2017年6月13日火曜日

現実感を失った日常 ~極右化が描くパラレルワールド~

 私は元々漫画好きだが最近はなんだか疲れて読む作品が限られてきた。同様の事を漫画だけではなく、小説や音楽、さらには映画などについても感じるようになった。特に漫画は最も力(精神力)を使わずに気楽に楽しめていたし、広く読み親しんできたのに、それすらも疲れると感じるというのでは末期的だ。

 ちなみに私はかなり偏食するタイプで、音楽でも映画でも小説でも人間でも好き嫌いが激しく、ジャンルそのものは広いのだが実際に手に取る作品はかなり限られる。例えば音楽ならばパンクミュージック~テクノ~民族音楽~クラシックとわりとなんでもありなのだけど、実際に手を取るのはかなり限られる。例えばクラシックはサティ大好きでドビッシーやモーツアルトは肌に合わなくて聞かないといったぐあいだ。

 だが偏食家といっても、不思議なものでその時の体(あるいは精神)が必要とするものは本能的にわかるのか、半年まえはホルスト(クラシック曲Jupiter大好き)のような普段聞かない音楽が大好きになる事もある。なので実際は偏食というよりは、無意識的に自分に必要な栄養は解って受け入れているのかもしれない。
 なので好きな作品に出会えるとまだ自分の感性が完全に死んだわけではないのだと少し安心する。最近では映画「この世界の片隅に」、書籍「ヒルビリーエレジー/J・D・ヴァンス 」「学生との対話/小林秀雄」、漫画なら「宝石の国/市川春子」なんかがそうだ。


 少し長い前ふりだったが、ここまで私の偏食家ぶりを述べてきた理由は、偏食は私自身の問題ではなく世の中の方が相応に歪んできた影響ではないかと、ふと思ったからだ。
 もちろん私は自身を偏食家だと自覚している、例えば本屋で立ち並ぶ本の山を見ながら読みたい本がない事にため息をついたり、大量の音楽があるなかで何一つ心がときめかないのはは、だいたいにおいて自身が疲れているせいだと思っていた。鬱とまではいかなくても、人は心が疲れているとそういったものを受け入れたり楽しめないようになる。なので私も働きすぎとかの理由で心に余裕がなくなって娯楽を十分に楽しめなくなっているだけだと長く思っていた。

 だがここ2,3年の漫画やアニメの世界では、偏った同じような設定の作品が並んだり、同時に過剰な暴力や残虐行為をテーマにした作品が明らかに増えたように思う。私は表現規制反対派の人間なのでそういったテーマその物は否定しないが、あまりにも偏った作品が増えた背景としては社会そのものの歪みが背景にあるように思う。例えば、

・アニメの美少女キャラのさらに低年齢化
 なかでも「幼女戦記」というタイトルの作品は驚いた。そんなタイトルは無いだろうと初めてみた時は心のなかでツッコミをいれた。この作品は中身はまったく知らないが(見たら面白のかもしれないけど)、それでも私はわざわざ「幼女」とタイトルに付けるところは違和感を感じる。タイトルそのものではなく、「幼女」というロリタイトルをあえてつけないとヒットしないとか、何の躊躇もない人達の考えが正直言って気持ち悪い。

・新作漫画での残虐化表現の多さ
 日常的によく目にする漫画で残虐テーマを扱ったものがあきらかに増えた。さらには残虐さを競って読者を増やそうとしているような作品が増えたように思う。私はこういった作品も別に否定はしない、だが明らかに増えすぎて世の中どうなったんだと思う事がある。これを実感したのは最近のマンガボックスに連載されている漫画のタイトルだけを見ても、「皆様の玩具」「イジメの時間」「異常者の愛」とか・・・内容は詳しく見てないが拷問や虐待をテーマにする作品が徐々に増えてきた。


 特に残虐な作品が増えた事については、単なる偶然ではない社会の歪みを感じた。それはなぜかと言えば、そもそも「残酷なテーマを扱った作品に人が惹かれる理由」それは日常生活における現実感の欠如が原因だからだと思うからだ。

 今でこそ私は疲れるので残酷描写があるような作品はなるべく見ないようにしている。だがかなり前の若かった時はそういう作品をあえて探し出して見ていた時代があった。例えば有名なカルト映画「エル・トポ」「ソドムの市」「悪魔のいけにえ」や、漫画「少女椿/丸尾末広」などだ。
(実は「エル・トポ」は今でも見れそうな気がするが、他の作品は見る気がおきない)

 当時の私は小説家になりたいと思っていて、その為に人間の極限(リアル)を知ろうとあえてカルト的な作品を探しては目にしていた。だが同時に今になって思えば、生きているという生の実感を得ようと見ていたのではないかという気がする。
 残酷な作品、過激な作品、見ていて思わず気分が悪くなったり恐怖したり痛みを感じるような作品というのは、単なる毒薬にしか思えないかもしれないが、実は生きている実感が持てずに苦しむ人間にとっては必要なスパイスとなる。

 誰でも多少は似たような思いを感じた経験があるのではないだろうか。心が沈んで何もする気が起きない、何を食べても美味しくない、映画や音楽を観ても心が動かずに虚無感に沈んだような気分を。
 そしてその虚無に捕らわれて苦しむ人の一部が自傷やリストカットによる自殺を繰り返す者なのだろう。彼らは虚無という生きている実感を得られずに苦悩し、なんとか生きている事を確かめようと自分の肉体を傷つける。そして痛みや流れる血の鮮やかさを見る事でやっと自分がいるのが現実だと理解する。
 それは痛々しいが彼らにとっては痛みで正気を取り戻して自滅を回避する重要な行為である。でなければ現実感を失ったままでは本当に自分を殺してしまう危険があるからだ

