2018年5月6日日曜日

眼に見えないモノの価値

 2018/5/4の報道によると麻生大臣は福田前事務次官のセクハラに関する問題の追及を打ち切ると発表した。その時のセリフが「セクハラ罪っていう罪はない」「殺人とか強(制)わい(せつ)とは違う」だった。
 私はこの発言を聞いた時にどこかこの社会の底が抜けたように感じた。その言葉によって今まで支えてきた柱のような物が崩れるように思えたからだ。だが私が本当にショックだったのはこのニュースの後で昔からの友人に会った時に同じセリフを聞かされたことだった。

 それは友人数人で飲んでいる席の会話だった。その中で福田前事務次官の話題が出た時に私は当然のように辞めて当たり前だという話になると思った。でも結果は違って彼らのほとんどは黙って録音するのはダメだとか、飲んでいる席だったからセクハラで訴えるのは大げさだだの、これは行かせた朝日新聞社側の問題だ・・・みたいになって加害者の責任を強く問うべきとはならなかった。
 私はそれに腹が立って色々と反論した。そもそも福田は他にもセクハラの訴えが多数ある問題人物だ。それに問題はパワハラとセクハラがセットで行われたもので、調査をすればもっと被害者がたくさんいる可能性もある。あのような問題人物を辞めさせるのは当然であって、そもそも政権や社会が被害者を保護せずに加害者の肩を持つのはとても問題があると・・・。だが私の訴えは結果としてその席で話していた誰にも伝わらなかったように思う。
 ちなみにTOKIO山口の話題にもなったが、それも同様でキスぐらいで2000万円の示談金をふんだくるのは酷い、金を貰ったくせにマスコミにタレ込むのは最悪だとか、山口は悪い奴にひっかったんじゃないとまで言い出す始末だ。彼らはずっと長い付き合いをしている友人達だったので正直私はショックを受けた。


 彼らがそんな風にハラスメントの問題で被害者を軽視して加害者側の肩を持つのは、おそらくはテレビやメディアの影響なのだろう。私はここ数年ほとんどテレビを見なくなったのでメディアでどのような論調になっているかは知らない。でもテレビの影響だと差し引いて考えてもこれは何か根本的にモラルの底が抜けたような出来事のように感じる。
 そしてもしも加えるならば視聴者側のリテラシーの問題もあるだろう。いかにメディアが加害者側の肩をもったとしても、すこし自分の頭で考えればおかしな話だなとか分かるような事も多い。
 例えばTOKIO山口の件では慰謝料が2000万円という噂が出回っている。しかしこれもおかしな話だ。そもそも秘密なはずの慰謝料の額が法外な上に、あたかも本物のように噂が伝えられるのも不自然だ。しかも噂では被害者が慰謝料をもらった上で公表して山口を破滅させたような口ぶりになっているがこれはそもそもおかしい。
 私的には示談にしなくてよかったんじゃないと思うがそれは置いとくとして・・・。スキャンダルが表に出て困るのは被害者も同様である。芸能界という排他的な場では公になれば色々と仕事をしにくくなるだろう。干される可能性も高い。なのでどう考えてもこの問題を公表したのは被害者でなく、明らかにマッチポンプをしかけて燃やしている第三者が存在する。ちなみに最初にこれをスクープにしたのはNHKらしい。
 うがった見方をすればこのスキャンダルは政権に利用されたのではないかと思う。よりによってNHKが最初に芸能記事をスクープするなんてどうも奇妙な話だ。(しかもNHKの番組不祥事らしいという)


 話を元に戻そう。普段スキャンダルに興味がない私がめずらしくいくつかコメントしてきたけど、結論として言いたいのは福田・山口の事件は両方とも情状酌量の余地がない問題行為だし、辞任するのも当然だということだ。そのうえでもっとくわしく調査をするべきだ。(他にも泣き寝入りさせられている被害者がいるかもしれないのだから)
 それなのに依然として加害者の肩をもつような雰囲気は無くなっていない。それはメディアやネットに広がっているデマの影響だ。だが私はこれらが単にデマに踊らされたわけではなく、それらの現象が今の日本で何かが大きく損なわれている事を象徴している出来事のように思う。
 私が麻生の発言でショックを受けたのは、それらが「目に見えない心や誇りなんかに価値などない」というメッセージだと受け取ったからだ。麻生に代表される彼らは「目に見えるもの」「測れるもの」「直接触れて確かめられるモノ」以外は存在しない。あるいは存在しても価値がないかのようにように考えている。

 だがこの考えは私には途轍もない人間に対する、そして広大なはずの世界そのものに対する冒涜だと思える。私たち個々の人間というのは世界や歴史といった大きな流れの中ではしょせんは小さな存在である。私たちが感じている目に見えるものや直接触れて確かめられるようなものは、それら広大な世界のほんの僅かでしかない。その僅かしか理解しない者たちが、その外に存在する広大な未知の世界を否定するのは馬鹿げている。
 私が宗教家ではないが、それでもこれらは「人間がその足元にあって土台として世界を構成する未知(神)の存在を否定しようとする」冒涜的な行為のように思える。世界は私たち個人が感知できないところに存在しないわけではない。むしろ私たちが存在するはるかに前から存在していた筈なのだからだ。


 この見えない世界は存在しないという考え方は観念的だといって済ませられるようなものではなく、実際に現実世界で多くの弊害を生み出しいているように私は思う。

 鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。(斎藤緑雨)

 これは鳴き声を出せる鳥には哀れみを感じる事が出来ても、声を出せない魚にはそれを感じる事が出来ないというセリフだ。似たような事が人間で行われている気がする。声を持たないものは存在されないかのように扱われ、声を奪われたものは同時に人間としての資格をも奪われる。

 声を出せない人たちが存在する事に対する想像力を失うならば、この世界はその存在根拠となる厚みを失ってやがて崩壊してゆく。これは人類的なテーマだ。日本でも過去に戦前のように数々の粛清などが行われた時代があった。そしてそれらに対する長い問いへの一つの結果として、人間はだれでもリスペクト(尊厳)されるべきだという考えが生まれた。それが「天賦人権論」であり憲法第11条(基本的人権の享有)にも記されている。

 二、三年前だったか片山さつきが天賦人権説を否定するような発言をして自民党の憲法改正案が話題になったことがある。当時の片山の発言は「義務を果たさない者に権利はない」といった趣旨だったが、これは逆側から言えば義務を果たさない(価値がないとみなした者)には権利を無いと主張しているのと同じである。
 もしもそう主張するのであれば例えば赤ん坊や働けなくなった老人、あるいは障害者などにも人権を与えなくても良いという事に繋がりかねない。(歴史的にみれば過去のヨーロッパには子供の人権がなく、子供が過酷労働をさせられ続ける問題から人権が作られたという経緯がある。片山の発言は人類が少しずつ前進させてきた流れへの
逆行だ)
 それに価値観だって人によっては異なる。それらを等しくリスペクトしようとする意思が必要だ。何が大切かは各自によって異なる。ゆえに自分には理解でくなくても誰かにとって重要な意味がある場合もある。それらの可能性を否定しまったら世界は途端に厚みを失ってしまうだろう。それはおそらく文明を失ってゆくに等しいのではないだろうか。


