2011年12月17日土曜日

アイドル(偶像)≠ボーカロイド

初音ミクに代表されるようなボーカロイド(略してボカロ)が果たして現実世界でどの程度市民権があるのかわからないが、私自身は去年の末ぐらいからか、ボカロ楽曲にはまっって定期的に新譜をチェックするのが習慣になっている。

ちなみにボーカロイドというのを知らない人にために私流の解釈で説明すると、ボーカロイドとは歌う機械(ソフトウェア)であり、シンセサイザーで人間の声をシュミレーションしたものである。日本語でかいたテキストに、音符を割り当てて抑揚をつけると、人間のように歌わせることができる。つまりは音楽ソフトであり、楽器の一種だともいえる。そしてこの楽器の音色にあたる声が色々とあって、代表的なものが「初音ミク」というソフトウェア製品である。


だが面白いことに、単なる機械(ソフトウェア)だったボーカロイドは「初音ミク」というキャラクターを持った製品が発売されると、その位置づけや意味が大きく変わる事になった。ちょうどニコニコ動画が出始めたころであり、ネットを見ている色んなユーザーが思い思いにボーカロイドを使った楽曲を動画としてアップするようになり、それによって初音ミクというキャラクターが知名度を増すと同時に、キャラクターとしても生き生きとした形で肉づけられてゆき、まるで多くの者達の思念をとりこんだ、まさにアイドル(偶像)というべき物に進化したのである。

私は音楽好きなので、単純にボカロ楽曲は面白くて聞いているのだが、それでもこのアイドル化した「初音ミク」という現象は音楽以外でも何かわくわくするというか、興味を引かれるというか、ものすごい可能性や新たな方法論となりえるような何かを感じる。それと同時にpefumeやAKB48みたいな生身の人間が演じるアイドルというものと比較して、アイドルとはそもそも何だったのだろうなどとよく考えるようになった。そういった話が参考としてリンクしたが「初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」でも語られている。この記事を読んで、つまり「アイドルとは、多くの者達の思念を集める器」なのだなという事にようやく気がついた。
つまり、実在するアイドル(例えばAKB48)のように人格や歴史を持った存在であれば、その情報は固定化していて空想する余地は少ない。だが初音ミクのように元々は何も無いところから存在したキャラクターについては、見る者が隙間を想像力で埋めてゆく。例えば、言いそうな事とか、やりそうな事とか、何が好きだとか、どんな服が似合うだとか、空であるがゆえにどんどん想像力で作られてゆくのである。

私はどうも昔からアイドルだのタレントだの芸能人だのというものにはどうしても興味が持てない方だった。だからあまりTVも見ないし、芸能人の名前もほとんど覚えられない。むしろこのような凡庸なCM受けだけを考えてキャラクターを生み出す事に、なんの意味があるのだろうと思っていた。ゆえに「初音ミク」のように、肉体も人格も無いはずの空っぽの器に、それも空の器であるがゆえに、よりいっそう人々の思念を集めてアイドル化してゆくというのは、とても興味深い。むしろこれこそが、まさに「アイドル(偶像)」の本質なのではないかと思う。

長い人類史のなかで多くの偶像崇拝があってそれが延々と現在にいたるわけだが、今まではそれは動かぬ石像であったり、誰かが演じた者であったりした。だが現在では「初音ミク」のように姿と言葉を持った空の器が作られるようになった。そしてネットを通じてより多くの思念が集まり、電気の速度で情報が世界を駆け巡るようになった。今まで無かった多くの条件が揃いつつある事に対して、私は空恐ろしさを感じると同時に少しワクワクもする。

近代になって生活レベルが向上したおかげで、人々は必ずしも群れて暮らす必要はなくなった。個人主義が浸透しプライベートである事を尊ぶようになった。だが同時にその反動で、孤独を埋める為に多くの者達が思念を受け止めれくれる空の器を求めているのかもしれない。そして進化したテクノロジーによって、今までになかった新たな器がやがて創造されるのだろう。ゆえに私はこのボーカロイドという現象が、いずれどこに辿り着こうとするのかを見続けたいと思う。

<追伸>
ボカロ楽曲は面白い。ボカロを聞き出してから、逆にだんだんと普通のJ-POPをあまり聞かなくなった。理由は解っていて、J-POPの方がつまらないからだ。何故かというと、現在の音楽業界は分業化しており、1つの曲をつくるにも、アレンジや演奏などが多くのパートに分かれて下請けに流れるような仕組みになっているという。つまり、色々なアーティストのいろんな曲を聴いても、それらはどこかで同じ職人が音を作って、アレンジした、同じスタジオで同じ音職人が作った・・・というように、まあ結局は同じ会社の製品をずっと見ているようなものなのだ。
もっとぶっちゃけていうと、「松屋」で食べる食事は、どのメニューを選んでも松屋である、みたいな感じでJ-POPは聞いていて必ず飽きる。(結局のところ、味付けはみんな同じだからね) それに比べてボカロ作品は一人の人間が作詞+作曲+アレンジ+音選びなども含めて全部をやってしまう事も多い。だからこそ、個性的であって聞いていて面白いのである。だから次のように言う事もできる。
「ボーカロイドは音楽ではなく、音楽業界に対して革命をおこした」

<参考>
・初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」
http://www.fleet-sound.com/blog/2010/11/26-054802.html
・VOCALOID(ボーカロイド)の歴史を紐解いてみる – スタートはDTMだった
http://vocalofree.com/history/vocaloid_dtm/

2011年11月24日木曜日

グローバル化の先に向かうには

 グローバル化をテーマに数回にわたってブログ記事を書いてきたが、書いているうちにだんだんと頭の中が整理されてきたので、ここらで自分なりに理解をまとめておきたい思う。

 もともとグローバル化やTPPについて何故考えるようななったかというと、きっかけは3.11の福島原発事故からだ。それまで私も多くの人と同じように、原子力は多少の危険性はあっても必要悪だといった程度の認識で、あまり核や原子力について深く考えた機会はなかった。しかし原発事故が実際に起き、まともな報道がなされない状況で、なんとか自分なりに四苦八苦しながら、いったいどんな状況なのか、この事故は収束が可能なのか、もう日本から出てゆく決断を求められるような自体なのか、といった事をなんとか調べようとした。

 そしてこの過程で、いかにメディアが情報を隠蔽しているか、あるいは歪めているか、そしてメディアを抑え、ここまで原子力を押し進めてきた政財界+学会+官僚+検察+・・・etcのどこまでも続くつながりや連鎖の存在に気がつくと同時に、絶望的な気分となった。これらに原子力行政やメディアに対する不審というのは、過去のブログでも記載していたが、そのうちに「そもそも原子力とはなんだったのか?」もっと言えば、現在あたりまえのように運営されてきた政治や社会といったものが、そもそもなんだったかのかという疑問を感じるようになった。原子力だけではなく、原子力を生み出した構造、それを求める人たち、そこから利益を得る人たち。

 この想いが私の結論として、「未来を消費する社会」というブログの記事につながった。なんだ、結局のところ我々の社会モデルはこのまま継続できないじゃないか? 破綻寸前の危うさや多くの危険性を含んだ、きわめて危ういものだったのだという所に考えがたどり着いた。そしてそれらを押し進めてきた最大の要因が、グローバル化であり、世界の主役が国家から多国籍企業を例とするような巨大資本へと変わった事を意味しているのだと、ようやく気がついた。そしてグローバル化と、最も現在危惧しているTPPについてのブログを書いてきた。

 ここで少しだけグローバル化について補足すると、世間でのグローバル化やTPPに対する議論は、その前提において幾つか誤解をしている場合が多く、それがこの問題の理解を妨げている面がある。復習の為のまとめると、次のようになる。

   * グローバル化が進んだ社会の主役は、個人でも国家でもなく、多国籍企業などの国境なき巨大資本である
   * 経済成長と国家が豊かになるのはイコールではない、当然個人が豊かになるのもイコールではない
   * つまりは日本(国家単位)が豊かになる/ならないという時代ではなくなった
   * ゆえに日本の経済成長などと言う、経済アナリストの意見は聞いても無駄である
 
 だが同時に、ずっと考え続けてきたのは、ではグローバル化をどうやって止めるのか、それに変わるどのような新しい社会モデルはたしてあるのかという事である。しかしこの問題に対しては、まだ実行力があると思われるような明確な解答はまだ得られない。でも幾つかそのヒントになりそうなものはある。

 ひとつは過去の歴史に学ぶこと、例えば以前に「江戸時代は究極ともいえるリサイクル社会だった」というのをTVでみた事がある。少なくとも近代以前の社会は未来に対して継続可能であり、そのままであれば何千年でも社会を維持できるようなモデルだったと言えるのだろう。また現在のように、未来にはエネルギーや食料不足だけが残り、おまけに核廃棄物まで抱え込まないといけないというような事は無い。最近話題になったブータンのような社会にこそ本来の解があるのかもしれない。

 もう一つ最近見て強く印象を受けたのはビデオニュースの「TPPで食の安全は守れるのか」に登場した藤田和芳氏(大地を守る会会長)の言葉である。藤田氏は「大地を守る会」を作る時に生産者と消費者の中間に立つことを目指し、また顔が見えるようなビジネスによる信頼関係の構築を重視したと語っている。おそらくは、こういった事が現在最も欠けている視点であり、今後の新しいモデルを考える場合の重要な基礎となるのだと思う。

 いずれにしろ、私の結論としては、今までとは違うルールで社会を再構築する必要があると考えている。その為には新しい社会モデルや経済モデルが必要であり、豊かさの定義や幸福の定義も見直さなければならないだろう。

<備考>
 巨大資本が暴走しつつ、なおもそれを止める事ができな現状や問題点については、昔読んだ「暴走する資本主義/ロバートライシュ:東洋経済新報社」に解りやすく書かれています。せめて民主主義:資本主義=50:50ぐらいならばいいが、現状は10:90ぐらいかな。いまとなっては、情報化社会以後は民主主義の敗北の歴史と言ってもいいぐらいだとさえ思います。

<参考リンク>
・マル激トーク・オン・ディマンド第551回(2011年11月05日)TPPで食の安全は守れるのか
 http://www.videonews.com/on-demand/551560/002132.php

<過去ブログ記事>
・未来を浪費する社会
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_08.html
・グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html
・グローバル化は何が問題なのか
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/10/blog-post_31.html
・グローバル化とフェアネス
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
・グローバル化とは、TPPは経済の問題ではない
 http://conversationwithimmortalperson.blogspot.com/2011/11/tpp.html

2011年11月18日金曜日

グローバル化とは、TPPは経済の問題ではない

 TPPに関するブログを見てしばらく考えていた事がある。多くの人の色々な意見があって、賛成/反対はもちろんだが、なかには「どうでもいいや」というものもある。なかでも私は、この「どうでもいいや」という意見に凄く引っかかる所があってしばらく考えさせられた。私は大問題だと思っていたけど、実はたいした問題ではなかったりするのか、あるいは結果としては日本はそれほど以前と変わらない社会を保つのか? 