 生きている実感(現実を理解できない)という問題は、人によっては色々な行為になって発現する。傷つける対象が他者になれば「秋葉原通り魔事件(2008年)」のような事件へとつながる。犯人の加藤は周りの世界から拒絶されたという絶望感に対して誰かを傷つける事で抗った。彼が名前も知らない人間を無差別に殺傷したのは、彼の敵は名前を持った特定の個人ではなく、周りにいる世界全てだったからだ。

 あるいはSM(サディズム・マゾヒズム)も方向性は違うが同じ原因から派生したと考えられる。サディズムは隷属する相手を見つけることで自身の尊厳回復(生の実感)を得ようとしおり、マゾヒズムは隷属する物(非人間)と化すことで生の重さから逃げようとする、もしくは役割を与えられる事で回復しようとする試みだと解釈できる。

 自殺する行為、殺す行為、隷属させたり傷つけたりという行為は、別に今に始まったわけではなく人の歴史としては普遍的なものだったのだろう。

 だが私の実感としては日本ではそれが明らかに加速しているような気がする。つまり日常に根差した生の実感を失って虚無に漂う人間が増えているのではないかという懸念だ。現在(2017/6/13時点)国会では共謀罪が採決されるかどうかの瀬戸際にある。これは一つの象徴だ。ここ数年の日本の極右化、ヘイトスピーチや沖縄で行われている人権抑圧、政治の私物化から、ブラック企業による搾取などの各種で増えたネガティブな事案。

 私は長らく極右化する人の考えが理解できなかったが、これらの原因も突き詰めれば生の実感を得られず、虚構と現実とに分かれた人間が辿り着いた一つの結果なのではないかと思えてきた。極右が描く世界感は現実離れしたものだが、例えばSF小説のように2つの平行世界がパラレルワールドとしてあると考えれば想像はできる。

 現実を冷静に見れば、はっきり言って日本は衰退するのみである。だがそれは盛者必衰が世の常なので必ずしも悲観する事では無い。だが、極右が想像で暮らす平行世界はそれをことごとく否定して成り立つ。
・アメリカの傀儡国家ではなく、独立して平和を先導してきたという世界
・バブル期のような経済力や豊かさが続いているかのような世界
・あたかも原発事故が無かったような世界
・技術と誠実さで各国から信頼されている世界
・安全で誰もが豊かに安心して暮らせる世界

 なかでも極め付けが、第二次世界大戦での歴史修正主義で慰安婦は無かった、南京虐殺もなかった・・・という世界だが、もうそろそろ日本は第二次大戦で実は負けていないと言い出す者が出てきそうだ。

 彼らは平行世界の夢にしがみつき、現実を告げて夢を覚まそうとする者をことごとく攻撃してきた。だがいくらしがみ付いても夢は夢でしかない。強引に現実を歪めて夢の続きを見ようとすれば、それは非現実的でグロテスクな悪夢へと変貌してゆくのだろう。

 私は現在(2017/06)の共謀罪が国会を通過するかどうかというのはそのグロテスクな悪夢が現実を塗り替えるかどうかの大きなターニングポイントだと思っている。この壁を超えれば悪夢が日本を覆うのを止められるものは実質無くなるだろう。そしてあたかも太平洋戦争前のような中世まがいの暗い時代の再現となる。

 そうならない事を祈って、ここにとりとめない連想を記載しておく。

2017年4月30日日曜日

遺言 2017「人生を持て余すということ」

 タイトルの「遺言」というのはたいして深い意味があるわけではなく、まとまった文章を書く気力がないので、愚痴とも雑談ともつかないものを、ただダラダラと書いてみようと思いました。そんな記事です。


「人生を持て余すということ」

 これは前回のブログ「芸術と救済」に自分自身の人生と時間を持て余していると書いたことの続きです。

 ちなみになぜ人生を持て余しているかの理由はわかってます。それはアドラー的に言えば重要な3つのタスクからずっと逃げ回ってきた事の必然的な結果であり、その事を少し語りたいと思います。

 かつて心理学者のアドラーは誰もが避けられない重要なタスクとして「愛」「交友」「仕事」の3つがあると言いましたが、それを私の言葉で言うと・・・次のようになります。
 「愛」 は人生を共にするパートナーを見つけること。
 「仕事」は社会での役割をみつけて生活をすること。
 「交友」は友人や自分が生活するコミュニティを得ること。

 そしてアドラーは誰もがこの重要な人生のテーマからは避けることができず、何らかの形で取り組まなければならないとしました。このシンプルな指摘は重要でおそらく正しいと思っています。私もアドラーに関する本を読んだことがあってアドラーの実際的でリアルな考え方は共感する者の一人ですが、
 いざ自分の人生を振り返ってみれば、私自身はずっとこの3つのタスクからひたすら逃げ回るような人生ばかりをおくってきたように思います。

 どんな感じかというと、「愛」人間関係を構築するのを面倒がって結局は一人。「仕事」も食うには困らない程度にはやってこれたが定期的に転職(何度もリセット)してきた。「交友」でも新たな関係を積極的に自分から構築しようとした事がほぼないので、ものすごく付き合いが狭い。
 
 これは別に深い意図や明確なポリシーあったからではなくて、なんとなく人間会計が苦手で面倒だという理由で、深い付き合いをする前にいろんな物をリセットしてきた結果です。なのであたかも社会には存在しているが、結果的には半分「隠者」のような暮らしを続けてきました。
 例えば付き合いが面倒なので「ゴルフ」はやらないとか決めて避けたし、性格的に興味ないことに付き合ったり調子合わせたりできないので、悪意や敵意もないのだけど結果的に色々と避けてばかりいたような気がします。

