2011年10月31日月曜日

グローバル化は何が問題なのか

 前回のブログで「グローバル化に反逆すべし」と記載した。しかし私の中でも、グローバル化は何が問題なのかというが、まだうまく整理できているわけではない。そして、ウォール街でデモを行った99%の人たちも「これは何かオカシイ』と感じながらも、同様にこの問題をうまく理解できてはいないのだと思う。評論家は簡単な言葉で、彼らの事を「具体的な要求もない、単なる不平や不満のはけ口なだけで、大きく意味を持つ事はない」と語る。
 でも、はたして本当にそうなのだろうか? 私は疑問だらけだ。現在の社会や文化は、実は袋小路に陥っているのではないか? 覆い隠された欺瞞や矛盾が、今にも膨れ上がって破裂しそうになっているのではないか? 知らず知らずのうちに、昨日までのルールが通用しないような新たな局面にさしかかっているのではないかと感じる。だから、次のような命題を立てて頭の中を整理してみる事にした。




 「グローバル化とは何を目指し、何処にたどり着くのか?」




 前回のブログ(グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし)にも書いたが、私は大まかには世界を3層構造でイメージしていて、現在問題になっているグローバル化とは、ビジネスレイヤが物理レイヤを浸食している状態だと考えている。


 <レイヤ別に分かれた複数の世界>
  物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
  情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
  ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある


 もう少し具体化すると、ビジネスレイヤに属するプレイヤーは多国籍企業であり大資本家が中心であり、その周りに投資家や金融家、そして経済評論家および学界や法曹界なども巻き込んだ幅広い層を形成している。ここでポイントとなるのは彼らは国家ではなく、国家を足場とするものでもなく、また市民を代表するわけでもないということだ。


 私は60年代にあった共産主義などの議論には詳しくないが、その当時にコミュニストが指摘した帝国主義的な資本家の侵略と呼んでいたものが、現在の大資本家にあたるのかもしれない。しかしこういった言葉はどうも実感が湧かないし、私は共産主義者でも左寄りでもないので、もっとシンプルにこれらを「メタ資本」とここでは呼ぶ事にする。


 「メタ資本」とは、「資本」が自らを増やすという純粋な目的の為に、あたかもアメーバのように周りの物をひたすら飲み込みながら増殖を続けるかのごとく成長をしている姿をイメージした事による造語だ。なぜこのような呼び方をするかと言えば、私にはもはやこれが人間的な意思や目的を持ったものとは思えず、むしろ単なるエネルギー、もしくは物理法則に近いようなものに感じられるからだ。
 何故ならば「メタ資本」が持っているのは成長する欲求だけであり、自らを止める手段も持たず、哲学も持たない。人格や信念のようなものがあるわけではない。だからこれらを「善」であるとか「悪」であるとかというカテゴリ分けもできない。


 では「メタ資本」が目指すのはどのような世界か? ここで疑問に思ったのだが、そもそも哲学を持たない者が「未来の世界像」など持っていないと考える方が適切だろう。だから少し言葉をかえて「メタ資本はどのような環境で最も成長するか?」と考えれば、次のような幾つかのポイントが見えてくる。

  1. 物理レイヤ(国境)の撤廃
  2. 情報の統合、単純化 ・・・コミュニケーションルールの最適化
  3. 浪費し続ける、高いエネルギー社会
 上記を説明すると、ようはビジネスをやりやすい環境を作ろうとするならば、まずは国境は邪魔であり、そして言語が複数に分かれているのも無駄であり、多文化や細分化された世界は非効率的である。そして製産をし続ける為には、ひたすら浪費をし続ける世界が必要だという事だ。


 解りやすい例では、コカコーラやマクドナルドを世界中で売る事を考えれば良いと思う。これは身近なものだが、上記の3つの要素をそれぞれ含んでいる。そこには「人々が要求したから」というよりは、むしろ「資本がそう願ったから」実現させた世界のように思えないだろうか。同じような構造は他にも自動車やコンピュータ、石油資源でも同様の製品や力学がある。
 元々はそれぞれの国家や地方で特有の文化があれ、個別に発展してきたものが、進出してきた巨大資本におされて絶滅してゆき、最後にはもっともシンプルな力のあるものが支配するというのは、ここ数十年でいたるところで見てきた光景だ。 




 ちなみに誤解のないように言えば、私はコーラもマクドナルドも好きで、それが必ずしも「悪」だといっているわけではない。しかしこういった商品が他を蝕んで、結果として食生活を貧困にしてきたという要素はあるだろう。例えれば、琵琶湖に放たれたブラックバスが他の在来種を駆逐してしまったように、「ブラックバス」自体は悪ではないが、もたらす結果は必ずしも良いとは限らない。