 実際にTPPの論議にはいびつなところがある。全国メディア(特に経済連関係と思うが)は一律推進で、メディア以外の知識人は概ね反対もしくは批判的、ネット上の空気はだいたい反対、各種業界団体は反対、でも日常ではあまり話題になる事は少ない。
 メディアの報道に問題があるせいでこじれているが、情報に敏感な人はだいたい反対だが、大多数の一般人は他人事扱いだ。そして彼らがなぜ気にならないのかと言えば、多くの人はよく解らない、それも「TPPによって自分が損をするのか得をするのかが解らない」からなのだろうという事に気がついた。

 そこでようやく私も「経済的な視点(損か得か)でTPPを論じるのは問題なのだ」という事に気がついた。

 私はTPPは非常に大きな問題(選択)だと考えている。どれぐらいかと言えば、原発の推進/反対と同じぐらい、また古くは日米安保で揉めたあの時代ぐらいに、本来は大きな選択だと思う。それは、この選択が経済(損得)だけではなく、日本社会や文化のあり方そのものを大きく左右するからだ。

 TPPが普通の通商条約と異なるのは、ISD条項により海外企業が日本の国内法に対して意義を申し立て〜国際裁判〜賠償へという流れに持ち込むことが出来る事に代表される。つまり従来は関税(税率)だけだった話が、日本社会の法律に対して他国の企業が文句をつけられる点、TPPはそのコンセプトとして、加盟国の国家政策(政府の監督政策、労働、環境、公共事業政策、安全基準、など諸々)すらも非関税障壁と見なして撤廃しようとする所にある。(具体的には力関係にしたがって、日本社会をアメリカにあわせろと言っているのとほぼイコールだが)
 ゆえにこれらの問題は、本来は経済問題ではなく、むしろ政治的な問題、社会および文化的な問題である。以前に「中野准教授」対談で印象的な話があった。

<抜粋:TPPは当初、農業だけと思って多くの人は気に留めなかった。しかし最近になってから影響が多くの業界にある事に気付いて反対運動が広がる。だがその反対運動も業界毎に縦割りで、なかなか纏まろうとしない>

 こういった例に示されるように、現状では多くの人がTPPを損得だけで判断しようとしている。しかし、これはあまり健全な議論ではなく、ややもすると本質を見失う。それがTPPに関する、多くの思惑が絡み合って話をややこしくする理由である。例えばネットをしながわ見た中でも、次のような思惑が見え隠れする。

   * 国際的なルールの単純化は多国籍企業には都合が良い。(国際展開している企業ならばね)
   * 既にアメリカの特定企業とTPPを進める前提でビジネスチャンスを設けているから推進だ。(経済連会長とか)
   * TPP導入の外圧を利用して、日本内の利権を整理しなおしたい。(官僚には一部あるらしい)
   * 対米従属の一環としてこれはやるしかない。(外務省かな)
   * 普天間問題の失態をTPP参加でチャラにしたい。(民主党政権)
   * 経済連やスポンサー企業に逆らえないので、かなり歪曲してもTPPを押す大手メディア(特に日経)
   * 国内の利権が消えるのを恐れて反対を仕掛ける官僚(外務省以外は、原則メリットないはずなので)
   * もちろんまっさきに影響する農業関係(農協とか)
   * 医療も大幅に改訂されるのを懸念して反対へ(医師会だったかな)
   * 日本国内の業界は概ね反対なので、各業界は概ね反対。
   * 食の安全や、医療などの安心・信頼が脅かされるので反対する人々。
   * デフレや失業が見え隠れするので反対する人々。
   * 経済アナリストとかは、だいたい大手企業がスポンサーなので概ね賛成路線か。
   * メディアの捏造体質や、政治不信もあって反対か少なくとも、ちゃんとやれという意見など。
   * ・・・etc
 挙げていけばいくらでも出そうな気がするが、現状では多くの者が自分の直接利益(損得)だけで、反対だの賛成だのと言っているので、それが議論をややこしくしてしまう。それよりは、むしろ下記のような観点でこの選択について考えるべきだ。

   * 日本の国内法が、海外企業によってゆがめられる。つまり国家主権の放棄に近くなるが良いか?
   * 力関係により、実際にはアメリカ型の社会へと加速してゆくが良いか? それとも目指すか?
   * 全てのルールを海外企業(正確にはアメリカでロビー活動できる企業)に委ねるのが良いか?
   * 経済コストだけで、言い換えれば資本主義ルールだけでルールが決まるのが、住み良い社会を作るか?
   * 信頼や安全など、コストだけで割り切れない重要な価値があるのではないか? 

 余談だが、グローバル化についての過去ブログで度々記載してきたが、私は下記の3つのレイヤを元にグローバル化とは何かを考えてきた。
<レイヤ別に分かれた複数の世界>
 物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
 情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
 ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある


 そして社会の進化として考えた場合、物理レイヤ(国境線)だけがずっと残り、それゆえになおさら多国籍企業に多くの人々が搾取されるような構造が生まれると考えていた。でもTPPのポリシーをもっとラディカルに押し進めたならば、やがては労働移民の移動が自由になるかもしれない。そうなれば、これは実質的には国境が消滅した事と言えるのかもしれないと思うようになった。
 しかし、仮にそうなったとして、どうなるかは予測しにくいが、現状の1%者達が利益を独占するようなルールの上では、正直言ってあんまり良い未来があるとは思えない。いろいろと考えてみたけど、やっぱりTPPは反対だな。

<参考サイト>
・「TPP」より 「11月27日」 - Chikirinの日記
 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111115
・TPPが日本の政界再再編につながる?
 http://tanakanews.com/111101TPP.htm
・【動画】 津田大介 VS 中野剛志 「だからTPP参加はダメなんだ!」
 http://www.toychan.net/archives/2011/11/10_0130.php
・やっぱりただの経団連の走狗だった在京マスメディア - 木走日記 - BLOGOS(ブロゴス)
 http://news.livedoor.com/article/detail/6015180/

2011年11月6日日曜日

グローバル化とフェアネス

 久しぶりに「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」を見て、グローバル化に対する宮台・萱野氏の視点と、ちょっと前からブログに書いていた私の視点やニュアンスがだいぶ違うという事に気付いてショックを受けた。私自身は宮台・萱野氏の論説は前からずっと好きなのだが、それでもこれだけ考えが違うのかという事に驚いた。また私が問題提起していた内容というのが、それぐらい特殊な事だったのかなと考えさせられた。

 ではそもそもどこに違和感を感じたかというと、菅野氏が指摘するグローバル化の問題とは、つまりは各国の経済、ひいては各国間の経済格差の問題という指摘だった。グローバル化を推進すれば、安い労働力との競争で国内経済は苦しくなる、しかし世界全体で見れば経済格差を減らす事になる。だからグローバル化は必然的な流れであって、あとは過激な変化をどうやって緩めるか、自国の経済をどのように守るかをナショナリスト的な視点からも考える必要があるだろうといった論説だった。
 別にいっている事に間違いはない。しかし私はこの議論の展開にどうしても強い違和感を覚えた。「ああ、こんなに実は視点が違ってたんだ」という驚きもあった。そこで改めて気がついたのだが、私が何回かブログで指摘してきたグローバル化の問題とは「経済問題」を指しているのではなく、だから菅野氏の論説に強い違和感を覚えたということだ。


 以前のブログ「グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし」に書いたのだが、私はグローバル化というものは結果的に世界を均質化するようなものだと思っている。ずっとイメージとしてあるのは「琵琶湖」にブラックバスを放流する図である。つまり強いものが一人勝ちして結果的に他を排除する、ひいては結果として世界を均質化する。琵琶湖の例ではブラックバスが一人勝ちして、在来種は絶滅の危機に瀕する事となった。私はこのような例は、結果として本来あった多様性を無くし、単純で均質な物だけにするものであり、ゆえに社会や文化の進化として視点からみて問題だと考えている。

 でも菅野氏が言うように、世界を統一ルールで運用しようとする事は、ある意味「フェア」とも言える。しかし、私はあえて反論したい。

 「そもそも人種や国土、そして歴史・文化、宗教に至る異なる者達に同じルールを適用する必要があるのか?」

 そもそも人間というのは色々な差異があって当たり前だし、国家となるとなおさらだ。国が違えば育つ作物も違うし、気温が違えば暮らし方も変わる。それぞれの想いや文化や価値観があって、目指す幸福感なども違うだろう。だから、そもそも異なる者達に同じルールだから「フェア」です、というのが意味があるのかという疑問である。そもそも彼らはフェアを望んだのか?

