安心・信頼が脅かされるので反対する人々。
   * デフレや失業が見え隠れするので反対する人々。
   * 経済アナリストとかは、だいたい大手企業がスポンサーなので概ね賛成路線か。
   * メディアの捏造体質や、政治不信もあって反対か少なくとも、ちゃんとやれという意見など。
   * ・・・etc
 挙げていけばいくらでも出そうな気がするが、現状では多くの者が自分の直接利益(損得)だけで、反対だの賛成だのと言っているので、それが議論をややこしくしてしまう。それよりは、むしろ下記のような観点でこの選択について考えるべきだ。

   * 日本の国内法が、海外企業によってゆがめられる。つまり国家主権の放棄に近くなるが良いか?
   * 力関係により、実際にはアメリカ型の社会へと加速してゆくが良いか? それとも目指すか?
   * 全てのルールを海外企業(正確にはアメリカでロビー活動できる企業)に委ねるのが良いか?
   * 経済コストだけで、言い換えれば資本主義ルールだけでルールが決まるのが、住み良い社会を作るか?
   * 信頼や安全など、コストだけで割り切れない重要な価値があるのではないか? 

 余談だが、グローバル化についての過去ブログで度々記載してきたが、私は下記の3つのレイヤを元にグローバル化とは何かを考えてきた。
<レイヤ別に分かれた複数の世界>
 物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
 情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
 ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある


 そして社会の進化として考えた場合、物理レイヤ(国境線)だけがずっと残り、それゆえになおさら多国籍企業に多くの人々が搾取されるような構造が生まれると考えていた。でもTPPのポリシーをもっとラディカルに押し進めたならば、やがては労働移民の移動が自由になるかもしれない。そうなれば、これは実質的には国境が消滅した事と言えるのかもしれないと思うようになった。
 しかし、仮にそうなったとして、どうなるかは予測しにくいが、現状の1%者達が利益を独占するようなルールの上では、正直言ってあんまり良い未来があるとは思えない。いろいろと考えてみたけど、やっぱりTPPは反対だな。

<参考サイト>
・「TPP」より 「11月27日」 - Chikirinの日記
 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111115
・TPPが日本の政界再再編につながる?
 http://tanakanews.com/111101TPP.htm
・【動画】 津田大介 VS 中野剛志 「だからTPP参加はダメなんだ!」
 http://www.toychan.net/archives/2011/11/10_0130.php
・やっぱりただの経団連の走狗だった在京マスメディア - 木走日記 - BLOGOS(ブロゴス)
 http://news.livedoor.com/article/detail/6015180/

2011年11月6日日曜日

グローバル化とフェアネス

 久しぶりに「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」を見て、グローバル化に対する宮台・萱野氏の視点と、ちょっと前からブログに書いていた私の視点やニュアンスがだいぶ違うという事に気付いてショックを受けた。私自身は宮台・萱野氏の論説は前からずっと好きなのだが、それでもこれだけ考えが違うのかという事に驚いた。また私が問題提起していた内容というのが、それぐらい特殊な事だったのかなと考えさせられた。

 ではそもそもどこに違和感を感じたかというと、菅野氏が指摘するグローバル化の問題とは、つまりは各国の経済、ひいては各国間の経済格差の問題という指摘だった。グローバル化を推進すれば、安い労働力との競争で国内経済は苦しくなる、しかし世界全体で見れば経済格差を減らす事になる。だからグローバル化は必然的な流れであって、あとは過激な変化をどうやって緩めるか、自国の経済をどのように守るかをナショナリスト的な視点からも考える必要があるだろうといった論説だった。
 別にいっている事に間違いはない。しかし私はこの議論の展開にどうしても強い違和感を覚えた。「ああ、こんなに実は視点が違ってたんだ」という驚きもあった。そこで改めて気がついたのだが、私が何回かブログで指摘してきたグローバル化の問題とは「経済問題」を指しているのではなく、だから菅野氏の論説に強い違和感を覚えたということだ。


 以前のブログ「グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし」に書いたのだが、私はグローバル化というものは結果的に世界を均質化するようなものだと思っている。ずっとイメージとしてあるのは「琵琶湖」にブラックバスを放流する図である。つまり強いものが一人勝ちして結果的に他を排除する、ひいては結果として世界を均質化する。琵琶湖の例ではブラックバスが一人勝ちして、在来種は絶滅の危機に瀕する事となった。私はこのような例は、結果として本来あった多様性を無くし、単純で均質な物だけにするものであり、ゆえに社会や文化の進化として視点からみて問題だと考えている。

 でも菅野氏が言うように、世界を統一ルールで運用しようとする事は、ある意味「フェア」とも言える。しかし、私はあえて反論したい。

 「そもそも人種や国土、そして歴史・文化、宗教に至る異なる者達に同じルールを適用する必要があるのか?」

 そもそも人間というのは色々な差異があって当たり前だし、国家となるとなおさらだ。国が違えば育つ作物も違うし、気温が違えば暮らし方も変わる。それぞれの想いや文化や価値観があって、目指す幸福感なども違うだろう。だから、そもそも異なる者達に同じルールだから「フェア」です、というのが意味があるのかという疑問である。そもそも彼らはフェアを望んだのか?

 そしてグローバル化が目指すフェアネスはあくまでも、ビジネス上だけのものである。これらを進める暗黙の前提が、経済成長が至上価値であり、誰もが先進国と同じ暮らしをしたいだろうという自惚れ?に似た思い込みではないだろうか。
 全員がビジネスマン(ホワイトカラー)をひたすら目指すような単一の競争社会、単純な優劣、あらゆる価値を金額に換算可能なものとする前提、そして金額換算できない価値を除外する試み。現在のやり方が正しくて将来も継続可能だという前提がたって、それらは初めて本来の妥当性を持つ。

 しかし、私にはどうしてもグローバル化に代表されるような現在モデルが優れたものでも、永続的に運用できるものだとも思えない。特に永続的に継続できるのかということに多いに疑問がある。
<参考>
・今こそナショナリズムを議論の出発点に「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」
 http://www.videonews.com/charged/on-demand/541550/002124.php