 そして根本的な問題となるのは、この地球上(世界)という有限のパイを取り合う事が、そろそろ限界に近づいてきているのではないかということだ。少し前のブログ「未来を浪費する社会」にも書いたが、現在の社会は既に現実界を喰い尽くして、あたかも未来すらも喰い尽くす勢いにすら最近は思えるようになった。だから、最近はそう遠くない未来にはどこかで文明的なバブルが崩壊するような破局がおとずれるのではないかとすら感じる。
 私は社会科学や経済学の知識はないが、それでも自然科学などの目の前にあるモデルからすれば、グローバル化を進めようとするこの力は、まるで小さな池の鯉が全ての餌を取り尽くしてやがて餓死に至るような危ういものにしか見えない。




 だが現実にはグローバル化による力は強力で、止めるどころか、緩める事すら困難だ。いまや1%の人々(あるいは資本)が、99%の人々を圧迫しつづけており、国境を超えて行動するこの力を、国家や政治ではコントロールする事ができないでいる。そして99%の者達も、その資本の恩恵を得なければ生活できなくなっている。これらは既に経済的な問題という枠を超えて、社会や文化レベルで論じるテーマだろう。


 しかし、現在はまだこの問題に対して「正しい問題提起」すらできていないのかもしれない。メディアおよび知識人でも、根本的な問題提起や、発想の転換を求めるような意見や記事は、あまり見かけた事がない。


<参考リンク>
・グローバリゼーション
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

2011年10月22日土曜日

グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし

 最近になってようやくTPPって結局なんなのか? という所から初めて関連する記事やニュースを見るようになった。数年前まではあんまり政治や経済にも興味がなかったし、政治家や官僚がやることも間違いはあっても破局を起こすほどの無茶はしないだろうと思っていた。しかし3.11原発事故以降は色々な問題が明るみに出るようになり、放置すれば政治家や官僚は十分に破局的な事態を招くような選択をしかねないのだという事がつくづく解った。そしてTPPもその一つだと思う。

 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)は日本のメディアでは何故か好意的に報じられるが、中身を知れば知るほどこれは、アメリカが日本をカモにする為に進めている制度としか思えない。グローバルなものだというが、TPPに加盟を検討中なのはシンガポール、ニュージーランド、ブルネイ、チリ、米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの9カ国であり、経済規模では米国と日本が大部分を占める。故にアメリカがジャイアンで、日本がのび太という構図が露骨に見えてくる。

 だがもっと深く考えれば、TPPというのはずっと以前から言われている「グローバル化運動」と言うべき物の一部でしかない。ではそもそもグローバル化とは何だったのだろうか? TPP促進のスローガンの一つに、「グローバル化に乗り遅れるな」とか「世界から孤立していいのか」というのがあった。(実際のTPPはむしろローカルといっていいような狭い地域性なのだが・・・)
 ちなみに昔の私はグローバル化は良いこと、あるいは必要悪であり、いずれは辿る必然的な道のりだと思っていた。インターネットが広がって情報が世界を国境なしに巡るようになれば、いずれはローカルスタンダードは消えるしかないのだと思っていたからだ。

 しかしネットは確かに世界をつないだかもしれないが、物理的な国境線は確固として存在し、人々は国という単位で分断されているのは結局のところ、昔も今も変わりはない。変わったのは多国籍企業が力を増して、国境を越えた活動やビジネスが広がったことだろう。つまり今の私達が暮らす世界というのは1つではなく、むしろレイヤーの異なる複数の世界が重なり合っているような状態だと言える。

<レイヤ別に分かれた複数の世界>
 物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
 情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
 ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある

 つまりは上記のような世界観があって、そして私はいったいどこに所属しているのだろうかというわけだ。

 この事を顕著に考えさせられたのが、さきほど話していたTPPの問題である。参考資料としてリンクを載せたが、TPPは端的に言えば一般庶民にはおそらく悪影響しかないだろうと思う。おそらくメリットがあるのはビジネスレイヤに所属する多国籍企業だけである。そして企業は潤うかもしれないが、一般庶民は利益は配分されてこない。