 そしてグローバル化が目指すフェアネスはあくまでも、ビジネス上だけのものである。これらを進める暗黙の前提が、経済成長が至上価値であり、誰もが先進国と同じ暮らしをしたいだろうという自惚れ?に似た思い込みではないだろうか。
 全員がビジネスマン(ホワイトカラー)をひたすら目指すような単一の競争社会、単純な優劣、あらゆる価値を金額に換算可能なものとする前提、そして金額換算できない価値を除外する試み。現在のやり方が正しくて将来も継続可能だという前提がたって、それらは初めて本来の妥当性を持つ。

 しかし、私にはどうしてもグローバル化に代表されるような現在モデルが優れたものでも、永続的に運用できるものだとも思えない。特に永続的に継続できるのかということに多いに疑問がある。
<参考>
・今こそナショナリズムを議論の出発点に「マル激トーク・オン・ディマンド 第550回(2011年10月29日)」
 http://www.videonews.com/charged/on-demand/541550/002124.php 

2011年10月31日月曜日

グローバル化は何が問題なのか

 前回のブログで「グローバル化に反逆すべし」と記載した。しかし私の中でも、グローバル化は何が問題なのかというが、まだうまく整理できているわけではない。そして、ウォール街でデモを行った99%の人たちも「これは何かオカシイ』と感じながらも、同様にこの問題をうまく理解できてはいないのだと思う。評論家は簡単な言葉で、彼らの事を「具体的な要求もない、単なる不平や不満のはけ口なだけで、大きく意味を持つ事はない」と語る。
 でも、はたして本当にそうなのだろうか? 私は疑問だらけだ。現在の社会や文化は、実は袋小路に陥っているのではないか? 覆い隠された欺瞞や矛盾が、今にも膨れ上がって破裂しそうになっているのではないか? 知らず知らずのうちに、昨日までのルールが通用しないような新たな局面にさしかかっているのではないかと感じる。だから、次のような命題を立てて頭の中を整理してみる事にした。




 「グローバル化とは何を目指し、何処にたどり着くのか?」




 前回のブログ(グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし)にも書いたが、私は大まかには世界を3層構造でイメージしていて、現在問題になっているグローバル化とは、ビジネスレイヤが物理レイヤを浸食している状態だと考えている。


 <レイヤ別に分かれた複数の世界>
  物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
  情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
  ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある


 もう少し具体化すると、ビジネスレイヤに属するプレイヤーは多国籍企業であり大資本家が中心であり、その周りに投資家や金融家、そして経済評論家および学界や法曹界なども巻き込んだ幅広い層を形成している。ここでポイントとなるのは彼らは国家ではなく、国家を足場とするものでもなく、また市民を代表するわけでもないということだ。


 私は60年代にあった共産主義などの議論には詳しくないが、その当時にコミュニストが指摘した帝国主義的な資本家の侵略と呼んでいたものが、現在の大資本家にあたるのかもしれない。しかしこういった言葉はどうも実感が湧かないし、私は共産主義者でも左寄りでもないので、もっとシンプルにこれらを「メタ資本」とここでは呼ぶ事にする。


 「メタ資本」とは、「資本」が自らを増やすという純粋な目的の為に、あたかもアメーバのように周りの物をひたすら飲み込みながら増殖を続けるかのごとく成長をしている姿をイメージした事による造語だ。なぜこのような呼び方をするかと言えば、私にはもはやこれが人間的な意思や目的を持ったものとは思えず、むしろ単なるエネルギー、もしくは物理法則に近いようなものに感じられるからだ。
 何故ならば「メタ資本」が持っているのは成長する欲求だけであり、自らを止める手段も持たず、哲学も持たない。人格や信念のようなものがあるわけではない。だからこれらを「善」であるとか「悪」であるとかというカテゴリ分けもできない。


 では「メタ資本」が目指すのはどのような世界か? ここで疑問に思ったのだが、そもそも哲学を持たない者が「未来の世界像」など持っていないと考える方が適切だろう。だから少し言葉をかえて「メタ資本はどのような環境で最も成長するか?」と考えれば、次のような幾つかのポイントが見えてくる。

  1. 物理レイヤ(国境)の撤廃
  2. 情報の統合、単純化 ・・・コミュニケーションルールの最適化
  3. 浪費し続ける、高いエネルギー社会
 上記を説明すると、ようはビジネスをやりやすい環境を作ろうとするならば、まずは国境は邪魔であり、そして言語が複数に分かれているのも無駄であり、多文化や細分化された世界は非効率的である。そして製産をし続ける為には、ひたすら浪費をし続ける世界が必要だという事だ。


 解りやすい例では、コカコーラやマクドナルドを世界中で売る事を考えれば良いと思う。これは身近なものだが、上記の3つの要素をそれぞれ含んでいる。そこには「人々が要求したから」というよりは、むしろ「資本がそう願ったから」実現させた世界のように思えないだろうか。同じような構造は他にも自動車やコンピュータ、石油資源でも同様の製品や力学がある。
 元々はそれぞれの国家や地方で特有の文化があれ、個別に発展してきたものが、進出してきた巨大資本におされて絶滅してゆき、最後にはもっともシンプルな力のあるものが支配するというのは、ここ数十年でいたるところで見てきた光景だ。 




 ちなみに誤解のないように言えば、私はコーラもマクドナルドも好きで、それが必ずしも「悪」だといっているわけではない。しかしこういった商品が他を蝕んで、結果として食生活を貧困にしてきたという要素はあるだろう。例えれば、琵琶湖に放たれたブラックバスが他の在来種を駆逐してしまったように、「ブラックバス」自体は悪ではないが、もたらす結果は必ずしも良いとは限らない。


 そして根本的な問題となるのは、この地球上(世界)という有限のパイを取り合う事が、そろそろ限界に近づいてきているのではないかということだ。少し前のブログ「未来を浪費する社会」にも書いたが、現在の社会は既に現実界を喰い尽くして、あたかも未来すらも喰い尽くす勢いにすら最近は思えるようになった。だから、最近はそう遠くない未来にはどこかで文明的なバブルが崩壊するような破局がおとずれるのではないかとすら感じる。
 私は社会科学や経済学の知識はないが、それでも自然科学などの目の前にあるモデルからすれば、グローバル化を進めようとするこの力は、まるで小さな池の鯉が全ての餌を取り尽くしてやがて餓死に至るような危ういものにしか見えない。




 だが現実にはグローバル化による力は強力で、止めるどころか、緩める事すら困難だ。いまや1%の人々(あるいは資本)が、99%の人々を圧迫しつづけており、国境を超えて行動するこの力を、国家や政治ではコントロールする事ができないでいる。そして99%の者達も、その資本の恩恵を得なければ生活できなくなっている。これらは既に経済的な問題という枠を超えて、社会や文化レベルで論じるテーマだろう。


 しかし、現在はまだこの問題に対して「正しい問題提起」すらできていないのかもしれない。メディアおよび知識人でも、根本的な問題提起や、発想の転換を求めるような意見や記事は、あまり見かけた事がない。


<参考リンク>
・グローバリゼーション
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

2011年10月22日土曜日

グローバル化とは価値観の統合であり、ゆえに反逆すべし

 最近になってようやくTPPって結局なんなのか? という所から初めて関連する記事やニュースを見るようになった。数年前まではあんまり政治や経済にも興味がなかったし、政治家や官僚がやることも間違いはあっても破局を起こすほどの無茶はしないだろうと思っていた。しかし3.11原発事故以降は色々な問題が明るみに出るようになり、放置すれば政治家や官僚は十分に破局的な事態を招くような選択をしかねないのだという事がつくづく解った。そしてTPPもその一つだと思う。

 TPP(環太平洋パートナーシップ協定)は日本のメディアでは何故か好意的に報じられるが、中身を知れば知るほどこれは、アメリカが日本をカモにする為に進めている制度としか思えない。グローバルなものだというが、TPPに加盟を検討中なのはシンガポール、ニュージーランド、ブルネイ、チリ、米国、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの9カ国であり、経済規模では米国と日本が大部分を占める。故にアメリカがジャイアンで、日本がのび太という構図が露骨に見えてくる。

 だがもっと深く考えれば、TPPというのはずっと以前から言われている「グローバル化運動」と言うべき物の一部でしかない。ではそもそもグローバル化とは何だったのだろうか? TPP促進のスローガンの一つに、「グローバル化に乗り遅れるな」とか「世界から孤立していいのか」というのがあった。(実際のTPPはむしろローカルといっていいような狭い地域性なのだが・・・)
 ちなみに昔の私はグローバル化は良いこと、あるいは必要悪であり、いずれは辿る必然的な道のりだと思っていた。インターネットが広がって情報が世界を国境なしに巡るようになれば、いずれはローカルスタンダードは消えるしかないのだと思っていたからだ。

 しかしネットは確かに世界をつないだかもしれないが、物理的な国境線は確固として存在し、人々は国という単位で分断されているのは結局のところ、昔も今も変わりはない。変わったのは多国籍企業が力を増して、国境を越えた活動やビジネスが広がったことだろう。つまり今の私達が暮らす世界というのは1つではなく、むしろレイヤーの異なる複数の世界が重なり合っているような状態だと言える。

<レイヤ別に分かれた複数の世界>
 物理レイヤ  :国境線や地形に遮られた物理的な境界
 情報レイヤ  :インターネットを通じた国境の無い世界
 ビジネスレイヤ:多国籍企業が足場に世界で行うビジネスで実質国境が無くなりつつある

 つまりは上記のような世界観があって、そして私はいったいどこに所属しているのだろうかというわけだ。

 この事を顕著に考えさせられたのが、さきほど話していたTPPの問題である。参考資料としてリンクを載せたが、TPPは端的に言えば一般庶民にはおそらく悪影響しかないだろうと思う。おそらくメリットがあるのはビジネスレイヤに所属する多国籍企業だけである。そして企業は潤うかもしれないが、一般庶民は利益は配分されてこない。