 そして、そうやって過ごしてきた人生がどこにたどり着いたかと言えば、

 「ホーム(自分の居場所)がいまだ見つからない」

 それが現在の私自身です。

 ホームが無いというのは精神的なもので、もちろん物理的に居場所がないわけではないです。なお今の所は食うに困っているわけではありません。でも私には帰りたい故郷とよべるものも無ければ、また思い出して浸りたいような過去もありません。どこにも属していないので帰る場所も思い出に浸るような時代もない。ただ今の時間しか存在せず、歴史や社会とは切り離されているものです。

 なので言い換えれば私はおそらくもっとも過去をもたず、影の薄い人間だという事になるのでしょう。
(他人が私をどれだけ記憶にとどめているかは解らないのだけれども)

 だから私には「愛」というものが基本的には無いのだと思う。親族や友人もいるが亡くなったとして涙を流すかどうか解らない。それにこの社会(日本)が滅んでも悲しいとは思わないかもしれない。だからといって反社会的でもない。べつに憎しみや恨みもないのだから。
 愛がないというのはこういうものなのだろう。例えば日本の状況は最悪だが、デモに参加して正すために運動するよりは、むしろ黙って海外へ移住したいと気持ち的には思う。だからデモや政治的な活動をする人は私は概ね尊敬に近い気持ちをもっている、だって彼らには少なくとも「愛」があるのだから。(例え歪んだ形であったとしてもね)私には到底無理だ。

 最後に、こんな人生が良いか悪いかは解らない。

 ただきっと「つまらない人生」だったのだろうと思う。

 なので私のような生き方は誰にもオススメはしません。


<余談>
 「つまらない人生」だったとは思うが、もしもやり直したいかと問われたら、きっと私は「もう人間は二度とごめんでやり直したくない」と答えると思う。
 私自身は来世はいらない。輪廻転成や天国もいらないと思っている。なので時折、なぜに人は来世を望むのだろうかと考えることがある。私の考え方は変なのかな・・・よく解らないがまあいいか。

2017年4月16日日曜日

芸術と救済

 「芸術と救済」というタイトルは仰々しいが、今回語るのはあくまでも私の個人的な経験に基づく経験や考えだ。私はここ数年ずっと創作(しかも作曲)に拘ってきた。そこに至る経緯と思いを節目として吐き出して置こうと思いこの記事を書いている。


 私がニコニコ動画とSoundCloudに投稿したオリジナル(14曲)、カバー(2曲)である。これらはここ3年ほどの間に投稿を続けてきたものだが、実際にはこれらの曲のほとんどは20年以上も前に作曲したものであり、実際に公開される間には長い年月が経過している。ゆえにこれらは新曲でありながら古くもあり、時代をへて考え方や生活もだいぶ変わったはずの「私」が作ったという少し奇妙な経緯を辿っている。


 20数年以上も前、私はローランドのD20という簡単なシーケンス機能付きのオールインワンタイプのシンセサイザーをつかってとにかく曲を作ろうと四苦八苦していた。そのころ私はフリーターで、自分に何ができるのか何をすればいいのかよくわからず、とにかく何か作品(創作)をやろうとやたらにいろんな事に手を出していた。漫画を描こうとしたり、小説や詩の記述、さらには作曲といったぐあいだ。

 ちなみに漫画は一作試しに書こうとしたが作画作業はとても地道で時間がかかり、また自作のあまりにもつまらなさにすぐ挫折した。小説は試しにいくつか短編と中編を書いたが投稿では引っかからず、ネットで少し公開したがあまりパットしなかった。だが音楽はなかなかうまくいかないにも関わらず中では一番時間をかけて続けていた。
 なぜに作曲にこだわったかというと、私は不器用で演奏がまったくうまくならず、また人混みが苦手でライブしたいという気もあまりなかったので、機械演奏を前提にとにかく新しい曲を音楽を作ろうと思いついたフレーズを片っ端からうちこんでいた。
 当時は友人とバンドを組んでいたのもあり、いくつかは友人の力で楽曲を完成させたものもある。だが大半は完成に至らなかった。大量に打ち込んだフレーズ、あるいは書きかけの歌詞はテープの中に保存されたが、いずれも片隅に追いやられていった。そしていつしか私も会社勤めをするようになったあたりから時間に終われるようになり、創作活動から遠ざかっていった。


 それから約20年が過ぎた。創作を辞めてからの間、それでも私はやはりいつかもう一度創作をする事を夢見るようになっていた。創作などしなくても日常で何も困らない。いまさらプロになって稼ぐというのも現実的ではない。では、どうして創作をもう一度やろうと思うようになったのか?
 その理由は「私が自分の人生を持て余していた」からだ。創作をしなくなって長い。だが創作をしない(しなくて良い)と決めたところで、結局のところ私は他に何をすればいいのかわからなかった。空いた時間、空いた目標をに何を埋めていいか解らず、結局のところは自分の人生をどう生きていいのか解らずに持て余して過ごしていたからだ。

 ちなみに私は過去にブログで書いたこともあるが、どちらかというと社会不適合者である。現在の時代に若い私がいたら必ずアスペルガーか何かの診断をされたことだろう。だが幸いなことに仕事は普通にできるのでいちおうは社会に溶け込んでは暮らせている。
 だがそれでも正直に言わせてもらえば、私にとっての社会は窮屈で退屈なだけの場所だった。長年生きていると学習するので他の人間の事も少しずつ理解できてくる。何が伝わって何が伝わらなかも解ってくる。でも私が誰からも理解されない、理解されない私の姿が残っていることには変わりはない。なので私は常にどこかで人間のフリをして過ごしているような居心地の悪さを感じていた。どうにかやってはいけている、だが世間とはどこかしっくりこず、正直に言うと生きる事が面倒でしょうがなかった。
 そんな私だからだろう。人生がつまらない、安住できる(私が理解されるような)居場所もない。何か人生の目標やテーマがどうしても必要だった。そしていつかもう一度創作を始める日々を夢見るようになった。いつか物語を書こう、新しい曲を作ろうと。だがそれを実際に始めるには長い年月ときっかけが必要だった。