 例えば日本は長いあいだ大企業優先路線でやってきていた。過去の高度成長期には大企業を優遇して、輸出をふやして利益があがれば、その利益がうまく国内を還元していた時代もあった。だが今では企業は海外に出てゆくのが当たり前であり、巨大企業が潤ったところで必ずしも庶民に利益が回ってくるわけではない。そこで生まれたのがウォールストリートのデモに代表されるような99%の貧者である。
 もはや大企業がもうかれば経済全体がうまくいく時代ではない。私が疑問なのは、TPPを推進する日本の官僚はこの事を解ってやっているのか? それとも理解できないままにやっているかと言う事だ。

 以前に村上龍がエッセイの中に、「勝ち組、負け組」という言葉は日本的なごまかしを含んだ言葉であり、正確には「勝者、敗者」があるだけである、といった意味を語っていた。今になって私にもその言葉がリアルに実感される。「勝ち組」があるというのは今や幻想である。1%の勝者がいて、99%の敗者がいるというのが世界の現実だ。


 では話を少し戻すと、「そもそもグローバル化とは何だったのだろう?」

 私はグローバル化とは、究極は価値観の統合ではないかと思う。かつて通貨が世界を統合して経済社会を生み出したように、グローバル化とは人々の暮らしや価値観を統合して巨大企業に適した箱庭の社会を生み出そうとしているように思える。

 しかし少し前ならば、私もこんな事は考えなかっただろう。SFによくあるような統合された未来社会という概念は、物語の世界だけで現実には遠かったからだ。しかしTPPに始まるような現在の動きは、統合された世界というのがもはやSFだけでは無くなった事を示すかのようだ。
 だが私にはどうしても、全員が同じ方向をみるような社会、全員が同じような競争をするような社会というのが、優れた社会構造でも楽しい世界にも思えない。本来の社会や未来像というのは、多様性と可能性を広げる方向に発展すべきなのだ。
 しかし現在のグローバル化が目指す世界はむしろその逆へ進んでいるようにしか見えない。グローバル化や世界に乗り遅れるななどと焦る前に、本来はどうあるべきなのかをもう一回問い直す時期にきたではないだろうか? ゆえに、タイトルに記したように言いたい。

「世界を覆おうとしているグローバル化に対し、今こそ反逆すべし」

参考:
・サルでもわかるTPP
 http://luna-organic.org/tpp/tpp-1-1.html
・環太平洋戦略経済連携協定(TPP)の概要
 http://www.jetro.go.jp/theme/wto-fta/basic/tpp/

2011年10月8日土曜日

未来を浪費する社会

 ウォール街デモのニュースもあって、最近とみに「そもそも現在の社会って何なの?」的な疑問について考えるようになった。ヨーロッパでは金融危機が広がり、日本国にも巨額な赤字の問題があり、そして米国では失業の問題と金融界に対する不満がリンクしてデモが広がっている。世界的に不安定感が増す中で、投機マネーが行き場無くあちこちを巡回しているのが、まるで目に見えるようだ。
 しかしメディアも、経済評論家や政治評論家の話はどうしても空しく感じるだけで、なんだか本質からすこし外れているように感じる。それはおそらく彼らは、従来のロジックや仕組みを前提に話をしようとしているからだろう。だがここ数年顕著に加速する世界や社会の歪みは、そもそもの前提をもう一回考え直すところから始める必要性を示しているように思う。


「虚業と実業について」

 農業や工業に代表される生産を行う産業が実業(製産する業務)とすれば、金融界やヘッジファンドに代表される投機の世界は虚業(非製産で実体的な物質を伴わない)というべきだろう。しかし世界はいまや虚業の方が力を持ち、実業の方が圧迫して隅に追いやられている状態となっている。そして虚業が絶好調に達した状態がバブルであり、いまの世界金融危機はこのバブルがはじけた、もしくは弾ける前夜という見方もできる。そして虚業だがそれは実業を伴い、バブルが弾けた後には世界的にどんな大混乱が起きるか、だれもが想像すらできないでいる。

 では虚業とは何か? 私は次のように定義する。

「虚業とは信用と未来を通貨価値に換算し取引可能とする事である」
 
 通貨であったり、手形であったり、もろもろの無形価値をもって社会を成り立たせるのは、人間の文化であり文明の本質である。我々の世界(文明)を支えているのは、物質よりもむしろ信用などの無形価値である。それ自体は本来は別に間違っていなかったし、これも世界を成り立たせる一つの方法であったはずだった。
 だがヘッジファンドによる金融取引は、本来の金融理念である資産を投資して富を循環させる役目を超えて、ただ富を循環させて加速するだけのメタ取引のようになり、世界を振り回すようになった。例えばもっとも解りやすい代表例は「先物取引」であり、これはいうなれば未来を担保に商売をしているのである。
 つまり現在社会に対して厳し見方をするならば、我々は未来を担保に自転車操業をつづけながら、ようやく社会を維持する事ができていると言えるだろう。