 例えば日本は長いあいだ大企業優先路線でやってきていた。過去の高度成長期には大企業を優遇して、輸出をふやして利益があがれば、その利益がうまく国内を還元していた時代もあった。だが今では企業は海外に出てゆくのが当たり前であり、巨大企業が潤ったところで必ずしも庶民に利益が回ってくるわけではない。そこで生まれたのがウォールストリートのデモに代表されるような99%の貧者である。
 もはや大企業がもうかれば経済全体がうまくいく時代ではない。私が疑問なのは、TPPを推進する日本の官僚はこの事を解ってやっているのか? それとも理解できないままにやっているかと言う事だ。

 以前に村上龍がエッセイの中に、「勝ち組、負け組」という言葉は日本的なごまかしを含んだ言葉であり、正確には「勝者、敗者」があるだけである、といった意味を語っていた。今になって私にもその言葉がリアルに実感される。「勝ち組」があるというのは今や幻想である。1%の勝者がいて、99%の敗者がいるというのが世界の現実だ。


 では話を少し戻すと、「そもそもグローバル化とは何だったのだろう?」

 私はグローバル化とは、究極は価値観の統合ではないかと思う。かつて通貨が世界を統合して経済社会を生み出したように、グローバル化とは人々の暮らしや価値観を統合して巨大企業に適した箱庭の社会を生み出そうとしているように思える。

 しかし少し前ならば、私もこんな事は考えなかっただろう。SFによくあるような統合された未来社会という概念は、物語の世界だけで現実には遠かったからだ。しかしTPPに始まるような現在の動きは、統合された世界というのがもはやSFだけでは無くなった事を示すかのようだ。
 だが私にはどうしても、全員が同じ方向をみるような社会、全員が同じような競争をするような社会というのが、優れた社会構造でも楽しい世界にも思えない。本来の社会や未来像というのは、多様性と可能性を広げる方向に発展すべきなのだ。
 しかし現在のグローバル化が目指す世界はむしろその逆へ進んでいるようにしか見えない。グローバル化や世界に乗り遅れるななどと焦る前に、本来はどうあるべきなのかをもう一回問い直す時期にきたではないだろうか? ゆえに、タイトルに記したように言いたい。

「世界を覆おうとしているグローバル化に対し、今こそ反逆すべし」

参考:
・サルでもわかるTPP
 http://luna-organic.org/tpp/tpp-1-1.html
・環太平洋戦略経済連携協定(TPP)の概要
 http://www.jetro.go.jp/theme/wto-fta/basic/tpp/

2011年10月8日土曜日

未来を浪費する社会

 ウォール街デモのニュースもあって、最近とみに「そもそも現在の社会って何なの?」的な疑問について考えるようになった。ヨーロッパでは金融危機が広がり、日本国にも巨額な赤字の問題があり、そして米国では失業の問題と金融界に対する不満がリンクしてデモが広がっている。世界的に不安定感が増す中で、投機マネーが行き場無くあちこちを巡回しているのが、まるで目に見えるようだ。
 しかしメディアも、経済評論家や政治評論家の話はどうしても空しく感じるだけで、なんだか本質からすこし外れているように感じる。それはおそらく彼らは、従来のロジックや仕組みを前提に話をしようとしているからだろう。だがここ数年顕著に加速する世界や社会の歪みは、そもそもの前提をもう一回考え直すところから始める必要性を示しているように思う。


「虚業と実業について」

 農業や工業に代表される生産を行う産業が実業(製産する業務)とすれば、金融界やヘッジファンドに代表される投機の世界は虚業(非製産で実体的な物質を伴わない)というべきだろう。しかし世界はいまや虚業の方が力を持ち、実業の方が圧迫して隅に追いやられている状態となっている。そして虚業が絶好調に達した状態がバブルであり、いまの世界金融危機はこのバブルがはじけた、もしくは弾ける前夜という見方もできる。そして虚業だがそれは実業を伴い、バブルが弾けた後には世界的にどんな大混乱が起きるか、だれもが想像すらできないでいる。

 では虚業とは何か? 私は次のように定義する。

「虚業とは信用と未来を通貨価値に換算し取引可能とする事である」
 
 通貨であったり、手形であったり、もろもろの無形価値をもって社会を成り立たせるのは、人間の文化であり文明の本質である。我々の世界(文明)を支えているのは、物質よりもむしろ信用などの無形価値である。それ自体は本来は別に間違っていなかったし、これも世界を成り立たせる一つの方法であったはずだった。
 だがヘッジファンドによる金融取引は、本来の金融理念である資産を投資して富を循環させる役目を超えて、ただ富を循環させて加速するだけのメタ取引のようになり、世界を振り回すようになった。例えばもっとも解りやすい代表例は「先物取引」であり、これはいうなれば未来を担保に商売をしているのである。
 つまり現在社会に対して厳し見方をするならば、我々は未来を担保に自転車操業をつづけながら、ようやく社会を維持する事ができていると言えるだろう。


「持続可能な社会とは?」

 私が書いている事は直感に基づいたもので飛躍しすぎている可能性があるが、現在の世界でおこるさまざまな歪みは、単に金融の問題、アメリカの問題、先進国の問題、テクノロジーの問題といったカテゴリではなく、そもそも「我々が築いてきた文化は持続可能なものではなかった」というもっと根本的な問題が現れてきたように感じる。
 20世紀になる前、産業革命がおこる前は、世界はゆっくりとだけ成長し大きく発展する事も交替する事もなく、人口もそれほど増えなかったし、テクノロジーなどの大幅な飛躍もなかった時代である。だが今にして思えば、この近代以前の時代は、別に未来を担保にする必要もなく、ある意味堅実な文化社会であったと言えるだろう。少なくとも持続可能であり、近代以前の社会形態であれば数万年とかの単位でも持続する事はできるのかもしれない。
 しかし近代以降は目覚ましい進歩と飛躍があったものの、視点をかえれば、所詮は未来を担保に浪費を繰り返すだけのモデルであり、そもそも持続可能な社会や文化モデルではなかったのではないかと思う。つまり本当のバブルは近代化から始まり、いままで続いていたのではないかということだ。膨れ上がった未来の信用(つまり将来にわたって継続成長しつづけるという幻想)そのものが、いわば文明バブルという形で近代を形作ってきたとは言えないか?

 つまり私が冒頭に記載したメディアで鳴らされる警鐘になんだかシックリとこない理由は、目の前に立ちふさがる沢山の課題だけではなく、そろそろ本来の文明・文化・システムなどのもっと根本的な部分や前提事項を考え直す時期にきたのではないかと思うようになったからだ。


「現代の課題」

 核兵器が誕生した際に誰かが「これで人類は自殺する手段を手に入れた」といった。そして3.11に起きた福島原発事故はそれが戦争だけではなく、直近である数十年〜の単位で人類が自滅してゆく可能性を示したものだと思う。自民党の石破茂政調会長は、核抑止の為に原子力を継続するべきであるという議論をしていたが、これはむしろ滑稽である。原子力施設は攻撃側からみてもっとも解りやすいウィークポイントであり、ミサイル一発で大被害を起こすのは必至である。むしろ「映画)博士の異常な愛情/スタンリー・キューブリック」に登場した、自滅兵器に原発は相当する。直接的な核の破壊力より、むしろ日本の54基の原発を爆破、もしくは死の灰をまきちらせば、まさに映画に登場した自滅兵器に相当する役割を示す事ができるだろう。しかも戦争や大事故などのアクシデント的なイベントを排除したとしても、核廃棄物による汚染や処理の問題は未来に対して致命的である。私はこの核の問題が、やはり持続可能な社会を妨げるもっとも大きな問題だと思われる。

 そして経済について言えば、経済成長をし続けないと破綻する社会や文明。これはまさにバブルであり、持続可能とはいえない社会の証明である。最近の経済危機などのニュースを見ていて、そもそもこんなあやふやで持続可能に疑問を要するような事に、真剣に知恵やエネルギーを費やしてきたのかと考えると、なんだか世界は進歩してきたのかどうかが疑わしく感じる。

 ゆえに、まずは前提となる事をいったん見直してみてはどうだろう。

   * 成長し続けないと持続できないモデルは欠陥モデルではないのか? 
   * 未来に対して借金するようなモデルは廃止するべきではないのか?
   * 無い物ねだりより、現在あるものを維持する方法を考えないといけないのではないか? 
<参考>
・ウォール街デモ、4週間目に突入 全米に拡大
 http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE2EAE2E1948DE2EAE3E2E0E2E3E39494EAE2E2E2
・自分探しを始めたアメリカはどこに向かうのか
 http://www.videonews.com/on-demand/541550/002088.php
・石破茂氏 「核の潜在的抑止力」維持のため原発続けるべき
 http://www.news-postseven.com/archives/20110921_31301.html

2011年10月1日土曜日

英才教育×学習塾×新卒採用とは?