 私は麻生が象徴しているように今の日本では人間(目に見えない部分)に対するリスペクト(尊敬)が至る所で失われていっているように感じる。特に社会的な弱者は年々隅に追いやられていっているように思う。
 だがリスペクトが存在しない関係においては人間性は存在しえないのではないだろうか。立場を違えど似たような問題は日本の至る所で耳にする。それは外国人実習生の問題であったり、入管の人権を無視した行為だったり、MeTooに象徴されるようなハラスメントであったり。


<余談>
 たまたま見かけた「ひとつの本屋で起きたこと。」という記事があったがここでは現場を無視した本部側の指示によって長年続けている間に築いてきた多くの価値が失われてゆくさまが記されている。これはまさにお互いの間にリスペクトが存在しない為に起きた象徴的な出来事に思える。


<参考リンク>
麻生財務相「セクハラ罪という罪はない、殺人とは違う」

TOKIO山口達也の強制わいせつ なぜNHKが“スクープ”したのか

山口達也の強制わいせつ事件、真相を巡り詳細すぎる報道を続けたフジテレビ

ひとつの本屋で起きたこと。

天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?

2018年5月2日水曜日

あなたは「ダーティでも有能な人物」を支持しますか?

1.はじめに
 久しぶりにブログを書く。直接のきっかけはTwitterで「政治家はクリーンで無能なより、ダーティでも有能な方がまし」というのを見たからだ。だがあえてブログを書こうと思ったのは同じようなセリフをこの前に友人が言っていたのを思い出したからだ。その時はお互いに酔っていてすぐに話題が別のテーマに移ったのでそれ以上特に話をせず私も忘れていた。だが今日また同じようなtweetを見た時にこれは案外根深い問題だと直感した。
 「ダーティでも有能が良い」というのはわりと日本人は考えがちなのではないかと思う。だがそれが原因で今ある色々な社会問題を解決する足枷になっているのではないだろうか。そんなことが気になったので改めて文字にしながらこのテーマを考えて見た。


2.「ダーティで有能」というのはどんなイメージか
 まず「ダーティだが有能な人物」あるいは「クリーンで無能な人物」を具体的にイメージしてみるところから思いを巡らしてみる。私が最初にイメージしたのは最近話題になったセクハラ問題の「福田淳一氏」だ。私は正直言って彼が有能かどうかは知る由も無いが、少なくとも報道によってセクハラを繰り返すようなダーティな人物であった事は明確である。では仮に彼が有能であったとして貴方は彼のような人物が自分や娘が務める会社の上司に存在する事を貴方は(あるいは私は)良しと出来るだろうか?

 では次に政治家の例で考えて見る。現在の日本の政治状況でダーティと言えば数々の疑惑を抱える安倍総理がまっさきに頭に浮かぶ。では彼が有能なのかというのはいったん隅に置いたとして、あれだけ数々の利益誘導や虚偽答弁などの不祥事を起こした政治家を国のリーダーとして貴方は(あるいは私は)良しと出来るだろうか?

 私の意見を言えば答えは「NO」しかない。もしも自分や友人の上司であったらと考えると正直言っていやだ。たとえ有能であったとしてもこんな嫌な奴を世の中に放し飼いにしない欲しいとと率直に思う。

 では逆にクリーンで無能とはどんな人だろうか。具体的に誰かイメージできる人はいるだろうか?

 ・・・考えて見たけど実はこれは結構難しい。クリーンなのは確かだけど無能とまで詰られないといけない人間って正直いってすぐに思いつかない。私の知識量に制限されているというのもあるけど、これだけ考えて思いつかないって事から「クリーンで無能って人」は実はあんまり世の中に居ないのかもしれないという気がしてきた。はっきりとクリーンと言い切れるような人だが、無能だと後ろ指をさされるような人物って、あれっ? 本当に思いつかない。

 仕方ないので仮に小説の登場人物ならばとして考えて見た。例えばこういう人物はどうだろう。トップとして人望があり高潔で立派な言われてきた人だが不正に手を貸すのを断り結果的には会社を傾かせる。(もしくは裏切られて失脚するなど・・・) これは小説なんかでわりと良くある古典的なモチーフだ。これならなんとなくはイメージできる。

 でも改めて考えてみると、それって本当に無能とまで揶揄されるような事だろうか? もしも物語に続きがあればどうなるだろう。

 トップが失脚した後の会社は不正にどっぷりと浸かったまま抜け出せず、ついには偽装や改ざんなどの大問題を起こして致命的なダメージを受ける・・・というのがよくありそうな話だという気がする。だがこれはあくまでも物語の中の話であって現実世界で本当の結果がどうなるかは誰にも分からない。だが私はここに話の本質があると思う。

 つまり現実世界で考えれば何をもって有能か無能かというのは判断はとても難しい。そのうえにクリーンな人に対してダーティな人の方が成功の可能性が高いなどというのは、これもあくまでも想像やイメージだけの話であって根拠がない。

 私たちはなんとなく漫画や小説の影響などで、なんとなく悪っぽいダーティな人の方がタフで成功する可能性が高いというイメージを抱いている気がする。でも本当の結末はそれほど単純ではないと私は考える。
 何故ならば短期的には成功したように見えてもいずれは不正がバレて致命的なダメージを受けるというケースだって世の中には沢山あるからだ。(最近だとエアバックのタカタとか、粉飾決算の東芝とかが代表例かな)


3.現実世界は「ダーティで有能」や「クリーンで無能」のどちらでもない
 でも現実社会について詳しく観察すると事はそう簡単ではない。私が考えでは、世の中の大部分を占めるのは「ダーティで有能」や「クリーンで無能」ではなく、むしろ「ダーティで無能」だと思う。そしてそれは社会が「ダーティで有能」というのを許容すればするほどその確率は上がる。

 これは何も抽象論ではない、冷静に考えてみれば当たり前の話だ。ぶっちゃけた言い方をすると「ダーティで有能な人物」というのは、とどのつまりは「カンニングして試験に通るような人物」である。そしてそれは本質的に矛盾している。
 もしも本当に有能ならば、そもそもカンニングなんかする必要はないだろう。またカンニングして試験に通るような人物はズルしているだけなのであって、そこから将来的に良い結果を期待するというのは無理な話だと思う。

 ゆえに「ダーティで有能」などというのは、大抵は「ダーティで無能」の誤りである。そしてこういうカンニングして試験にパスするような連中がもしも居なかったならば、きっと少なくとも有能な人間がもっと増えただろうと期待できる。逆にそういうズルするような人物を社会が見逃すほどに、世の中には「ダーティでかつ無能」な人物が溢れるようになるだろう。

 そしてもう一つ付け加えるならば「クリーンでかつ上位まで上り詰めた人物」は有能である可能性も高いと期待できる。だって彼らは少なくともカンニングなしにトップに上がれるくらいだから有能であることだけは確かだろう。


4.まとめ
 ゆえに私は結論として政治家は「クリーン(でたぶん有能?)」を良しとするのが当たり前であって、「ダーティ(で?)」な人間を良しとするなどというのは非常に馬鹿げた考えだと思う。もしも「デーティで有能」でもいいや、と許容するならば結果としてはほぼ間違いなく「ダーティでかつ無能」な人物を選ぶ事になるだろう。

 ここまで話をすすめてきたが、はたして読者の方々はどう思うだろうか?