「持続可能な社会とは?」

 私が書いている事は直感に基づいたもので飛躍しすぎている可能性があるが、現在の世界でおこるさまざまな歪みは、単に金融の問題、アメリカの問題、先進国の問題、テクノロジーの問題といったカテゴリではなく、そもそも「我々が築いてきた文化は持続可能なものではなかった」というもっと根本的な問題が現れてきたように感じる。
 20世紀になる前、産業革命がおこる前は、世界はゆっくりとだけ成長し大きく発展する事も交替する事もなく、人口もそれほど増えなかったし、テクノロジーなどの大幅な飛躍もなかった時代である。だが今にして思えば、この近代以前の時代は、別に未来を担保にする必要もなく、ある意味堅実な文化社会であったと言えるだろう。少なくとも持続可能であり、近代以前の社会形態であれば数万年とかの単位でも持続する事はできるのかもしれない。
 しかし近代以降は目覚ましい進歩と飛躍があったものの、視点をかえれば、所詮は未来を担保に浪費を繰り返すだけのモデルであり、そもそも持続可能な社会や文化モデルではなかったのではないかと思う。つまり本当のバブルは近代化から始まり、いままで続いていたのではないかということだ。膨れ上がった未来の信用(つまり将来にわたって継続成長しつづけるという幻想)そのものが、いわば文明バブルという形で近代を形作ってきたとは言えないか?

 つまり私が冒頭に記載したメディアで鳴らされる警鐘になんだかシックリとこない理由は、目の前に立ちふさがる沢山の課題だけではなく、そろそろ本来の文明・文化・システムなどのもっと根本的な部分や前提事項を考え直す時期にきたのではないかと思うようになったからだ。


「現代の課題」

 核兵器が誕生した際に誰かが「これで人類は自殺する手段を手に入れた」といった。そして3.11に起きた福島原発事故はそれが戦争だけではなく、直近である数十年〜の単位で人類が自滅してゆく可能性を示したものだと思う。自民党の石破茂政調会長は、核抑止の為に原子力を継続するべきであるという議論をしていたが、これはむしろ滑稽である。原子力施設は攻撃側からみてもっとも解りやすいウィークポイントであり、ミサイル一発で大被害を起こすのは必至である。むしろ「映画)博士の異常な愛情/スタンリー・キューブリック」に登場した、自滅兵器に原発は相当する。直接的な核の破壊力より、むしろ日本の54基の原発を爆破、もしくは死の灰をまきちらせば、まさに映画に登場した自滅兵器に相当する役割を示す事ができるだろう。しかも戦争や大事故などのアクシデント的なイベントを排除したとしても、核廃棄物による汚染や処理の問題は未来に対して致命的である。私はこの核の問題が、やはり持続可能な社会を妨げるもっとも大きな問題だと思われる。

 そして経済について言えば、経済成長をし続けないと破綻する社会や文明。これはまさにバブルであり、持続可能とはいえない社会の証明である。最近の経済危機などのニュースを見ていて、そもそもこんなあやふやで持続可能に疑問を要するような事に、真剣に知恵やエネルギーを費やしてきたのかと考えると、なんだか世界は進歩してきたのかどうかが疑わしく感じる。

 ゆえに、まずは前提となる事をいったん見直してみてはどうだろう。

   * 成長し続けないと持続できないモデルは欠陥モデルではないのか? 
   * 未来に対して借金するようなモデルは廃止するべきではないのか?
   * 無い物ねだりより、現在あるものを維持する方法を考えないといけないのではないか? 
<参考>
・ウォール街デモ、4週間目に突入 全米に拡大
 http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE2EAE2E1948DE2EAE3E2E0E2E3E39494EAE2E2E2
・自分探しを始めたアメリカはどこに向かうのか
 http://www.videonews.com/on-demand/541550/002088.php
・石破茂氏 「核の潜在的抑止力」維持のため原発続けるべき
 http://www.news-postseven.com/archives/20110921_31301.html

2011年10月1日土曜日

英才教育×学習塾×新卒採用とは?