 「英才教育×学習塾×新卒採用」って意味があるのか? という疑問がずっと昔からある。時々ふと思い出して考える事があるが、結論としてはどうしても合理的とは思えない。例えば、次のような疑問がある。

1)英才教育
 人より数年早く、使うかどうか解らない知識をむやみに頭に詰め込む事が何故必要なのかが解らない。それに子供の柔軟な思考や能力を、単純知識だけを埋め込んでむしろ才能の目を刈り取っているんじゃないかと心配になる。むしろ音楽とか運動とか感性や感受性を磨くような教育に力を注ぐべきではないかと思う。ちなみに本当に英才教育で意味があるのはIQが桁違いに高くて飛び級を楽々してしまうような子供だけじゃないかな。一般の子供にはむしろマイナスではないのかと思う。

2)学習塾
 私は個人的には学習塾はこの世にほぼ無用だと思っている。学校でさぼって、わざわざ放課後に無駄な時間つかって塾に通うのは、本当に時間の無駄だと思うし、エネルギーの使い方が違うと思う。そもそもは1)英才教育と同じで、重要なのは最終的にたどり着くレベルや質であって、他人より1年や2年早く覚えるだけの学習などまったく意味がない。もっと人間の能力を幅広くとらえて開発すればいいのにと思う。

3)新卒採用
 大企業はいまだに新卒にこだわるらしい。よって就職浪人で大学に残る学生がいるそうだが、これが上記1)、2)をさらに輪をかけて馬鹿げた話だ。新だろうが旧だろうが能力があればいいだろうと思うのだが、なんでこんな変な制度があるのだろう。私的な意見だけをいえば、新卒で社会を知らない新入社員を一から教育するのは本当に大変で、個人的にはむしろ中途採用のように一回社会人やって失敗してリベンジをかけている人の方が好きだし、教えやすい。この制度は本当に合理性がわからない、処女崇拝とかと同次元の話になるのかな? 
 ちなみに就活のせいで大学生の学力が低くて話にならないという話や記事はたまにみかける。大学にいってもあんまり教養が身に付かないという、寒い現実があるのだろう。


 こうして文章にしてみても、やっぱりこのトリプルコンボは無意味で、どっちかというと有害なのじゃやないかなと思う。いったいどんな想定をして、最適化した結果がこうなったか知りたいと思う。想像すると次のような暗黙の前提があった場合に有効なシステムなのかもしれない。

   * 日本に永住する、もしくは日本企業に勤める
   * 転職せずに終身雇用のレールに乗る
   * 公務員、もしくはそれに準じるような安定が見込めるような大企業に勤める

 上記の前提を満たす場合には、このトリプルコンボを踏まえて人生設計すると有効なのかもしれない。少なくとも今までは有効に機能したから、成立しているのだろう。でも私からみると、これはけっこう細いレールでしんどい道のりのように思えてならない。敗者復活がないというか、潰しが効かない道のりだ。究極の体現者が官僚+天下りコースなのだろう。

 しかしこれでは日本の将来があまりに不安なので、私はむしろ次のような教育や採用基準をお勧めしたい。


   * 学生時代には何らかの職業経験(バイト)とかを最低いくつか経験している
   * 音楽、絵画とか、とにかく美術的なセンスを磨いておく
   * スポーツ、武術、登山でもいいが、肉体を鍛えておく。
   * 創造スキルを磨いておく、美術・文学・制作でも、とにかく新しい物を生み出す力がいる
 私が理想と思う教育は、たとえばこんな感じ。

 小学生ぐらいから武術+音楽をまなばせる、中学ぐらいから小説書くとかなんか工作で機械を新たにつくるとか創造的な事をやらせる、高校ぐらいから1年ほどアマゾンでもサハラでもいいがサバイバル生活をした経験を持たせる、大学ぐらいで基礎学習をみっちりとやらせる。こういった教育をすれば、なんかすごい人材が沢山うまれそうな気がしないだろうか?

 べつに上記は時間をかけてもいいし、不十分だと思ったら小学校からでも留年してむしろじっくりとやるのがいいと思う。ようは教育は時間を競うのではなく、中身や質をあげることに注目すべきだ。そもそも勉強は社会人になってからも一生続く物とかんがえて、若い時からあんまり焦って詰め込む必要ないだろう。それよりは、むしろ地力をあげる為のセンスや体験を増やすような教育が必要だと思う。

 私としては普通に考えれば、こういった教育がいいと思うのだけど、実態としての日本ではまったく逆の方向で進んでいるように見える。あるいは過去に安倍総理とかが言い出したように愛国教育だとか、また違った話がわいてきたりもする。

 しかし今までに文部省なりがやってきた内容をみれば、結局のところ日本の発想というのは工業製品を作るようなノリで、いかに平均的な人材で不具合や欠品を減らすことだけに注意しているのと同じだと思う。それじゃあ世界に遅れをとるよ、と危惧するのは私だけではないと思うのだが・・・。

2011年9月29日木曜日

左翼とか右翼というカテゴリ

 私自身は左翼とか右翼とかいうのはあまり考え方事がないが、これは興味が無いという意味ではなく、そもそもこのカテゴリ分けは変だし問題提起そのものに意味がないとずっと思っていたからだ。このカテゴリが変だという最も解りやすい説明はモジログ「世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼」の記事を見ていただければ良いと思う。これを読んだ時に私は「なるほどね」と長い間のもやもやがずいぶんすっきりした。 もう一点、今度は日本の右翼・左翼の歪んだ形を説明しているのに、内田樹「街場のアメリカ論(文集文庫)」という本があって、上記のブログとこの本を読むと、ほとんど完璧にこの辺りがすっきりすると思う。右翼・左翼というカテゴリ分けが、そもそもなんなのかが見えてくるだろう。




 前置きが長くなったが、私はそもそも右翼・左翼とかいうカテゴリ分けは意味がないというか、問題の提起の仕方がおかしいとおもっている。それでも、わざわざブログでこんなテーマを選んだかというと、福島原発事故に関するブログやTweetなどをみていると、たびたび事故と右翼的/左翼的といった話がごちゃごちゃになった発言をみつける事があって、「いったい何なんだこれは?」と考え込む事が多かったからだ。


 良く見かけるのは「反原発=左翼、原発推進=右翼」というような暗黙のカテゴリ分けをした上で、反原発や放射能汚染に対して警告する人々を、左翼のデマだとか、福島県民を差別している差別主義者だとかいうような発言だ。私自身は3.11から反原発という立場でブログを書いているので、こういった発言を見ると酷いとは思うが、あんまり気にしない事にしていた。


 しかし、たびたび似たような発言をみかけて、しかも内容があまりに滅茶苦茶なものが多いので、整理の為にまとめてみる。ちなみに反原発の人の発言は、怒っていて乱暴な言葉を使う人はいても、内容や意図が不明確なものはほぼないので、だいたい見て解らない訳ではない。しかし反・反原発で見かける最近の発言は、意図や背景が読めない「?」な物が多い。大まかにまとめると次のような発言を見かけた。

   * 左翼が本当は放射能汚染の被害など出てないのに、デモで反原発をあおって国情を不安定かさせている。
   * 反原発主義者が放射能汚染をさわぎたてて、福島県民を差別している。
   * 原発事故では死者はでてない。交通事故に比べてもずっと安全で、騒ぐ意味などない。
   * 放射能よりタバコの方が健康に悪い。
   * 国力を示すには原子力は必要。原発を止めると経済が停滞する。電気代があがるなど。
 上記は全て誤った知識による誤解、もしくは意図的なネガティブキャンペーンである。小出裕章氏の書籍がベストセラーになるような時期に、こんなネガティブキャンペーンに惑わされる人もいないだろう。しかし、最近の大手メディアの混乱報道と、政治の停滞など、なんとなく太平洋戦争前的な空気に似ているように思えて、あんがい油断できないのかもしれないなと思い始めた。

 放射能汚染に関する本がよく売れたり、食品の産地表示が細かくなり始めたり、ネットでの発言の多さであったり、いずれにしろ言えるのは、反原発派も推進派もやはり放射能を恐れているのではないかということだ。


 上記の誹謗的な発言なども、ある種のネガティブキャンペーンなのだが、怖いのはその行く先である。結局は全員が放射能を恐れてヒステリックになる人が増え、そして不安のあまり「単純な答え」(スケープゴート探し)に走って、誰彼かまわずインネンつけるような状況、これが最悪の事態である。


 私も最初はネガティブキャンペーン的なもので、特定業界人や右翼的?もしくは単にネットで祭りを楽しんでいるような人がいるだけだと思っていた。でも最近は不安から分けの解らない理屈をつけて、悪者探しをする人が出始めたように感じる。それは反原発か推進派だとかいう以前に、もっと最悪だ。杞憂に終わればいいが、この記事を読んだ人だけでも、冷静になる事を願っている。


 いちおう最後に、反原発という私の視点で、ネガティブキャンペーン的なデマゴーグに対して反論を記載しておく。


 反原発などのデモにもっとも素早く反応したのは確かに左翼系の人たちが多かったようだ。でも最近では右翼の人たちが参加する例も増えて、単純な左右のイデオロギーではない問題として、みんなの認識も変わってきている。放射能汚染の問題は、もはやイデオロギーではなく現実的で身近な問題である。なお日本国内より、海外の視点の方がはるかに厳しいらしい。日本からの旅行者が入国時に厳重なチェックに驚かされる事が多いとも聞いている。


 放射能汚染に対する危惧が差別に結びついているのかは、正直言ってわからない。身近でそんな例をみたことはない。しかし汚染食材を消費するかどうかの話は、差別とか風評被害とかの問題ではない。ちなみに私は外食が多いので、かなり諦めている部分もあるが、食材を買う時はいちおう確認をする習慣がついた。私は少なくとも汚染食材を食べる気はないし、そのような行動が被災地支援になるとも考えていない。
 汚染食材を流通させて被災地を支援しようなどという考えは、溺れている人を助ける為に周りの人も溺れさせようとしているようなものだ。結果的に共倒れや道連れになるなだけで、まったく解決には結びつかないと考えている。


 しかし最もデマゴーグとして議論をおかしくしているのは、原子力の必要性だ。私は色々と書籍やネットで調べた結果、原発を行うメリットは何もないと判断した。かろうじてメリットといえるのは、原爆の材料を作れることであるが、既に日本では処理できずに溜まった大量のプルトニウムがあって捨て場に困る状況であり、なおかつ原爆の材料作る為なら数機原子炉があればいいだけであって、こんなに全国に作る意味はない。
 また電気代は事故が起こる前でも原発はかなり高い方で、事故後で本来のリスク費用を正しく積めばとてつもない高額な電気となるだろう。原発を止めれば経済が停滞するのではなく、こんなハイリスクで巨大な施設を抱えて経済成長はどう考えても無理だ。なお今回の事故処理でもっとも問題なのは、国家と東京電力がほとんど責任を取ろうとしないところである。実質的には責任を放棄して被災者を見捨てた形となっている。ものすごいモラルハザードであり、以後も同様の事故がおきれば責任を取らないのは明白である。
 そうなれば誰も原発の近くには住みたがらないので、産業どころではなくなるはずだと思う。人がいなくなっても電気だけを作るなどというのは、本来ありえないはずなのだが。