 私の感覚だと日本社会は他の先進諸国に比べて「ダーティで(有能?)」を良しとする人は多いように思う。そしてそれゆえに現在は「ダーティかつ無能」な人物がトップに溢れていて社会を停滞させているように思う。

 そしてこの仮説はおそらく簡単に証明できると思う。みんなが自分の目で実社会に目を凝らして見てみれば良い。例えば自分の務める会社や取引先、あるいは政府をよく観察すればいいだろう。

 ちなみに私は概ねこの考えは間違ってないという自信はある。(とても残念なことに・・・)

<補足>「政治家はクリーンで無能なより、ダーティでも有能な方がまし。」のネタ元
 この人のことはよく知らないけど、社会的に立場のありそうな人がこんな発言するのはどうなんだろう。こういった発言は信用に傷や信頼に傷が付いたりしないのだろうか・・・。

2018年3月18日日曜日

誰もが陥りがちな「世界を敵と味方に分けて考える」こと

 2018/3/18 ついに毎日新聞の世論調査で内閣支持率が33%まで下がった。少し前に森友学園問題に対する公文書改ざんが明るみにでたことにより、今まで官邸が行ってきた答弁がデタラメだと明らかになったからだ。そしてこれを最初にスクープした朝日新聞に追従するかたちで他のメディアもこの問題を広く報道するようになったことで明らかに世論が変わった。
 しかしそれでもまだ安倍内閣を支持している人たちが3割も存在している。これぐらい明らかな政府の問題が次々と出てくる状況では、内閣支持率はもう1桁近くまで落ちるのが妥当な評価だと私は思う。だから正直いって私はまだ3割も支持率があることに不安を感じる。

 ちなみに私の古くからの友人も安倍内閣を支持している1人である。友人と私の安倍内閣に対する評価はほぼ逆で、テーマが政治の話題になると最後はだいたい激しい口論になる。だからといって友達をやめるとかは無いけど  ”なぜに彼が今だに安倍政権を支持するか?” という疑問は頭に引っかかっていて、いずれはもっと理解したいと思っていた。

 同様の疑問で ”ネトウヨはなぜに安倍政権を支持し続けるのか?” という似たような話題はネットでも多く見かける。それに対する意見もさまざまだ。だが単純に ”ネトウヨは馬鹿だから”などと言うのは誤った理解だと思う。これは知能の問題ではなく、まずは情報の問題である。最大の原因は「メディアによる印象操作」に尽きる。
 第二次安倍内閣は第一次の失敗から学び、第二次ではメディア操作に全力をあげて取り組んでいる。また人事権を悪用して、司法界、警察、各省庁などのトップ人事をコントロールすることで誰もが表立って内閣を批判できないようにしてきた。その結果、テレビではNHKも含めて政府に不利な情報はなかなか報道されず、逆に露骨に内閣を擁護するタレントや評論家がゴールデンタイムを占める事が多くなった。彼らは詭弁と講じて批判的な意見を冷笑と共に貶め続けた。

 ”正しいインプットが無ければ、正しいアウトプットに辿りつく事はできない。”

 当然のことながら視聴者は印象操作に流されて政権に疑いを持たなかった。しかしここ一週間ほどで次々と内閣の嘘が明らかになりつづけ、ついには世論も変わった。本来はこれでほとんどの人が内閣を不支持になっていいはずだ。だがそれでもまだ3割も支持している人がいる。私はこの3割を愚かだと切り捨ているのではなく、もっと理解して議論に巻き込むべきだと思う。なぜならば、彼らはきっと特別な人たちではないからだ。(例えば初めに述べた私の友人のように)


 別に私は友人と意見が違っていてもかまわない。支持政党が同じである必要もない。だが私は彼の考えをうまく理解できないことをもどかしく感じていた。理解できそうで分からない。そう言うのもあって時々このテーマを考えてきた。
 繰り返すがおそらくネトウヨは特別な人たちではない。例えば私の友人も(彼はツイッターしないけど)、日常生活はごく普通でむしろ好人物として暮している。

 これはざっくりとした私の感覚なのだが、例えばツィッター上で言えばネトウヨで3割程度はサクラだと仮定し、残りの7割のうち本当にイかれた差別主義者は多くて5%ぐらいだと思う。そして残りは世間で顔を合わせればきっと普通の人だ。
 普通の人(ネトウヨ属性)=ネトウヨ人口 × 0.7  × 0.95  =約66%(きっと普通の人)
 (補足:感覚だけど、噂を拡散する為に必要な3割ぐらいはサクラがいるのではないかと思う)
 (補足:本当にイかれている人というのは、どの世界でも多くてせいぜい5%程度だと思う)

 そういった疑問もあって、たまにネトウヨ的な人(サクラじゃなさそうな人)に質問をして話を聞いてみた事もある。率直に話せば、わりと率直に答えてくれる事もある。だがそれでもやはりお互いの意見が噛み合わないとは感じる。


 お互いの意見が噛み合わずに議論が深まらない理由の一つは「前提知識や情報を共有できない」という問題だ。それはネットに歴史修正主義者拡散したデマが溢れている事も大きく影響している。例えば ”南京虐殺は無かった”  みたいに歴史的な事実の存在すら正しく共有されなくなると話が頭から噛み合わなくて議論に入れない。

 あと一つは今回の記事のテーマである「この世を敵と味方に分けて考える」という思考方法の問題である。
 例えば安倍政権支持者の意見としては、現時点においてであっても今だに”反日勢力が日本を弱体化させる為に内閣を執拗に攻撃し続けいてる。”というような事を述べている。これは現実的に考えればありえない妄想的なものだ。では、どうすればそのような結論や思考になるのだろう?