 私がもう一度創作(楽曲)に取り組もうと思い腰をあげたのは、実は3.11大震災・原発災害が起きた事に影響されている。私にとっての3.11は何度かブログにも書いたが、それは平和な日常の終わりであり、リアルに自分が死ぬ、または滅んで逝く者である事を実感する体験となった。だからこそ、人生は有限であり、創作をするならば今やらねばできないと思い立つようになった。
 ではなぜ特に音楽に拘ったかというと、ずっと昔作ったフレーズの残片が20年以上たってもいまだに頭の中に残っていた。未完の作品たち、それらはあたかも亡霊のようだ。頭の片隅で常に微かな囁きを続ける。ゆえにいつしか私は、自分が救済される為にはこの頭に残った亡霊を一つ一つ供養するしかないのではないかと思うようになった。
 またボカロという存在も大きい。楽曲に歌(声)を入れるということが一人でコンピュータさえあれば可能になった。これは私にとってはワクワクすることで、自分の曲は初めて声として聞けるというのは考えるだけでたまらない魅力だった。なのでDTMまったく解ってないのにとにかくソフトを買い集めて作曲に打ち込んだ。
 しかし実際に本気でやって初めてわかったのは作曲とはものすごく奥が深くて難しい。特にアレンジは巨大な学問そのものである。膨大な音楽知識、楽典、楽器、音響、加えてソフトの操作やテクニックなどまであり気が遠くなるような思いだった。
 だが私はそれでも執念で取り組んだ。それは今度こそ本当に救われたい。頭の中の亡霊を一つ一つ供養することで初めて自分も解放(それは死かもしれない)にたどり着けるのではないかと考えたからだ。そして現在公開している16曲ができた。

 まだいくつか作りかけの曲がある、それに新たに作りたい曲やカバーしたい曲もある。時間ができればいずれそれにも取り組みたい。だがどうしても公開したいと願っていた曲はだいたい出来上がった。結果的にあまり再生伸びなかったし評価もされなかったが、それでも私にとっては多くの亡霊を供養できてかなり楽になった。

 ちなみに自作曲は自分ではよく聞いている。自分で作ったからなのか不思議と心が休まる気がする。そういう意味では自身の救いには役立っている気がする。このブログもいったん言葉にしてしまった事で安心する解放される事につながっているように思う。芸術には祈りや告解のような解放のような側面もあるのではないだろうか。時には創作(産む)というのはとても苦しい作業だ。だがそれでも祈りに近いその行為は、行為そのもには救いや解放の側面もある気がする。

<作品リンク>
SoundCloud

ニコニコ動画

<曲名リスト>
・【GUMI】もしも世界が【オリジナル】
・【GUMI】天使になろう【オリジナル】
・【初音ミク】存在しない僕らのイタミ【オリジナル】
・【GUMI】憂鬱の卵【オリジナル】
・【初音ミク】忘却のワルツ【オリジナル】
・【初音ミク】散歩 ~夏の終わり~【オリジナル】
・【GUMI】不思議の湖【オリジナル】
・【GUMI】Beutifull is Power【オリジナル】
・【GUMI】追憶【オリジナル】
・【初音ミク】桜舞い ~陽炎の中で~ 【オリジナル】
・【GUMI×MIKU】アジア黄河【オリジナル】
・【初音ミク】雨上がりの夕暮れ【オリジナル】
・【GUMI】何かが起こる!?【オリジナル】
・【GUMI】忘れ去られた死について【オリジナル】
・【MIKU】バッハ メヌエット ト長調<ロックアレンジ>【カバー】
・【GUMI】天には栄え(クリスマスソング)【ロック風カバー】

2017年1月21日土曜日

もしも世界がシム(シュミレーション)ならば

 しばらく前に「もしも世界が」という曲を作った。これはガラにもないメッセージソングのような曲だ。だが曲を作ってもまだモヤモヤして言い切れてない物が残っている気がする。なので余談的なものも含めて「もしも世界がシムならば」(原案の詩)というテーマで言いたかった事を少し書いてみようと思う。

 「もしも世界がシム(シュミレーション)ならば」というのは、もしもシムシティ(ゲーム)のように自分が神の目線に立ってこの世界を運営してる立場からみたら、今の世界はいったいどのように思うだろうという意味だ。
 もともと私はそう言った事を想像するのが好きなほうなのだけど、3.11そしてそれ以降にいろんな出来事を見てから、それらは単なる空想ゲームではなく、真面目にそう言った視点でいろんな物事を考え直すべき時期にきたのではないかと思うようになった。

 そう思う一つの理由が、あまりにも現在の政治家や経済人が目先の事柄だけを考えて問題を先送りしたり放置したりしすぎると感じるからだ。日本は特に酷くてオリンピックや海外にばら撒く金は惜しまないのに、その100分の1程度ですむ福祉や教育支援にすら金を渋るという意味不明なことばかりをやっている。そしてそんあ馬鹿げた事にたいしてすらも真っ向から否定しないマスメディアもしかり。おかげで今となっては日本の政治はあまりにも適当で乱暴で、あたかも思いつきで適当なことばかりやるようになった。
 それらは色んな原因があると思うが、ひとつには考え方の硬直、そして今の現実(目先)に適応する事に集中しすぎて、かえって問題を放置しすぎているような事が多いせいだと思う。でもそれは本当は危ういことで、昔から有名な生物学のセリフで「適応しすぎた種は滅ぶ」というのを思い出す。