 なお放射能に対する危機認識だが、放射能が問題なのは遺伝子に影響を与えて次の世代に問題を継続させることである。ここがタバコの問題などとは決定的に違う。タバコを吸いすぎたからといって、正常な子供が生まれなくなったり早死にが増えたりする事は無い。本当に恐ろしいのは、この世代を超えてどれだけの問題を及ぼすのかという点である。チェルノブイリの例から推測すると、今から生まれる子供たちにはかなり影響が出る事が危惧される。映画「チェルノブイリハート」でも生まれつき不具で親に捨てられた子供が大量に発生した例がでている。
 こんな事が日本で起きれば、もうそこは人の尊厳など微塵もない状況になるのではないかと思う。やはり汚染地帯には除染をさせるまえに、まず移住をさせるべきだと思う。


<参考>


・右翼(国家主義)と左翼(社会主義)は反対概念ではなく、独立概念である
 http://mojix.org/2010/10/14/left-and-right
・世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼
 http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayo
・妨害行為が現実におきています。法的措置なども含めて検討しています。
 http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/2a6dc849c0f6a7852172bf57bb51fdf1
・チェルノブイリハート 劇場情報
 http://www.gocinema.jp/c-heart/theater/theater.html

2011年9月10日土曜日

大都市不要論

 「はたして「大都市」は本当に必要なのか?」

 この疑問は私にとっては、何年か前から時折頭に浮かんでは消える問いである。なかでも今年は震災や原発事故など、従来の考え方に影響を与えるような出来事もあって、最近ではさらに具体的な疑問として考えるようになった。なかでも今年の震災&原発事故と、復興をめぐる歪んだ構図は、従来の考えを見直すには十分な出来事だったと思う。だから現時点での考えを整理する上でまとめてみる事にした。

 まず「大都市ってそもそも必要なの?」という疑問に対して、まず従来の日本メディアはこういった当たり前の事として、大都市が必要、東京がないと経済がまわらない、経済成長もできないといった論調をここ数十年繰り返してきたという現状がある。今まではこれは当たり前の事であり、アナリストや知識階層なども、この点に対して根本的な疑問を提示したような話は聞いた事がない。(少なくとも私はね)

 たまに地方分権、活性化などといった記事もみかけるが、これも東京に対してどうやって地方を持ち上げるかというような二次的な議論であり、そもそも東京のような大都市が必要なのかといった、話題がでる事はなかった。大都市は必要、これは長く当たり前の事として流布されてきた言説である。

 では、なぜ私はこのような疑問を持つようになったのか? それは自身の仕事上の経験によるものである。私自身はソフトウェアエンジニアだが、ずっと昔から東京で会社を経営している知人に、大阪では仕事がないから、東京に出て仕事をやらないかという話をよく聞かされてきた。現在は震災もあって経済的にもだいぶパラダイムシフトが起きる可能性があるので、以前と同じではないかもしれないが、数年前はソフト関係の仕事で言えば大阪での仕事は東京の1/5といった規模で、確かに東京が仕事の中心であって知人が言うのは最もな事だった。

 しかし私は個人的に、当時からどうもこの考えが気に食わなくてずっと引っかかっていた。東京で仕事をするのは別にいい、でもそもそも東京でないとソフトの仕事が出来ないというのはオカシイのではないか? 何故ならば、ソフト開発のような仕事はネットとコンピュータがあればいいだけであり、本来は場所をえらばずに、日本中、もしくは世界中のどこにいても仕事ができるのがあるべき姿だと考えていたからだ。

 ちなみにアメリカではこういった形態は別にめずらしくもなく、州をまたがるメンバーがネット上で会議をしながら一度も顔合わせを行わずにプロジェクトを実施する例は多くあるらしい。でも日本では、なんだか良くわからないが、まずは顔を合わせないと仕事ができない、といった雰囲気があるので、ずっと旧来のベタな仕事をしている。結果としてとにかく東京に集まらないといけないということになる。でも、それでいいのか? という疑問はずっとあって、どうにかして日本各地に点在するメンバーの在宅ワークみたいなもので、中規模程度のプロジェクトを運用する事はできないのだろうかと考えてきた。(まだこの問題をうまく解決する答えが出てないけど)

 まあ、とにかくこういった思いがあったので、私はずっと東京でないと仕事ができないという事実に対してはずっと根本的な疑問を感じていた。だが最近では、さらにソフトウェア以外のもっと色々な業種であっても、大都市に集中するのではなく、もっと日本全国に分散するべきだと思うようになった。いや、もっと正確に言えば、そういう方向に世界は進んでおり、いずれは日本でもその方向にシフトせざるを得ないと思う。それは様々な変化がここ十年程度の間に起きており、従来の常識を見直すべき時がきたと考えるからだ。

 1つは販売形態の変化で、ここ十年程度でコンビニエンスストアと通信販売は飛躍的に増えた。代わりに一般の商店街などはどんどん廃れるようになった。これが良いのか悪いのかは議論が分かれる所だと思うが、少なくとも今後の方向性を考えれば、将来の販売に対する究極の姿は、コンビニエンスストアと通信販売に集約されていくのは間違いないだろう。

 そして、今年の震災に関連して色々と問題点が明らかになったエネルギー(主に電力)政策についてだが、これも従来の考え方の妥当性を見直すべきがきたと思われる。原発事故の影響で、原子力の是非が問われるようになったが、少し視点を変えて考えるならば、これは次のような2つの思想の対立でもある。

   * 原子力や火力など、大規模設備による集中管理システム。
   * 風力、太陽光など、小規模設備による分散管理型システム。

 従来は大きいことは良いことで、それが低コストで安定だと長い間考えられてきた。しかし3.11の大震災では、その考えが大きく崩れることとなった。大規模設備による集中管理は、いったん設備にトラブルが発生すると、被害が甚大であり、なおかつ修復も困難である。むしろエネルギーのような安定供給を目指すものは、小規模設備を複数展開した分散型システムの方が理にかなっていると言えるだろう。

 もっと解りやすく言えば、インターネットが分散管理型システムの代表である。インターネットの起源はアメリカで考案された軍事技術だが、その基本思想は分散型にする事により、事故やトラブルが発生しても問題となった設備の役割を他の設備が自動的に代替えする事により、すみやかに復旧するという考えだ。これは確かに優れた先駆的な考え方であり、今ではインターネットは世界を結ぶようになった。

 ちなみに、政治や世の中の仕組みという点から考えれば、近代の日本は代表的な「集中管理システム」型の社会だと言えるだろう。それでも高度成長期の以前には、まだ地方分権というか、地方の特色や文化などがあって、分散管理システム的な要素もあったのだと思う。だが高度成長期の急激な変化と、政府や官僚による護送船団方式に代表されるような1極集中の方針により、今では世界で最も硬直した維持の困難な社会システムになってしまった。

 そして硬直して歪んだ社会システムの実態がもっとも顕著に現れたのが、大震災とそれにまつわる復興議論だ。私が気になったポイントとしては、次のようなものが挙げられる。

   * 東京石原都知事の、東京さえ無事ならば日本経済は大丈夫といった発言
   * 原発に代表される、あくまでも巨大設備による集中管理を進めようとするエネルギー政策
   * 縦割りや省庁権益などでがんじがらめになって何もできない硬直した官僚システム
   * 既存の体質や体系を維持するだけで、将来性の無い、まの抜けた提案を繰り返す、財界や政治家など

 私の目には、財界・官僚・政治家たちは、今までと同じように新たに巨大な箱物をたてることだけにやっきになっており、根本的な社会システムの問題や変化にはまるで気づいていないように見える。

 はっきりいって、今の日本は問題だらけだ。そして金も無い。彼らは金もないなかで、さらに無駄金投資となるような巨大設備による集中管理システムを続けようとしている。今まではできたかもしれない、でも将来はおそらく無理だ。私にはこれらが、倒産しかかっている会社の社長が、いままでさんざん赤字を作って衰退させてきた方針をかえずに繰り返そうとしているだけに見える。むしろ今こそいろんな社会システム全体を見直すべきがきたのではないだろうか?

 私は今こそは次のような従来の常識を見直すして、これからの社会システムを考え直すべきだと思う。

   * 東京がないと日本経済は沈むのか? 機能分散すればいいのではないか?
   * 大企業だけを支援するような政策で経済成長できるのか? 柔軟性や展望の無い旧体制の維持だけになってないか?
   * 原発のような巨大設備による集中エネルギー管理は、本当に安定供給につながるのか?
   * 今みたいな財界・官僚・政治のでかいだけで硬直したシステムでやっていけるのか?