 私がだんだんと理解してきたのは、どうやら彼らは「まず誰が敵か味方かを決めて、そして敵味方に従って現実を解釈する」という風に考えているようだ。例えばネトウヨは「安倍政権は味方であり、野党や批判勢力は敵だ」という順番で考えている。だからどんなに事実が報道されるようになっても、それは敵側の陰謀であるという解釈になってしまう。
 本来であれば「事実を認識して、そして現実の解釈を行う(その延長として敵味方に至るかもしれない)」となるべきだ。だがまず最初に敵味方を決めてしまうとなると永久に正しい現実の解釈ができなくなる。いつどの時点で敵味方を区別するかによるが、いずれにしろ永久に敵味方が固定すると考えるのは不自然なので、これらは誤った思考パターンだ。

 だがこう書くと ”それはあくまでもネトウヨの歪んだ考え方でしょう?" と考える人もいるかもしれない。だが実は似たような考え方は、わりと無意識的にやっている考え方なのではないか。少なくとも日本ではわりと普通にある。例えば・・・
・「親と子供」「子供と親」を味方とする。(この前提を壊せずに、ハラスメントに苦しむ人もいる)
・「教師と生徒」「部活と部員」など。(自分の所属グループはとりあえず味方をみなす)
・「会社と社員」(会社は別にあなたと敵味方の関係にあるわけじゃない)
・「政府と国民」(日本の場合だとこれも多い気がする)

 この中でも「政府と国民」というのはまさにネトウヨ的な思考である。おそらくネトウヨは「政権は味方で、批判勢力は敵だ」と解釈している。だがそのようにまず初めに敵味方を固定化してしまうと、現在のように政権が汚職などで権力を私的に行使した問題が起こったときに頭を切り替えられない。

 政権の汚職は分かりやすい例だから大丈夫と思う人がいるかもしれないが、これは結構だれもが陥る問題だと思う。むしろ逆に普段から頭を柔らかくするように努力してないとすぐにはまってしまう。例えば会社や学校で、たまたま第一印象がわるかったり、間違った陰口を聞かされたおかげで、ずっとお互いに誤解をしていた・・・なんて人間関係は誰でも経験あるはずだ。ちょっとしたきっかけで、無意識的にあの人は嫌いだ、敵だなどと思い続けたというのはドラマの定番である。
(ドラマなら嫌な奴が実はいい人みたいなサプライズ展開へ行くけど、現実は逆がおおいんじゃないかな?)


 ちなみにこの問題を考えて頭に浮かんだのは、安倍政権の外交政策はまさに世界を敵味方にまず分け・・・という思考パターンの典型だなという事である。トランプへの冷静に考えるとドン引きするような媚の売り方とか、あまり現実的に有効とは思えない中国包囲網とか、北朝鮮は敵だ圧力だと何の考えもなく騒いでいるとか・・・おまえは小学生かと言いたくなるぐらいに世界を単純化しているように感じる。
 これが原因で外交政策がひどく時代遅れで的外れに見えるのだろう。本当は複雑で繊細な外交問題をこのような連中にまかせるのは途轍もなく不安だ。たまにネットで「外交問題山積みだから政権批判を控えよ・・・」みたいなコメント見るけど、むしろ今の小学生みたいな連中はすぐに辞めさせないと、まとまる話もまとまらない。


<余談>
・従軍慰安婦という永久に深まらない議論
 従軍慰安婦問題は敵味方理論で歪められた典型ではないかと思う。海外と日本での議論はどちらが正しいとかいうずっと以前に、違うテーマをお互いに話し続けているぐらいに噛み合ってない。これは日本が慰安婦問題を敵側の理論だと決めつけて、歪んだ解釈をしているからである。
 現在において本来問うべきである従軍慰安婦の意義は ”女性に対する性の搾取をいかにして無くすか” ということに尽きる。海外で多く問われているのは現在我々がどうあるべきかという事で、そもそも歴史を問題にしているわけではない。
 なんせ拗らせている大きなポイントが従軍慰安婦=Sex Slaveという英語を、和訳した際にずれて理解して慰安婦はそもそも性奴隷ではないという反論をしているのだからどうしようもない。
(補足:英語のSex Slaveは女性の自由意志が制限された状態での性的強要を指しており広意義な概念である。だがそれを理解せずに、和訳の性奴隷という言葉に過剰反応するから”お金を払ったから奴隷じゃない”とかずれた話になってる。まるでコント並みのバカげた話)


<参考リンク>
・毎日新聞世論調査 内閣支持率33% 12ポイント減

・慰安婦問題、日韓の歴史「認識」はなぜ対立する? 木村幹・神戸大教授に聞く


2018年1月8日月曜日

未来予測2018 ~社会のモラルと到達点~

1.はじめに
 毎年恒例としてここ数年続けている未来予測の記事を書く。予測と言っても実際は日記のサマリーみたいなもので「あの当時はこう感じていた」「こんな風に世の中が見えていた」という感覚を元に想像する未来像を記載したものだ。なので別に当たろうが外れようが気にせずにただ率直に思うがままを書いている。
 それではいつものように例えば日本、世界、社会などといった大くくりで色々と思った事を書いてみる。もともとあんまり細かい事を書かないので、今回も大雑把に気になった現象や事象なども踏まえて書いて見る事にする。


2.トランプと安倍が象徴するもの(2017年を振り返って)
 未来を考える前にまず2017年を振り返る。すると2017年はまさにトランプ大統領に振り回された年だったという事が見えてくる。
 アメリカ大統領のロシアスキャンダルという事が既に前代未聞だが、それ以外にも失言暴言から、国際情勢を緊張させる深刻な事態まで、トランプ現象といえるものに世界中が振り回された1年だった。そして誰もが次のように一度は考えただろう。

 「トランプ大統領とはどんな人物で何を考えているのか?」

 この問いに対して色々な意見があると思う。だが私がいつもトランプ氏という人間について考える度にイメージするのは・・・、

 例えば“近所の飲み屋でホステス相手に威張りちらしてその場限りの適当な法螺を吹く”そんな一言でいうと「口が軽いいい加減なオヤジ」である。

 つまりは信念とかポリシーとかが特にあるわけでなく、また明確な悪意や悪い事をしているという自覚も無い、ただの無責任なお調子者である。しかも自分勝手で我儘なうえに差別主義者でもある。ようするに一言でいうと「俗物」である、そして本来ならば責任のある立場について欲しくないタイプの人間だ。
 しかしこの俗物がよりにもよってアメリカ大統領であり、世界最大の軍事力と核ミサイルのボタンをあずかっている。

 ここまで書いていると私はどうしても安倍総理の事を連想してしまう。私の目から見ると安倍総理はある意味ではトランプ大統領ととても良く似たパーソナリティーに思える。例えば次のような所は二人とも考え方がよく似ている気がする。

<トランプと安倍の共通イメージ>
・独善的で強い偏見の持ち主。
・モラルが低くて嘘をつく事にためらいがない。
・責任感が感じられず政治の私物化を悪いと思ってない。
・どうやら自分では賢いと思っている。
違いはトランプが宗主国側で安倍が属国側であるというロールプレイのポジションだけだ。

 この点についてみんなはどう思うだろうか?