 これは考え方の問題だけなのだけど、例として「ホリエモン」のエピソードをあげたいと思う。過去に「堀江貴文が保育士資格廃止・自由競争化を提案して賛否両論が巻き荒れる」というような話題があった。内容は民家の保育サービスが保育士の待遇が改善されない為に立ち行かなくなっている問題に対して、ホリエモンが自由化すればいいと発言して色々と反論が多かったという話題だ。
 最近こう言ったなんでもかんでも自由化すれば良いという物言いが多い、ホリエモンもそのひとつである。確かにそれも一つの解だ。だが自由化して貧乏な為にサービスを受けられない人が多く発生したらどうなるのだろうか? ホリエモンに代表されるような新自由主義はたいてい、それは自己責任だという。それは何を意味するのかと言うと、ようするにホリエモンに代表される考え方は「この世界に適応するのが賢い人間」で、かつ経済的なプラスかマイナスかだけであらゆる物事を評価しようする事だ。

 だがホリエモン的な考え方について、なんかうまく反論できないけどモヤモヤと「なんか違うのじゃないかな?」と思う人もいるのではなないだろうか? 私もその一人である。私はホリエモンの考え方はある意味で合理的で間違ってないとはおもうが、それでも考え方には賛同できない。それは問題があった場合にどう答えを模索するかの違いである。
1)「この世界(ゲーム)のルールに従って勝つ」       (自分だけが適応できれば良い)
2)「この世界(ゲーム)のルールに問題があるなら改変すべき」(自分だけではなくもっと快適なように改変すべき)

 ちなみにホリエモンは本当に解りやすい1)の人だ。確かにそれは事実として間違ってない、でも誰もがそうするだけではこの世は住みにくいし息苦しくなる一方だ。ならば理不尽なルールの方を正してちょっとでもよくしようと言うのが2)の思考である。

 この2つの思考のどちらを選ぶかは日常、例えば仕事なんかをしていてもわりとよく遭遇する。例えば仕事上での問題があった時に、とりあえず自分の目先だけを解決するか、あるいは他にも困っている奴がいるかを探して(だいたい同様の問題に悩んでいる者が一人はいるはず)共同で対処して解決する方を選ぶかと言う場面は度々ある。そして私は可能ならは共同で解決したい方なので、どうせ手間暇がいるならば2)の考えに従って世界を少しでもマシにする方を選ぶ。
(仮にホリエモン的な考え方をするならば、協力するより相手を出し抜けと言うかもしれない)
 
 だがこう言った話をすると、同時に決まって現実主義者を名乗る者が現れて「理想なぞを述べるのは甘いんじゃないか、世の中はもっと厳しいんだ」的な事を言い出す。私もさんざんそんな連中と付き合ってきた。でもそう言った事も結局は物の見方ひとつだけだと思う。
・叶わない理想を考えるのはエネルギーの浪費だ、だから最初から考えない方がいい
・理想を考えないのは闇雲に猪突猛進しているだけでそれこそ合理的でない、単なる想像力の欠如だ

 もともと人は自由に考えていいのだから、上記のどの考えを自分が選ぶかは勝手だ。でも近年の多くの問題を考えると、特に日本の政治なんかでは目先のことばかりを考えてダメになる事があまりにも多すぎる気がする。パイの取り合い四苦八苦して騙し騙されやるよりも、むしろ新しいパイでも作るとか、うまく分けるルールを作って無駄な争いなくす方がはるかに合理的だと思う。それに、そういう考え方は本来特殊なものでもなく、もうちょっとお互いが相手の顔を見て話すようにすれば本当は普通で身近なものだと思う。

 なので私は「もしも世界がシム(シュミレーション)ならば」、あるいは「もしもゼロからルールを再構築可能だとしたら」と考える事は、行き詰まった時にやってみる価値のある「思考実験」だと思っている。たまにはそうしないと、何が本当の問題かがよくわからなくなる。


 ちなみにこのような事を考えながら、グローバル化や新自由主義の問題を考えつつ、はたしてどういうモデルが良いのだろうかというのが最近よく頭に浮かぶテーマだ。私的には安定した世界をモデル化するには今の過剰に最適化されつつある世界より、むしろ多少は冗長性を保ったままで緩い壁のある「半自給自足型の都市や社会」を設計するしかないのではないかと思っている。暇があったらいずれはこのテーマも書いてみたいと思う。

<参考>
もしも世界がシムならば(詩)
もしも世界が(曲)
【炎上】堀江貴文が保育士資格廃止・自由競争化を提案して賛否両論が巻き荒れる結果に腹BLACK 2016年5月29日
「贈与経済」論(再録)

2017年1月3日火曜日

未来予測2017 ~歪みが深まる時代~

<はじめに>
 今年で5年目となる毎年恒例の未来予測を書く。なお2016年を振り返ると、本当の意味でのカタストロフ(大戦クラスの世界的な問題)は起らなかったものの、かなり一種触発で危ういタイミングはあったような気がする。アメリカとロシアの関係、およびイスラエルと周辺国の関係など、紛争の域をハミ出しかねない場面も私的にはあったように思う。
 ただし2016年予測に書いたような大きな事が起こる(又はその兆し)になるほどの事はまだ起こっておらず、ただ世界の歪みだけが弓を引き絞るようにさらく強くなっているように感じる。


<世界の行方 〜シリア内戦より〜>
 シリア内戦だが2016にはまったく収束する気配はなかった。2017年のポイントはトランプ大統領がどのように行動するかだろう。トランプ大統領はロシアよりをアピールしているために、あるいはアサド支援にまわって流れは変わるかもしれない。
 だが私は2016年予想に書いたように紛争あるいは形を変えた争いは終わらないと思う。