 ちなみに最後に余談として書くが、自然界の仕組みというのは、よくよく考えれば分散型システムなのだと思う。生物はどこかに集まって偏っているわけではなく、それぞれがうまく棲み分けして衝突しないようになっている。これはおそらく長い歴史の中で結果としてそうなったのだろうが、長く続けようとすればおのずと、1極集中ではなく、ゆらぎをもった多様性のある形態を取るという一つの答えなのだと思う。

2011年7月29日金曜日

ちょっとオカシイだろう日本人、「道連れ思想」というもの

  3.11の福島原発事故とそこから始まる放射能汚染の問題、さらにはTwitter監視をエネ庁が発注して東電の勝俣会長が理事の会社が受注するという事実。いくら利権とはいえ、ちょっと頭オカシイだろうと言いたくなるような事ばかり続くが、こういった細かい記事の話は他の人もさんざん取りあえげているので、ちょっと視点を変えてこういった事を生み出す思考や考え方について、思った事を記載する。

 たまたま記事を見ていて腹が立ったのが「海江田が答弁中に泣いています(衆院 赤澤亮正110729」の動画で、どこが腹が立ったかというと「赤澤議員」が最初に、海江田大臣に、”今日も手のひらに忍の字を書いてきたか”という冒頭のくだりである。そして以降の、ひたすらしつこく海江田大臣に、いつ辞めるのかと問い続けるシーンである。

 まず誤解が無いように先に述べるが、私は海江田大臣は好きではない。むしろ官僚の言いなりで利権を守ろうとする”最低な政治家”だと思っている。泣こうがどうしようが、そんな事には興味はない。何に腹がたったかというと、「忍」の文字がどうだとか、「大臣の気持ちをお察しします」だとか、こういったくだらない事をダラダラと述べる「赤澤議員」であり、動画を見ている瞬間には、彼が現在の日本のダメな政治家、ひいてはダメな大人を代表しているように思えたからだ。

 わざわざ国会のようなパブリックな場で、本題に関係ない事をネチネチと言い続けて得意になる愚劣さも腹立つが、それよりもこの非常時がつづく時期に「さっさと仕事しろろ」という思いと、「ダラダラ何やってんだ」という気がした。そしてこれが普通だという空気で続く、国会という場は、本当にダメな連中によるダメな会議だとつくづく思った。こんな連中しかいないのだから問題解決などするはずもない。


 もう一点今日みた記事でひっかかったのは「森ゆうこ議員を囲む会」で話題にでた、福島からの自主避難民に対する話題だった。危険を感じて自主的に逃げた人々に対しては公的な支援は皆無に近い、むしろ妨害したり、一人だけ逃げだして的な嫌がらせ的な話も、今までなんどもネット上で目にした。この自主避難民についての差別というか嫌がらせという仕打ちは、毎回話を聞くたびに腹が立つ。理由は、これが「最も日本人のダメな所」が顕著に出た事例だからだ。

 ちょっと前に「人命軽視の国」でも書いたが、時々どうしても私は「日本人は頭がオカシイのじゃないか?」と思う事がある。チマチマとした細かい気配りをする割には、時にはとても残酷な仕打ちをする。その根本になる思想が「人命軽視」で、さらに根っこが「個人」を尊重しないからだと私は考えている。
 
 福島県内みたいは高被爆地帯から脱出する人に対して、どうして残る者たちが「達者でな」の一言ぐらい言えないのか? 今の日本はまるで全員が沈没船の中から逃げようとしている人の足の引っ張り合いをしているように見える。逃げる奴を止めたところで自分が助かるわけではない。それならば、せめて逃げる奴を黙って見送ってやればいいではないか。それができない日本人には、足を引っ張り合う「道連れ思想」とでもいうものがあるとしか思えない。 

 私が今危惧しているのは、その道連れ思想が、秋には汚染米を混ぜて平等にした状態で出荷し、国民を平等に被爆させる事につながることである。誰も責任を取らず、他人の足をひっぱる事しかしない連中。おそらく彼らは最後まで意味の無いチキンレースを続けるだろう。報道だけを見ていれば、この国にはまともな大人はいないんじゃないかとすら思えてくる。

 いい加減、情緒や思いやりやとかいう言葉の誤魔化しを止めてもらいたい。現実をみて責任ある大人としての対応をするべきだ。現実世界でこの事態を解決し、なんとか被災民を救おうとすれば、残酷な決断をしなくてはならない。そして残酷な決断をした十字架を背負っていかなければいけない。答えは最初から誰にも解っているが、ずっと誤魔化しているだけなのだ。

 
 最初からずっと解っていた答えは・・・・次のようなものだ。
  • 福島県を含む広範囲の人々を強制避難。100年程度は戻らない覚悟で行うこと。
  • 各地からの汚染物質を福島原発の周辺に集める。
  • 汚染地帯での農業、水産、畜産などは全てストップ。汚染食材の流通を止める。
  • 汚染されてない食材が不足するならば、女子供から優先に汚染の少ない食材を提供する。
  • 原子力は全て停止させて火力などでとりあえずは電力を補う。

 汚染を止めて廃棄物を処理する為には、福島周辺を切り捨てざるを得ない。土地ではなく人を救う事を優先しなければならない。それに日本の現状では、原発みたいな高リスクな施設を管理できるような余力も能力もない。原発継続して電気代を値上げする余力もない。将来起こる致命的な健康被害や世代を超えて累積すると考えられる遺伝的な被害を止める為には、無理矢理でも人々を逃がさなければならない。例え経済破綻しようが、失われた信頼を取り戻さなければならない。


 これはきっと誰もが最初から解っていたはずだ。だが「被災地を見捨てるのか」、「農家の気持ちを考えろ」、「一人だけ逃げるのか」といった感情的な意見に終始し、結局だれも決断しない(責任を取らない)でここまで来てしまった。

 
 第二次世界大戦の時代、日本の愚劣な将校たちを止めたのは敗戦という事実だった。だが今は都合よく日本を止めてくれる外圧などは存在しない。自分たちでこの事態に決断をしなければ、今後は失われた10年どころではなく、国すらなくなるだろう。


<参考>
・海江田が答弁中に泣いています(衆院 赤澤亮正110729)

・森ゆうこ議員を囲む会

・情緒的報道文化がもたらしたもの

・記事監視:エネ庁が08年から 今年度はツイッターも対象

・映画「タイタニック」と原発事故

2011年7月22日金曜日

脱メディアのすすめ

 ようやく地デジへの完全移行があと2日となった。ちなみに私は地デジ対応をしていない。チューナー買えばいいのだろうが、あえて対応しないで、しばらくはTV無しの生活もいいかなと思っている。それに3.11以降は特にTVや主要新聞などの従来の主要メディアの問題点ばかりが目立つようになり、色々と考えなおす点が多かったからだ。

 私は元々新聞を取っていない、取ろうと考えたこともほとんどない。理由は新聞を読む時間があまり取れないことが第一で、読むとすれば電車通勤時間ぐらいだが、新聞は無駄にでかくて広げると邪魔になる。だから、ずっと新聞もA4サイズになればよいと思っていたが、こういったところが新聞社の営業努力の無さだと思うが改善された為しはない。ちなみに最近はスマートフォンのニュースリーダーで見たい記事を探してみるので、まったく新聞は不要となった。

 なおTVについては、もともとあまりTVを見なくて、見たい時には録画してあとから再生してCMを早送りしながら見ている。最近は動画でも色々と見えるようになったので、これもあまりTVの必然性を感じない。家にいるときにつけていることも多いが、これはむしろラジオの代わりにつけている程度のもので、実際に見たい番組は少ない。なお見たくない番組、というか見ているとイライラする番組はおおいので、むしろあまりみない。

 だからネットがあれば、既存の主要メディアはあまり必要性を感じないというのが正直なところだ。また主要メディアの問題点が最近ではあまりにも、酷かった、だからもっと積極的にみんなが「脱メディア」をするべきではないかと、考えるようになった。


 「脱メディア」を強く思うきっかけは、やはり3.11に始まる福島原発事故についてだ。本来は政治をチェックし、市民に正しい情報を伝えて欲しいはずのメディアだが、彼らは明確な意思をもって、むしろ正しい情報を伝えなかった。

 例えば記事『理解されない福島の怒り 誰も伝えない被災地の「マスコミ不信』では、南相馬市には5月前後に主要マスコミからのファックスによる取材申し込みが多かったそうである。何故ファックスかというと、マスコミ各社の社内規定にて原発から50キロ圏内は立入禁止となっているからであり、南相馬市は30キロ圏外だが50キロ以内になる為に、直接取材で入れないということだった。つまり、まったく矛盾している話だが、マスコミ社内で立入禁止に指定されているはずなのに、マスコミは安全だと報道し続けた。

 また反原発のデモについては主要メディアでは報道が少ないし、放射能汚染についてもようやく少しずつ控え目にだが報じられるようになったにすぎない。福島事故についてのある程度まともと思われる情報が手に入るのは、ほとんどがフリージャーナリストか、個人で調査をしたような有志による活動のおかげである。

 そして今なお続く放射能汚染の問題について、マスコミはまだ正しい議論をするのを妨げているように感じる。政府の発言を遅れて伝えるのがマスコミの実情であり、また海外の報道も曲解して伝えたり、ニュアンスをゆがめているのではないかと疑問を感じる事も多い。

 解りやすい例は「汚染牛」の問題だが、当然汚染は牛にかぎった話ではない。他の食材についても汚染されているはずである。だが、あたかも汚染は牛だけであるかのような錯覚と、他は安全であるかのような誤解をしかねない記事が多数だ。

 結局のところ、主要メディアで伝えている記事と言うのは、政府や財界などの発信情報を「左から右へ垂れ流す」だけか、スポンサーの気に入る記事を書くかていどで、実際に役立つ情報はほとんど得られない。逆にローカル紙は比較的健全な報道をしているようだ。問題が大きいのは全国紙のような、大スポンサーが付いているメディアだろう。

 しかしそれでも私は、やはりマスコミにはしっかりして欲しいと願っている。こういった大問題があった場合に、正しく議論をするには、やはり正しい報道や情報が不可欠である。ゆえに、このブログを読んだ人には、次の提案を行いたい。

<提案>
  • 全国紙の新聞を読まない
  • 全国ネットのTVをみない
  • 記事はネットを使って複数の情報ソースを取る事
 ちなみに私的には、Twitterとか口コミの方が稀に誤報はあってもトータルとしてみれば役立つ情報が得られる。上記提案はこうやってまずは、主要メディアの内容を市民が厳しい目でチェックをするようにし、そして妥当なメディアへと少しずつでも変わって欲しいのを願う為である。