 単なる偶然による取るに足りない事柄だろうか?

 たまたまる政治家個人のゴシップ話が目立っているだけだろうか?

 だが私には、これらは偶然ではなくおそらくとても重要な事柄を暗示しているのではないかと考えている。つまり「アメリカ」とそしてとても強く影響される「日本」という二つの国が抱えている共通的な病のようなものが、この二人の政治家を産み出したのではないだろうか?

 私はこれらは新種(ニュータイプ)の新たな社会問題であるように思える。そして次のような二つの国が抱える顕著な問題の結果だと思う。

<両国が抱える社会の病>
・フェイクニュースの蔓延、歴史修正から感動ポルノに至る真実軽視の傾向
・貧富の拡大により中間層が激減したことによる社会不安
・グローバル化に翻弄される人々の疲弊
・コミニティが力を無くし分断された孤独な人々

 もちろんこれらは日米だけの問題ではない。だが他のヨーロッパ圏、アラブ圏、アジア圏では少し事情が異なる気がする。例えばヨーロッパやアラブでは宗教や伝統といった文化が人々を繋ぎとめているし、中国のような国では身内による強い結びつきが人々がバラバラにならないように支えている。
 日米はある意味ではこの新たな病の先進国であり、これは今後の世の中を見るうえで注意すべきポイントではないかと思う。


3.イスラム国との戦争
 2017年はついにイスラム国の敗北と撤退が顕著になった年である。そしてようやくアラブの戦争がひと段落して今後どうやって平和を担保するかの話が出始めた年だった。だがトランプ発言(アメリカ大使館のエルサレム移転)によりまた新たな緊張が起こっている。

 もともと私はイスラム国が無くなったとして、そこからどう収めるのかにはかなり疑問を持っていた。中東の争いは色々と紆余曲折のゆえになんとかイスラム国を悪者として一致団結している。だがそのイスラム国がいなくなればどうなるのか? もともと仲が良くないとか利益や主張が異なる国々や民族による争いが途端に勃発する可能性がある。

 例えばロシア対米国、クルド人と周辺国、シーア派とスンニ派の争い、イスラエルとパレスチナ、トルコとEUなど対立軸は幾らでもある。むしろ引き際の方が難しいというのが現実だろう。
 そういった中でのアメリカ大使館移転というトランプ発言だ。これは火薬庫で花火をして遊ぶのに等しい乱暴さである。

 私はこの将来にはどうしても希望が見えない。確かに「イスラム国(組織)」は結果的に中東から撤退するかもしれない。だがその後に残された空白地帯を巡って新たな紛争が起こる可能性が高い。
 私が懸念するのは、今回の争いで最も血を流して戦ったクルド人についてだ。彼らは自分達の国を得る為にもっとも勇敢に犠牲を払って戦ったと聞いている。だが彼らが期待するような十分な分け前を誰が払ってくれるだろうか? もっと言えば彼らは利用されただけなのではないだろうか?
 もしも軍事大国が言葉巧みに彼らを利用しただけであり、戦争が終わって見捨てるような事になれば、彼らは間違いなく「次のイスラム国」になるだろう。そのような混乱が起こればイスラム国も息を吹き返すかもしれないし、新たなテロがさらに世界にまき散らされるかもしれない。


4.北朝鮮問題
 北朝鮮問題は日本と韓国にとってはとてもやっかいで危険な問題である。だが日本では今だにこの危機がよく理解されてない気がする。そもそも自分たちが戦争に直接巻き込まれるという事が解ってない。だがそれ以上に何のために、どんな状況で戦争が起こるのかが理解されていない気がする。

 よく誤解されているのは「北朝鮮が宣戦布告する事はありえない」とか「いままでもよくあった北の戦争やるやる詐欺でしょ」といった声である。つまりは今までと状況が対して変わっていないという意見だ。
 だが私が危惧しているのは逆の「アメリカからの先制攻撃」である。もともと北朝鮮はアメリカとの交渉を望んでいるのであって戦争をしかけるつもりはない。現在の核ミサイルおよび弾道ミサイル技術で危機を与えているのはあくまでも対アメリカであって、日韓そのものは大きく状況が変わっているわけではない。

 では誰が戦争をやる動機を持つかといえば、それは唯一アメリカである。アメリカは安全保障の観点から本国にミサイルが届くのを嫌う。またはメンツの為に北を屈服されたいという動機である。だがそれにしても米軍人は実際に戦争になれば日韓に大被害が出る事と、半島と周辺がイラクのような大混乱になる事を懸念してむしろ慎重な態度を見せている。
 だがやかっかいなのはトランプ大統領である。彼は自らのロシア疑惑や支持率低下などの国内問題から目をそらす為に、むしろ北との戦争に乗り気だ。そして安倍総理はトランプへ媚を売るのと同時に、国内問題から目をそらす目的で北との戦争に前向きである。いまや国益ではなく、日米での政治家個人の問題から戦争の危機が高まっている。

 それにそもそも周辺国の思惑だってバラバラだ。だがそれらは日本ではよく理解されていない気がする。

1)北朝鮮のゴール(または思惑)
 自国の安全を担保。米国との和平条約を締結するなど。

2)アメリカのゴール(または思惑)
 トランプ大統領が抱える国内問題から追求の目をそらす為に戦争をやりたい。
(注:本来のあるべきゴール:自国の安全を担保。アメリカ本土への直接攻撃兵器を捨てさせる、または縛るなど)

3)韓国のゴール(または思惑)
 自国の安全を担保。紛争が起きないのが目的。米と北朝鮮和平で半島の緊張回避もあり。

4)中国のゴール(または思惑)
 北朝鮮領を中国の管理下として存続させること。壊滅して難民を出したくない。またロシア側の管理下になるのも困る。

5)ロシアのゴール(または思惑)
 北朝鮮を自国の管理下に引っ張ってくる。半島への影響力を高める。

6)日本のゴール(または思惑)
 安倍総理が抱える国内問題から追求の目をそらす為に戦争をやりたい。憲法改正や軍国化などを進める為にも戦争は好機と考えている。
(注:本来のあるべきゴール:自国の安全担保。北朝鮮壊滅で難民発生も困るし、勢力図の大幅変動も好ましくない)

 本気で戦争をやりたいと考えいるのは、おそらくトランプと安倍だけだろう。トランプにすれば国内での不人気や失策、選挙におけるロシア疑惑などの問題をうやむやにして支持率をあげるチャンスなのだろう。くわえて半島での戦争が起これば当然のように韓国と日本には大被害が起こるのだが、白人で差別主義者のトランプにすればアメリカ人の血よりはまだ安いと考えているふしもある。