 「英才教育×学習塾×新卒採用」って意味があるのか? という疑問がずっと昔からある。時々ふと思い出して考える事があるが、結論としてはどうしても合理的とは思えない。例えば、次のような疑問がある。

1)英才教育
 人より数年早く、使うかどうか解らない知識をむやみに頭に詰め込む事が何故必要なのかが解らない。それに子供の柔軟な思考や能力を、単純知識だけを埋め込んでむしろ才能の目を刈り取っているんじゃないかと心配になる。むしろ音楽とか運動とか感性や感受性を磨くような教育に力を注ぐべきではないかと思う。ちなみに本当に英才教育で意味があるのはIQが桁違いに高くて飛び級を楽々してしまうような子供だけじゃないかな。一般の子供にはむしろマイナスではないのかと思う。

2)学習塾
 私は個人的には学習塾はこの世にほぼ無用だと思っている。学校でさぼって、わざわざ放課後に無駄な時間つかって塾に通うのは、本当に時間の無駄だと思うし、エネルギーの使い方が違うと思う。そもそもは1)英才教育と同じで、重要なのは最終的にたどり着くレベルや質であって、他人より1年や2年早く覚えるだけの学習などまったく意味がない。もっと人間の能力を幅広くとらえて開発すればいいのにと思う。

3)新卒採用
 大企業はいまだに新卒にこだわるらしい。よって就職浪人で大学に残る学生がいるそうだが、これが上記1)、2)をさらに輪をかけて馬鹿げた話だ。新だろうが旧だろうが能力があればいいだろうと思うのだが、なんでこんな変な制度があるのだろう。私的な意見だけをいえば、新卒で社会を知らない新入社員を一から教育するのは本当に大変で、個人的にはむしろ中途採用のように一回社会人やって失敗してリベンジをかけている人の方が好きだし、教えやすい。この制度は本当に合理性がわからない、処女崇拝とかと同次元の話になるのかな? 
 ちなみに就活のせいで大学生の学力が低くて話にならないという話や記事はたまにみかける。大学にいってもあんまり教養が身に付かないという、寒い現実があるのだろう。


 こうして文章にしてみても、やっぱりこのトリプルコンボは無意味で、どっちかというと有害なのじゃやないかなと思う。いったいどんな想定をして、最適化した結果がこうなったか知りたいと思う。想像すると次のような暗黙の前提があった場合に有効なシステムなのかもしれない。

   * 日本に永住する、もしくは日本企業に勤める
   * 転職せずに終身雇用のレールに乗る
   * 公務員、もしくはそれに準じるような安定が見込めるような大企業に勤める

 上記の前提を満たす場合には、このトリプルコンボを踏まえて人生設計すると有効なのかもしれない。少なくとも今までは有効に機能したから、成立しているのだろう。でも私からみると、これはけっこう細いレールでしんどい道のりのように思えてならない。敗者復活がないというか、潰しが効かない道のりだ。究極の体現者が官僚+天下りコースなのだろう。

 しかしこれでは日本の将来があまりに不安なので、私はむしろ次のような教育や採用基準をお勧めしたい。


   * 学生時代には何らかの職業経験(バイト)とかを最低いくつか経験している
   * 音楽、絵画とか、とにかく美術的なセンスを磨いておく
   * スポーツ、武術、登山でもいいが、肉体を鍛えておく。
   * 創造スキルを磨いておく、美術・文学・制作でも、とにかく新しい物を生み出す力がいる
 私が理想と思う教育は、たとえばこんな感じ。

 小学生ぐらいから武術+音楽をまなばせる、中学ぐらいから小説書くとかなんか工作で機械を新たにつくるとか創造的な事をやらせる、高校ぐらいから1年ほどアマゾンでもサハラでもいいがサバイバル生活をした経験を持たせる、大学ぐらいで基礎学習をみっちりとやらせる。こういった教育をすれば、なんかすごい人材が沢山うまれそうな気がしないだろうか?

 べつに上記は時間をかけてもいいし、不十分だと思ったら小学校からでも留年してむしろじっくりとやるのがいいと思う。ようは教育は時間を競うのではなく、中身や質をあげることに注目すべきだ。そもそも勉強は社会人になってからも一生続く物とかんがえて、若い時からあんまり焦って詰め込む必要ないだろう。それよりは、むしろ地力をあげる為のセンスや体験を増やすような教育が必要だと思う。

 私としては普通に考えれば、こういった教育がいいと思うのだけど、実態としての日本ではまったく逆の方向で進んでいるように見える。あるいは過去に安倍総理とかが言い出したように愛国教育だとか、また違った話がわいてきたりもする。

 しかし今までに文部省なりがやってきた内容をみれば、結局のところ日本の発想というのは工業製品を作るようなノリで、いかに平均的な人材で不具合や欠品を減らすことだけに注意しているのと同じだと思う。それじゃあ世界に遅れをとるよ、と危惧するのは私だけではないと思うのだが・・・。