<参考>
・理解されない福島の怒り 誰も伝えない被災地の「マスコミ不信」 JBpress(日本ビジネスプレス)

2011年7月15日金曜日

こういうのを言論規制と呼ぶのではないか

 記事を簡単に要約すると、エネルギー庁がネット上の原子力に関する言論内容を、外部業者に委託して調べさせていたということだ。参考として挙げたのは、業者への入札広告と仕様書である。なおTwitterやブログでも話題となっており、目に付いたものを参考として挙げておいた。

<概要>
資源エネルギー庁
「平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業」
:入札公告: http://j.mp/o0gPI2
:仕様書: PDF http://j.mp/qaF5L4
:事業目的: ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する

 最近は原子力の話をするのは気が滅入るので、止めようかと思いかけていのだが・・・。ここまでツッコミを誘うようなネタがあれば、さすがに無視はできない。ということでブログの記事としてみたが、いまさらという感じでコメントする気もなれない。

 ネット上での噂もあり、原子力村にまつわる過去の経緯などを考えると、こういった事をやっているという事実は、「ああ、やっぱり」とい言うのが本音だ。しかし気になるのは情報収集よりも、その後であって、もしも気に入らない情報を発信している、ジャーナリスト、ブログ、Twitterなどを見つけたら、いったい彼らはどうするつもりだったのかが気になる。

 抗議するのか、金銭をバラまくのか、権力にて屈服を試みるのか? あるいはもっとダイレクトな手段を取るつもりなのか、そこが知りたいところだ。現状でも原子力村の権力や手の届く範囲は広い、電力業界+マスコミ+政府+官僚+財界+学会+検察+?・・・だが正直どこまで及んでいるかが解らない。だから懸念なのは、もしも彼らがダイレクトな手段を取ると決めれば、たいていの事はできそうだと思うからだ。

 推測だが、おそらくは関連の天下り法人とかが高い金で受注し、作業を外部を丸投げして、結果でてきた資料を元になんかやらかすのだろう。あきらかに無駄金だし、まじめに言論統制なんかされたらたまったものではない。

 
 しかし、逆の視点で考えてみれば、彼らはいったいどんな情報を「正しい情報」あるいは「風評被害」とみなしているのだろう。ちょっと想像で思いつくものを列挙してみる。

<(彼らが望む)正しい情報とは・・・?>
  • 原子力は安全でクリーンなエネルギーである。なお、電力コストが最も安くて、将来有望。
  • 福島事故は順調に回復しつつあり、今後同様の事故が日本で起こる事はない。
  • 放射能汚染はたいしたことない、健康被害もおこらない。もっと宣伝してみんな福島の復興に努めるべきだ。
  • 原子力を止めれば、ただちに電力不足になる。
  • 原子力を継続してこそ、経済復興や今後の繁栄が見込まれる。

<(彼らが考える)風評被害とは・・・?>
  • 福島事故で日本はチェルノブイリなみか、それ以上の汚染地帯が存在する。
  • 食品、空気、水に対する放射能汚染の心配はない。東北の食材や海産物をもっと消費すべき。
  • 20ミリシーベルトは問題なし、もっと高くても大丈夫。
  • 原子力村により日本経済や政治がゆがめられている。
  • もんじゅは数兆円規模の巨大な無駄金で、こんご役に立つ見込みなし。
  • 福島事故のときに、情報をいち早く得た関係者は、即刻非難したが、一般へは情報を隠した。
  • マスコミや御用学者に対する金銭のバラマキはないし、彼らは正しい情報を出している。

 すぐに思いつくのは、まあこんなところである。最近は少しずつ原子力についても情報がTVで出るようになったし、ネットで記事をしらべれば、どれが正しい情報かはおそらく誰でもすぐに解るだろう。その判断はこのブログを読んでくれた各自にゆだねる。


 ちなみに私がそれより先に言いたいのは・・・

 「お前達のような存在そのものが、この国の風評被害だ」ということだ。

 歴史にもしはないのだが、もしも福島事故が起きたときに、ただちに正確な被害情報をだし、住民を退避させ、食品規制も考慮した妥当な値にするなり、検査体制をさらに厳しくし、そしてエネルギー政策の誤りをただちに議論して見直していれば・・・ 日本は大災害を起こしたにかかわらず、むしろその逆境を逆手にとって従来のクリーンで正確だというイメージを持てたかもしれない。

 だが現実はその逆ばかりであり、おそらく外国からみればクレージーとしか思われてないだろう。おかげで日本からの輸出品に対する信用は地に落ちたし、政治のみならず日本は本当に先進国なのか? という疑いすら持たれているだろう。同時に傷ついたのは日本のモノづくりのプライドだ。

 鎖国でもするつもりならば、意味あるかもしれないが、海外との貿易で成り立っているこの国で、いつまでもバカなことをするのは止めろ。誤魔化しに使う労力やエネルギーを現状の問題解決に使え。国が滅べば省益も何も残りはしない。


<参考>
・入札公告「平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)」
 上記入札の仕様書

・資源エネルギー庁: ツイッター・ブログなどにおける言論監視事業を入札公告 #genpatsu #seiji

・政府によるブログ、ツイッター監視仕様書 

・エネルギー庁の一般競争(総合評価方式)の契約実績(H22/4)

・放射能で広がる異変~子どもたちに何が起きているか

2011年7月8日金曜日

嘘で塗り固められた世界

 始めについた小さな嘘を誤魔化すために、結果として嘘をつきつ続ける事になる。誰しも子供の時に体験した事があるだろう。しかし、それが今は日本国という単位で行われている。最近驚いたニュースに、農林水産省が放射能汚染された汚泥を肥料として使用するという記事があった。度重なる日本政府のクレージーな対応には、あきらめつつも、慣れつつあった私も、さすがにこの記事は驚いた。

 汚泥を処理するとしても堆肥は最悪の手段である。そんな事をすれば程度の差はあれ、日本じゅうの耕作地が放射能汚染されてゆくことは確かだ。そして一度やってしまえば、元に戻すことはできない。これはあたかも、意図的に日本じゅうを等しく放射能汚染させたいかのような行為だ。何故こんな事をしたいのか理解できなかった。

 だが色々と考えているうちに、なんとなく解ってきた。別に彼らとて等しく放射能汚染をばらまきたいわけではなく、これは最初についた嘘の続きなのだろう。その最初についた嘘というのが「放射能汚染はたいしたことない。原子力は推進できる」というものだ。

 政府も官僚も、3.11以降の放射能汚染をひたすら過小評価しつづけ、本格的な対策はほとんど行わなかった。彼らは福島の被災地で進む高濃度の汚染を無視した。住民を避難させなかった。食品の放射能汚染汚染規制を大幅に引きあげた。被災地の汚染された廃材を各地にばらまかれるのを放置した。こういった度重なった嘘の続きが今回の堆肥の問題だ。

 しかしさらに驚いたのが「20キロ圏外の避難区域解除、7月半ばに協議 細野原発相」とう記事だ。ずっとこのブログ上でも避難区域をもっと広範囲に広げるべきだと書いてきたし、東京のような関東圏内でも安全ではなくなってきたと書いてきた。それが拡大ではなく、避難区域を縮小するというのは、正気とは思えない指示である。

 おそらくは福島原発事故対策のロードマップの日程に合わせて言い出したのだろうが、原発事故はなんら解決してないし、いまだに危険は続いている。当初ロードマップを立てた前提も違っているし、問題もほとんど解決せず、むしろ状況は徐々に悪くなっている。例えば・・・
  • 炉心状況はメルトダウンどころか、メルトスルーで恐らく地下を汚染継続中、当然空中への放射能漏れも一定量で継続中
  • 冷却循環は作ったものの、メルトスルーした状態では、そもそもどういった効果や意味があるのか疑問
  • 4号機建屋が崩れかけている問題があり、これが崩壊すると再び大規模な放射能散布が起こる恐れがある
  • 福島県内の汚染は広がっており、徐々にチェルノブイリを超える汚染地帯が発覚している
  • 食品汚染の問題あり、汚染廃棄物や、汚泥のような問題も次々と発覚
 はっきり言って状況は良くなっていない。特に4号機建屋の問題があるので、住民を近くへ戻すのは無茶もいいところだ。あいかわらずの、とてつもない人命軽視の判断に驚かされる。

 ただ始めの嘘を付き通すために、メンツだかなんだか解らないものの為に、これらの嘘はまだまだ続けられてゆく。


 ちなみに最近のTwitter上では、管総理が反原発に舵をきったと擁護する意見と、管総理に騙されているのだという意見に両極に分かれつつある。政治の世界は、ずっと前からまともな理屈で動いていないが、この点について私はこう考えている。

「もしも、管総理が現在の放射能汚染の被害状況を正しく認識しなおすのならば、それを評価する。それ以外はおそらく政治駆け引きだけの問題なので、状況しだいではどちらへも転ぶだろう」

 現状を正しく認識しない者には、永久に正しい解は得られない。今起こっている被害を理解しなければ、これらは失われた10年どころか、100年以上だって失われてゆくだろう。エネルギーだの、経済だの、反原発/反・反原発、・・・etc、まず必要で、そして出来ていないのは、正しい現状認識である。どれほど時間がかかろうが、まずはそこから始めないといけない。

 そして私が見る限り、この国では、まだ正しく現状を認識できていない。特に政治家や官僚達は、現実を見るのを恐れて、言葉と机上で戯れているだけだ。


<参考>
・放射線汚泥肥料 人体への影響を専門家が警告

・放射能汚泥を肥料として流通させないための動きもはじまっています。

・20キロ圏外の避難区域解除、7月半ばに協議 細野原発相