 これが安倍になるとさらに厄介だ。むしろこの危機は軍国化と独裁化を強める為のチャンスだと考えている。危機に乗じて緊急事態条項を通せれば完全な独裁体制が可能になるし、そうなれば汚職などの様々な問題も一気にチャラにできる。これは安倍にとっては一発逆転の大チャンスなのである。ただしその賭けの担保は国民の生命なのだが。


5.北朝鮮との戦争による被害
 北朝鮮との戦争になれば日本にも大被害が起こる可能性がある。場合によっては国家的にも壊滅的なダメージを負う事すらありえると思う。懸念として考えている事を幾つか挙げてみよう。

①核兵器による都市、または電子パルス攻撃
 水爆クラスの核攻撃が本当に実現して成功すれば人口の何割か減るぐらいの死者が出るかもしれない。あるいは電子パルス攻撃が広範囲に行われたらそのダメージで、核施設が制御不能になる可能性もある。この場合も結果的にチェルノブイリクラスの大災害につながる可能性がある。

②ミサイルによる核施設攻撃
 もしも私が金正恩の立場ならばこれをやる。もっとも簡単で確実に戦果を得られる方法だからだ。発電等の重要施設を狙うのは戦争の定石だし、ダメージや汚染が起これば日本と米軍の行動を麻痺させられる可能性もある。ただしその場合はチェルノブイリクラスの大災害になる可能性もある。そうなれば日本全土が住めないぐらいの汚染となる可能性もあり得る。

 もちろん通常ミサイルで都市部を攻撃とか、テロによるダメージとか色々と考えられるが、一番の懸念は核施設への攻撃である。おあつらえ向きに日本海側にはずらっと核施設が並んでいる。
ちなみに私はミサイル防衛などというものをはなっから信用していない。
 あれは兵器産業の過大広告であって実際にはあまり役に立たないのではと考えている。飛んでくる半分でも落せれば幸運という程度のものだろう。そのうえ衛星軌道から来るミサイルには実質対応不能ときく。現実世界を守りたいならばミサイル防衛といった甘言にのらずに地道に平和を維持する為に交渉をするしかない。
 また半島での戦争が起こす政治的な混乱も深刻だ。もしも米国が独断で北を先制攻撃する事態になれば、中国は北朝鮮に加担すると過去に宣言している。そうなれば戦火がどこまで広がるか解らないが、少なくとも日本全域が戦火に含まれるだろう。最悪はWW3のような大規模な争いに発展する可能性もある。

 だが色々なニュースやネットでの声をみて私が疑問に思うのは、これらの深刻な問題や危険を日本の与党や右派の連中はよく理解してないのではと感じる事だ。気楽に今まで通りにアメリカについていけば大丈夫と考えているようだが、アメリカと日本では大きく立場が異なる。
 ボクシングの試合に例えると、日本はリングで戦うボクサーだが、アメリカはリング外で指示を出すセコンドのようなものだ。最悪ボクサーは死ぬかもしれないが、セコンドが死ぬことはあり得ない。アメリカからすれば半島での戦争は中東でやっている事と変わりないのだろう。被害や損失はあっても自国で人が死ぬわけじゃない。
 この状況で無条件にアメリカに従おうとする行為、それこそが本当の平和ボケである。これに比べると韓国の対応は極めて常識的である。大統領の文在寅が極めて慎重な態度を示しているが、これは当たり前の行為であり、彼は自国民を守るという責任を果たしている。むしろ日本政府の態度ははなっから日本国民を守るという責務を放棄している。


6.いまの世界が示すもの(文化の限界点)
 トランプや安倍のようなリーダーが登場した事は何を示しているのだろうか。私はそれらが示すのは「フェイクニュースが蔓延した世界」の到来だと受け止めた。ここで言うフェイクはオーウェルの「1984」的な世界であり、それがいまや資本主義と個人主義を通じて実現されつつあると考えている。
 フェイクニュースが蔓延する世界とは、真実が軽視される世界であり、強者は身勝手な嘘を振りまいて欲望を満たし、弱者は麻薬のような夢に溺れるか誰かを憎悪するように仕向けられた世界である。

 もともとそれらは人々の様々な欲望や弱さに付け込んで蔓延するが、なかでも特に日本は耐性が無いように感じる。理由は日本社会には一本筋が通った理念やモラル(あるいは信念)というものが欠如しているせいだろう。確かに思い返せば、私もモラルや理念というものを学んだ記憶も無ければ、社会で目にする事もほとんどない。

 例えば教育を通じて教えられたのは、良い学校でて良い企業に勤めろというような事や、規律や周囲に従うだの、疑問を考えるより前にまず従えとかいった事ばかりだ。そのどこにも「人としてどうあるべきか」とか「より良く(善として)生きる」とはどういう事かなどと学ぶ機会は無い。そして家庭や社会においても教えてくれる場は無い。
 他国では宗教がこの部分をサポートするのかもしれない。だが日本社会では宗教がモラルとしての役割を果たす場面がなく葬式(死者を弔う儀式)以外に出番が無い。

 この「モラル(高い理念)」が存在しない事が実質的に社会の上限を定めている。たび重なるハラスメント、次々に表に現れる偽装、ネットで自由に発言できるようになった途端に溢れるヘイトや中傷など、これらはあるべくして現れたものだ。
 そしてこういった多くの問題が出ながらそれらの解決への道筋すらつけられない現状そのものが、まさに日本の限界、つまりは「今の腐った土台(文化)に建てられる限界」なのだと私は思う。

 そう考えて世界を見れば、西洋社会やアラブ社会には宗教というモラルがまだ生きており、彼らは葛藤をしながらも試行錯誤を続けているように見える。一方中国のような国では民間にある血縁主義というべきコミュニティがその代わりをしているように見える。いずれにしろそこには何らかの譲れないモラルのような物があり、そして葛藤しながらも取り組み続けている姿があるように思う。
 それはおそらく今の日本には無いものだろう。日本にはコミュニティというべきものがほとんど失われており、大衆化した悪意に対して対抗すうような術が亡くなってしまっている。より良く生きようと願うような人をサポートする社会も組織も法もない。


 将来への予測としてこの問題を考えたとき、私は日本については正直言って改善される見込みはないと考えている。より良く生きたい人は国を捨てるしかないように思う。
 だが海外がどうかというと西洋社会はまだ日本よりも望みはある。しかし危ういように感じる。イスラム国戦争から始まった難民問題などを解決するには、もう一段階ステップアップした理念のようなもの、そしてそれを実現に移すだけの知恵や法が必要だと感じる。


<余談1:テクノロジーに期待するもの>
 もしも画期的なテクノロジーが出てきて、結果としては「人が食う為に働く」事から解放されたら、私は新たなステージのようなものが搭乗するのではないかと思う。「生きる」事が保証された世界であれば、人は「より良く生きる」事を願う(あるいは競う)ようになるのではないだろうか?