 正直いって私はこれらの争いが何の争いなのかが分からなくなってきた。言い換えるとこれから何の争いになるかが不確定だという状態だ。例えば今起こっていることは、いったい次のどの文脈で説明できるのだろうか?
・シリアのアサド体制に対する戦い
・イスラム教徒の宗派対立
・アラブ周辺国の権力闘争
・ロシアとアメリカの対立
・イスラム文化圏と西洋(キリスト)文化圏の戦い
・イスラム思想と資本主義的な世界観の戦い

 この争いの本質がこれからいったいどれに集約されてゆくのか、それによって争いの広がり方や内容も違うだろう。
だがむしろ私は「そもそも何の争いかが解らないままに」世界へと紛争が拡散されていくのではないかと思っている。規模は不明だがいままでノーマークだった場所へ思わぬ形で争いが飛び火するかもしれない。

 重要なのはこれらの争いに大してどのような発想をもって解決を探ろうとするかだが・・・それが結果的には過去に書いた「未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~」の方向性を定めると思う。私は何か根元的に発想を変えないと、もはや文明的な争いに発展しかねないこの問題は収束できないと思う。 

 発想を変えるというのは小細工のレベルではなく、例えば過去に書いた記事「新しいパートナー(人口知能による政治参加)」ぐらい(これはあくまでも例だけど)大胆な発想転換をするべきではないかと思う。


<日本の未来>
 2016年、私は日本という国が死んだように思えた年だった。それは夏の参議院選挙で与党の圧勝する姿をみた時に感じた思いである。

 これは本来はあってはいけない出来事だった。与党側はそれまでに数々の不祥事や失策、民意を無視した政策、将来性の無い無謀な政策などを次々に実施し、民意だけではなく法制度そのものも毀損してきた。だがその法律を守らないゴロツキまがいの連中が何事もなかったかのように選挙で再び選ばれたのだ。これはいくらメディアがヨイショ記事を書き続けたからといっても本来はあり得ない結果である。まさに末世であり「狂人が盲人の手を引く」という図式を完成させてしまった。

 与党政府がこれまで一貫してやってきたのは自身と取り巻き連中の延命のみである。落ちぶれた三菱グループを救済する為に兵器産業にのめりこみ、東芝を救済する為に原子力政策をあと押しし、電力会社とその談合的な利権グループの世界を維持する為に全ての電気料金に原発廃炉費用を上乗せすると言いだした。
 採算がとれる見込みのないリニア着工もあえて実施する理由となれば土木利権へのバラマキとしか考えられない。そしてさらにカジノ利権という新たなものまで生み出した。逆に福祉や教育にかかる費用はとことん削られた。

 想像してみよう。仮に国家を人体のモデルとして例えたら経済活動は血液の流れに相当する。血液のようにお金が末端まで行きわたることでしか健康を維持できない。
 だが現在まで与党がやってきた政策は頭や肥大したガン細胞化した部分にのみ血液を集め、手足への血液循環を怠っているような事を突き進めている。だが頭やガン細胞だけで生命が生きられるわけではない。やせ衰えた手足は放っておけば壊死するし最終的には生命活動そのものが危うくなるだろう。
 つまりは彼らは国家を管理する立場にありながら、とっくにその役割を放棄しているのである。

 漠然とした私が想像する未来の日本のイメージは、実質的に世界(外資的なもの)に身売りをして細々と人が生きる姿だ。延命していた産業もいつかは滅び(外資に買い取られるとか)代わりの産業を育てる事はできず、人材育成も教育や貧困のせいで劣化を続けて、安い単価で酷使される人だけが大量に存在するような社会である。

 あるいはこの島国(場所)には外資が投資するだけの価値すら存在せず、日本人は過去のツケとしてもくもくと必要性のなくなった原子炉を運営、あるいは解体するだけの作業をする人たちだけが暮らすような寂れた場所になるかもしれない。

 上記に書いたのはあくまでも私の妄想である。だが2016年夏の参議院選挙で与党が圧勝し、もうだれも止められない状況になった今、だれもその悪夢のシナリオを止められないのではないかと思っている。


<参考リンク>
未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~

未来予測2015 ~不安定化する世界~

未来予測2014 ~安倍政権という方向性~

未来予測2013 ~私的予言録~

新しいパートナー(人口知能の政治参加)



2016年10月16日日曜日

「妖(あやかし)」の思考、「人間」の思考

 最近ふと「夏目友人帳」を見ていてなんとなく納得した事があるのでブログを書くことにした。テーマは「妖(あやかし)の思考」で、つまりは人間以外、あるいは普段とは異なる思考方法について考えを述べたいと思う。

 少し補足すると「夏目友人帳」は日本で人気のある妖(妖怪とか物の怪など)をテーマにした漫画で、妖を見る力を持っている主人公の高校生が色んなトラブルや不思議な体験をする話である。
 ちなみに私はグロい話は好きではないけど「百鬼夜行抄/今市子」とか、あるいは神話をテーマにしたような話はわりと好きである。こういった物語はイマジネーションを書きたてるし、異なる文化を持った者との出会いを描いた体験談として読むと楽しいからだ。



 では話を戻すと、夏目友人帳を見ていて私がなるほどと思ったのは「妖って起承転結を求めないんだ」という事である。

 つまり彼ら(妖)は「物事に対して理由を求めない」。何故こんな事がおきたか、どうしてこうなったかと言った経緯や理由を考えるより先に、まず目の前に起きた出来事をそのまま受け入れる。そして理由を細かく詮索したりしようとはしない。おそらくこれは多くの昔話や神話で繰り返されるテーマなのだと思う。

 ここには「なんらかのルール」が存在しており、皆がそれを受け例れて暮らしている。けれどもルールを作ったのか誰か、どんな理由で作られたのかなどは解らない。そして意図がわからぬものであっても「ルール」を破れば何らかの報いを受ける。
 つまり彼ら(妖)は近代人のような論理的な思考をしないのである。私はここまで考えて、むしろ妖の思考は幼児や未開民族に近いのだと思った。



 ここまで書くと、すぐに「妖の思考というのは未熟な知性であって、成熟した現在人より劣るのではないか」というような事を言い出す人が出てくる。だが私はしたいのはそんな話ではなくむしろその逆である。

 私が「夏目友人帳」をみてちょっと感動したのは「彼ら(妖達)の起承転結(理由)が無くても良いのだ」というその自由さと大らかさについてである。そして、同時にいかに現在人は多くの理由(理屈)に縛られているだろうと思った。


 これを説明する為にあえて少しだけ話を飛躍させる。例えば「獣(動物)の思考」という物について考えてみたい。

 妖の思考と言うのはおそらく獣に近い。むしろ逆に獣が言葉を語れたならばきっと妖のような事を言いそうな気がする。

 では動物と人間の思考は何が一番違うのだろうか?

 私はその答えは「時間」だと思っている。地球上では人間だけが明確な時間の概念を持っている。これは一見なんでもないように思えるが、じつはこのちょっとした違いがとてつもなく大きな差異に繋がる。

 なぜならば時間を持つがゆえに、人は過去・現在・未来に自我を分断されている。そして過ぎた事に対する後悔や、まだ見ぬ未来に対して恐怖する。動物は人間ほど明確に過去と未来というような概念を持たない。彼らは常に目の前の現実に対して全力で取り組むのであって、手を抜いて余力を残そうなどとは考えない。そしてそうであるがゆえに後悔という概念も必然的に無いのだと思う。

 ちなみに今回のテーマである「妖」、あるいは神話に登場する神や悪魔というものは、基本的に永遠であって明確に寿命を持っていない。それはおそらく偶然ではなく、時間を持たない(あるいは縛られない)ゆえに、彼らは起承転結に縛られない存在となっているのだと思う。永遠という長い尺度で世界を見る者にとっては、世界は常に移ろいゆくものだからだ。

 私の考えでは人は時間を持つがゆえに論理を組み立てて文明を創り出した。だがその代償として後悔や恐怖に常に捕らわれる存在になった。過去・現在・未来に自我が分断されたがゆえに、より心は窮屈になり喜びも小さくなった。

 なので考えてみて欲しい、誰もが一度は「人間を辞めて動物になりたい」考えた事があるだろう。タカになって思う存分飛びたい、ライオンのごとく自由に平原を力の限り走りたい、クジラのように海の果てまでも泳ぎたい・・と。

 私も度々考えた事がある。もしも人間であるという制約(呪い)を捨てられたらどうなるかとか、獣のように生きられるヒーローにあこがれたりした。なので私は「人間の思考 > 妖(けもの)の思考」というような優劣関係があると考えるのは誤りだと思う。



 人間であるという制約(呪い)は多くの哲学者や宗教家などが取り組んできた永遠のテーマである。下記はあくまでも私見であるが・・・

・かつてキリストは唯一神(天国や地獄)という永遠をベースに人々に隣人愛を説いた。

・クリシュナムルティはその著書の中で分断された自我ではなく完全なる自我(例えば愛そのものに同化する)という境地があると説き、それが恐怖を克服する鍵であると述べた。

・いにしえの武人(伊藤一刀斎とか)が語った無の境地や無拍子という概念は時間という制約を超えて自由になる事を示唆している。


 おそらく多くの人がこの人間という制約(呪い)を超えようと、言葉や分野は違えど色々と語ってきたのだろう。例えばリチャードバックが書くのは、常に主人公(カモメのジョナサンなど)が自分の壁を乗り越える事を目指して足掻くストーリーである。私たちは人間的な思考を続けながらも、いつかは別のステージに上がる事ができるのではないかと夢想を続けている。これこそが人類の普遍的なテーマなのだろう・・・。



 おっと、どんどん話がデカくなって私の手に余るようになってきた。

 最後にだからどうだという話だけど、

 「私もいっそ妖になりたいな・・・」という話である。(だって楽しそうだもの)


<余談:密教戦線サンガース>
 私がよく思いだすヒーロー(獣のような生き方)は、漫画「密教戦線サンガース/笠原倫(1989年)」の主人公(W浅野)である。主人公は普段周囲にどうしようもない不良として腫物のように扱われているが、その行動にはまったく迷いや後悔がなくて本当に素晴らしい。自分自身に対してまったく嘘をつかないし葛藤など基本的にしない。
 そしてレイモンド・チャンドラーみたいなセリフを言うハードボイルドなキャラなのもいい。思ったままに怒るし行動するしだが、シンプルであるがゆえに肝心な時には間違えない。
 もう本当にこの作品は大好きで、マイナーなんだけど何かの拍子に復刻してヒットしたりしないかなと願っている。ちょっと古いけど次のような作品を連想するような渋い漫画なので、興味あれば是非一度読んでみてください。
・往年の日本ハードボイルドドラマ「探偵物語(松田優作)」「俺たちは天使だ(沖雅也)」
・映画「ブルースブラザース」

<参考>
密教戦線サンガース



2016年9月19日月曜日

「チェルノブイリの祈り/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ」を読んで

<はじめに>

 この本はいつか読もうと数か月放置していたが、手に取って読み始めた途端に引き込まれて結局は一気に読み切ってしまった。これはドキュメンタリーである。だが多くの示唆に富んでいる。おそらく読み手によっては様々な解釈が成り立つだろう。
それは優れた読み物の条件だが、同時に安易なレッテルや噂などによってこの本を手に取るのを躊躇ったり素直に受け入れられない人もいるかもしれない。そんな事があってはとても残念である。なので、あまり前例はないのだけれども、今回は少しだけ私がこの本の読み方について話したいと思う。