<余談2:天皇が示すもの>
 日本には柱とも言うべきモラルが無いと述べると、だからこそ「天皇」でこの隙間を埋めようという話がすぐに出てくる。
 しかし天皇は私が述べた意味での柱になる事はできない。なぜならば天皇はなんの「モラル」や「理念」も持ち合わせていないからだ。そこにあるのは「(多くの者が願う)都合の良い解釈」だけである。天皇は神の代わりにもなれないし、法の代わりにも、良心の代わりにもなれはしない。それは日本人が昔から好んでやる誤魔化しのテクニックである。そしてなんの解決にも、救いにもつながりはしない。


<参考リンク>
未来予測2017 ~歪みが深まる時代~

未来予測2016 ~世界3つのシナリオ~

未来予測2015 ~不安定化する世界~

未来予測2014 ~安倍政権という方向性~

未来予測2013 ~私的予言録~

2017年12月12日火曜日

映画「否定と肯定」(ホロコーストの真実をめぐる戦い)を観て

 私は基本的に面倒くさがりなのであまり映画館に足を運ぶ事はあまりない。しかし最近の慰安婦をめぐる問題(サンフランシスコとの姉妹都市解消)などの影響もあり、同様の歴史修正問題(ホロコーストの否定)を扱ったこの映画はどうしても今見るべき物のように思えて足を運んだ。
 まだ見ていない人の為にネタバレにならない程度に簡単に説明すると、この映画は書籍「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い」を元にした次のようなストーリーである。

 “ユダヤ人女性で歴史学者であるデボラはホロコーストを否定する歴史修正主義者をテーマにして、その手口や動機を問題提起する本を出版する。ところがその本でホロコースト否定主義者の一人として挙げられたアーヴィングが逆にデボラを名誉棄損で告訴する。しかも告訴はイギリスで行われた為に、イギリスの司法に従って被告が無罪を証明をしなければならない事になる。この為に結果的にデボラ「ホロコーストが存在する」という事を裁判で証明するという前例のない裁判を戦う羽目になる”というものだ。

 この映画の主要なテーマはホロコーストのように明らかに存在が認められている事実を、あたかも「否定する意見」「肯定する意見」のように同列に論じる事が間違いであり、そのような議論をしようとしてはいけないという事にある。そんな安易な両論併記は本来自分たちが積み重ねてきた歴史や知恵の放棄であり、また歴史修正主義者に安易に付け入る隙を与えて堂々巡りの論議や後退を行う事になる。主人公のデボラはその問題について映画の中で何度も悩み何を裁判で問うべきなのかを悩みぬく。

 映画評として感想を述べると、これは極めてクオリティの高い良い映画である。緊張感をもってテンポよく進むシナリオ、俳優たちの厚みのある演技、そして歴史修正主義者の悪意にどう立ち向かうかという作戦など、長めの映画なのだが最後まで一気に見れた。そして裁判でレイシストをやり込めるシーンなど、見てると痛快で本当に拍手したくなる。
(実際にラスト近くは映画観内で拍手したくなるのを両手を握って堪えてた。思わずやっちゃいそうだったので・・・)
 なのでこの映画は特に歴史問題に関心がある人でなくとも、普通の法廷映画として十分に楽しめる優れた作品だと思う。
(ただしアウシュビッツとホロコーストの意味ぐらいは知っとく必要あるけど)

<余談>
・この映画は実際に行われた裁判をもとにしているという。ただ史実そのままなのかはよく解らない。面白い話だったので機会があれば原作も読んでみたいと思う。
・英題「Denial:否認」に対して何故か邦題「否定と肯定」だという突っ込みがTwitterにあったけど、正にその通りで邦題は残念な事になっている。映画のテーマからすると安易な両論併記に対して否定するという意味があるので、邦題はいまいちになっている。


 この映画は面白かった。そしてちょうど正に日本でホットな歴史問題「慰安婦」「南京虐殺」「731部隊」などに対しる議論の仕方についてもヒントをくれるような内容だった。
 映画を見ていると、まさに日本で見慣れたネトウヨなどの歴史修正主義者がやりそうな手口や発言などがシーンに出てくる。
 例えば否定主義者のアーヴィングはホロコーストを生き残った女性(腕に囚人番号の入れ墨がある)に対して、“奥さん、あなたはその入れ墨でいくら稼ぎましたか?もう十分じゃないですか”などと言って嘲笑するシーンがある。これはまさにネトウヨが元慰安婦に対して“あいつらは嘘つきで金を目的に騒いでいる”とか“元々は金で雇われたただの売春婦”などと冷笑するのとまさに同じである。
 この映画はまさに鏡のように今の日本で起こっている問題を、国籍を入れ替えて演じているようなものだ。(なので私はこの映画をできれば日本の多くの人が観てくれる事を望む)

 なかでも私がこの映画で特に考えさせられたのは“真実の脆さ”と言うべきものだ。
 ホロコーストのような明らかな大事件でさえも、時間が経過して記憶が薄れてくると無かった事にしようとする者が現れる。彼らはは都合の良い解釈や細かい指摘を執拗に繰り返して、ちょっとした綻びから真実(映画ではホロコースト)を毀損して否定しようとするという事。
 そしてそれらの真実を否定しようとする試みを覆すためには、本当に多くの人達が必死に努力をして真実を証明しなければならないという大変さ。
 つまり真実とは、歴史を正しく保とうとするには多くの人の善意や努力に頼らなければ出来ないという事である。真実はそれぐらいに脆く、守ったり受け継ぐには努力がいる。

 なかでも虐殺事件の否定などはそれが顕著だ。虐殺事件では多くは犠牲者であり、証人のほとんどは殺されており死人に口なしが多い。また生き残った少数も年老いてやがて亡くなってゆく。そうやった貴重な証言ではあるが、そもそも彼ら証人は過酷な環境と体験でその記憶(時間や場所)が全て正確であるわけではなく、多くの証言を継ぎ合わせたり推理して組み立てなくてはならない。
 だが歴史修正主義者は悪意をもってその細部の証言ずれなどをあげつらい、全体の虐殺事件そのものが存在した信憑性を否定しようとする。これらの歴史修正に対抗するのは簡単なようにでとても難しい。

 例えばTwitterでも歴史修正の発言は増えているが、そこで議論して否定論者を納得させるのはきわめて難しい。率直に言って私には無理だ。なので私は彼らと正面から議論しようと考えた事はない。
 何故ならばネトウヨなどの歴史守勢主義者は既存の全証拠(例えば書籍など)を既に否定しており、あるいは都合よく解釈しているなど、そもそも反論などを聞く気がない。そのうえに犠牲者などの証言の僅かなずれをあげつらって嘘つき呼ばわりする。
 またこれは最近は特に問題となっているのが、インターネット(日本語世界)がネトウヨのまき散らした嘘でかなり汚染が広がっている事だ。例えばGoogleで“慰安婦 歴史”をキーワードで検索したとする。その検索結果には“慰安婦の嘘”、“マスコミが報道しない真実”とか決まって歴史修正した記事が混じって出てくる。なので歴史的な経緯や事実などを適切にまとめてくれている資料を探すのは至難の業だ。