 もちろん私はしたり顔でこの本の解説をしたい訳ではない、それに色眼鏡を押し付けたい訳でもない。むしろその逆に自由な形で読んで各人なりに感じて欲しいと願っている。だからお願いしたいのは、この本を読んで何を感じたとしても、その想いを大事にして、じっくりと考えて欲しいという事だ。


<本書の読み方>

 私の場合は最初の数ページ読み進めた時に「ああ、これは物語だ」と直感した。そして以後は物語としてこの本を読み進めた。まるで小説でも読むかのように、違った世界の違った昔話、あるいは神話のように、ただただ読み進めた。

 それはおそらくアレクシエーヴィッチの狙いでもあったのだろう。これはドキュメンタリーでありながら一般的な手法である客観的な時間軸や政治家などのキーマン等々の優先を付けるのではなく、ただひたすらにインタビューに出会った人たちの視点での出来事やドラマを語っている。

 ゆえにそこで語られる物語は不思議な生々しさを持つ。まるで知り合いに話を聞くかのような、身近に同じような人がいるかのような印象を受ける。そしてその痛みに圧倒される。

 本書の最初に語られるのは消防士のエピソードで、チェルノブイリ原発事故に対応した消防士が病院で手の打ちようもなく亡くなる過程の理不尽ともいえる不幸や悲しみである。その痛みは歴史学者が語るような、あるいは科学者や政治家が語るような事故とはまったく別ものである。そこに描かれるのは愛する人を目の前で失ってゆく、人間としては当たり前の痛みそのものである。アレクシエーヴィッチが書いたのは歴史ではなく、物語としての個々の声そのものなのだ。

 私は本書を読んで「我々にとってまず第一に重要なのは、悲しむ人に寄り添う事」では無いかと思った。痛みを想像する、あるいは聴く、寄り添う、それ自体は何かを動かす物ではないのかもしれない。だがそういった想像力が無ければ、永久に同じ問題を繰り返してしまうのではないだろうか。

 だがそれは簡単な事では無いのかもしれない。日本には3.11の記憶がある。だがメディアや政府の対応、あるいはネットの声を見て「どうして、傷ついた人に寄り添ってあげようという簡単な事が言えないのか?」と何度も感じた事がある。その他大勢ではなく、各自にはそれぞれの人生や事情がある、それぞれの悲しみや痛みがあるとどうして語れないのだろうと。

 日本は特に弱者に厳しいと感じる。少し前にあった「貧困JK」が良い例だが、困っている人を支えようとするよりむしろ叩こうとする。あたかも困っている人が存在する事が「恥」そのものであるかのように。

 だからこそかもしれない、日本ではいまだに3.11の記憶うまく受け止められていないと感じる。本書ではこれが初めてと思われるような、生々しい悩みや心情が語られている。そのような言葉はまだ日本では語られていないと思われる。

 今でも悩み苦しむ人がいるはずなのに多くの人が問題を受けれられズに混乱しているように感じる。あたかも問題が無かった事にしようと耳をふさぐ人、傷つき裏切られたと感じて怒る人、あるいは悲しみをどこにぶつけて良いか解らず虚無に捕らわれる人など様々だ。なので本書を読んだ際に描かれる被爆者の描写は大げさで誇張だとか、3.11はチェルノブイリとは違うなどと頭から拒否反応を示す人もいるだろう。

 だが私はこれらの全ての人にこの本を手に取って貰いたいと思っている。ゆえに一つの方法として「物語」としてまず読んで欲しいと思っている。これは異なる世界の出来事を扱った物語である。あるいは我々が住む世界とは枝分かれした可能性の未来(パラレルワールド)であるとして観て欲しい。
 そして最後まで読み終えてから、ここで感じた想いをどう扱うかをゆっくりと考えれば良いと思っている。すぐに答えが出なくてもよい、数年でも数十年かかっても良い。おそらくそれがアレクシエーヴィッチが指示したものなのだろう。



<感想>

 読んでみて思いだしたのは、3.11があった時に感じたあの違和感だった。本書でも度々同じような想いを語る人が登場する。
「事故の起こる前と後では世界(あるいは自分)が変わってしまった」と。

 私も時折同じような事を感じる。日本は3.11の前と後では大きく変わってしまった。それは単に福島原発事故の影響ではなく、「福島原発事故」を受け入れる事ができないでいる事で生じる。そして受け入れられていないゆえに日本ではずっと迷走したチグハグな対応が進められている。

 例えば地震が起こる度に原発は大丈夫かと恐れる癖に原発を止められない事、不安すらもメディアでは語る事が出来ない事。
大丈夫だと言いつつ再稼働を進めながらも責任は曖昧で避難計画などの備えが不足などと切りがない。

 これは多くの人がいまだに現実を受け入れられていない事を示しているのだと思う。むしろ多くの人はいまだに何事もなかった世界を演出しようと躍起になっているように見える。そうして現実に存在する人々の痛みを口を塞いでいる。声を挙げる者を恥だと虐げる。

 だがそうすればするほどに、私たちは現実感を失っていき、幻の中で暮らすようになる。まるで生きたまま死んでいるかのように・・・。(あたかもFF10に登場する死者が支配する世界、ザナルカンドのように)

 そうした幻の中の世界、事故から数十年過ぎた世界が、この「チェルノブイリの祈り」という物語だと私は思う。

 そしてこれらはいつか同様の事が訪れるかもしれない未来の一つでもある。