 正直私にも調べるのはとても時間がなくて無理だ。例えばフォローしている人(信頼おけそうな人)などに聞いて教えて貰うような機会でも無いとなかなか人に説明できるほど理解する事は難しい。しかもネトウヨなどの輩は必ずエビデンスを出せと言う。(あっても信用しないが)これらに対して一般人が対抗するのは難しい。

 こういった事からも実感できるのは、いかにありのままの歴史を正しく残す(伝える)のが難しい事なのかという事であり、そこにどれだけの多くの人の努力や誠意や良心が必要となるかだ。
 しかも日本について言うならば、性質が悪い事に現在の政権は進んで歴史修正をしているのだからたまったものではない。


 歴史を保つのは大変である、だが同時に最近よく考えるのは「歴史修正はどれだけ罪が重い行いなのか?」という事だ。

 歴史修正とはいったいどんな罪なのだろうか?

 中には嫌な事(過去の黒歴史)を忘れてハッピーになる、それで何がいけないんだという人もいるだろう。
 だが私は歴史修正は極めて重い罪だと考える。なぜならばそうやって消されたのは実際に存在した多くの人間であり、そこにあったのは言葉では説明できないような苦痛や苦悩だからだ。

 「居たはずの人間を存在しなかった事にする」それは本来は殺人を超え、記憶や記録さえも消そうという行為であり、人の尊厳を死後からも奪うという最大の罪ではないだろうか?

 私は慰安婦問題について考えると常々やりきれなさを感じる。それは彼女らの苦しみその物より、苦しいと訴える事すら許されなかったという事についてである。慰安婦は戦時中は軍を助けて国難に立ち向かう崇高な仕事であるとしながら、戦後は売春婦だの卑しい汚れた存在だのとして居なかった事にされる。
 そしてもしも彼女達が声を挙げたなら村八分にされたり、石を投げられるなどの扱いを受ける。実際に韓国の慰安婦が何十年も経過して声を挙げるようになったのは、韓国でもそれだけ慰安婦である事は恥であり、証言するにはとても勇気がいる事だったからだという。
 しかも日本では(日本人の慰安婦は)ほとんど声を挙げる人もいない。居てもそれに手を差し伸べて社会でその苦痛に寄り添うという事が出来なかった。
 それらを想像してみれば、存在しなかった事にするというのがどれだけ罪深い行為なのかが解るはずだ。


 また歴史習性には別の問題もある。過去の歴史を都合よく改ざんする事は、結果として本来あった自分の記憶や歴史を失う事になる。

 都合の悪い事を修正する、そしてさらに矛盾してしまった部分を消し去る~これを繰り返し続けると、最後には薄っぺらいどうでも良い残りかすのような記憶しか残らなくなる。それは苦悩や挫折に満ちてそれを乗り越えたような名作小説だった物を、言いにくい事を改ざんして削った結果、しまいには薄っぺらい小学生の作文にしてしまうような行為だ。

 失敗したり苦しんだり悩んだり、そういった過去を乗り越えたり格闘したりする事でかろうじて人が成長するとすれば、過去の改ざんばかりしている者が成長などできるはずもない。ましてやそれが国ならばなおのことだ。永久に幼児のように薄っぺらい愚かなままとなるだろう。

 「否定と肯定」のテーマはドイツだが、これはまさに今の日本人が見るべき格好の映画である。多分映画を見てると“ああ似たようなヘイト発言をあの議員が言ってたな”とか色々と思い当る事も多いと思う。なので是非多くの人に見てもらいたい。


<参考>
「ホロコーストはなかった」とする否定論者との闘い 『否定と肯定』

2017年10月25日水曜日

日本社会に蔓延する嘘と向き合う

 2017年の衆議院選挙、この出来事には色々と考えさせられた。それは選挙の結果ではなく、選挙を通じて交わされる色々な意見によってだ。中でも特に深く考えさせられたのは立憲民主党の枝野氏について語られたうちの二種類の声についてだ。
 1つは立憲民主党を立ち上げた枝野氏を評価する多くの声。もう一つは民主党時代に3.11原発事故で「ただちに問題はありません」発言で多くの人を避難させなかった人物を支持するべきなのかという疑問の声だ。

 この葛藤は私にはよく理解できる。私自身も3.11原発事故の民主党政権が、結局は多くの事実を隠ぺいして被害を隠してしまった事にショックを受けた一人だからだ。だが同時に私は今回の枝野氏が新党を作ってくれた事を嬉しく思い評価する者でもある。

 この件は長く私の中ではもやもやしたままだった。だが最終的には「どんな理由があろうが、やっぱり嘘を誤魔化してはダメだ」と思うようになった。私自身は立憲民主党を支持する、だが3.11での嘘を忘れはしない。安易に自分の葛藤を解消するのではなく、この過去につかれた嘘についてずっと向き合うべきだと思った。
 いずれはどこかで枝野氏を含めてあの対応は問題だったのではないかという検討や反省をして貰うべきではないかと思う。それでなければ恐らく3.11原発事故での問題は永久に解決はされないのではないかと思う。

 3.11で起きた原発事故は私にとっても大きな分岐点だし、日本国としても本当に大きな分岐点になったと思う。その傷はまだ癒えてはいない。そして今にして思えば、本当に大きくこの国を傷つけたのは事故そのものではなく、ついてしまった嘘の大きさだと思う。私はあの嘘についての失望を今でもリアルに覚えている。その時に私の中にあった政府とか社会とかメディアとかに対する根本的な信頼みたいな物が失われたと感じる。

 あの時私は例えどんなに日本がボロボロであっても共に手を取って立ち上がろうとするならば、自分も何かできる事で手助けしたいと心から思った。
 だが政府は被害を誤魔化し、官僚は傷ついた市民を無視するだけではなく逆にどさくさ紛れに利権を広げようと予算取りに血眼になって奔走した。その一つが今だに成果のよく解らない除染作業である。彼らは東京電力の責任を問うのを止めた。しかも野田総理に至っては災害復興よりも消費税増税の方が大事だと語っていたと聞く。メディアはと言えば臭い物に蓋をするように何も無かったかのようにバラエティ番組を流していた。
 これらを見て当時の私はとてつもない絶望感と無力感におそわれた。

 こういった6年前の色々な事を思いだして改めて考えさせられた。そして気が付いたのが「いかに今の日本が嘘に覆われているか」という事だった。


 近年でつかれた最も大きな嘘は3.11原発事故であり、あの事故で多くの日本社会で考えられていた数々の神話が壊れた。
 日本の技術は優れていて世界で一番原発は安全だと言われていた。だが実際に事故が起きると、ロボット大国だと自ら名乗りながらも調査に動かせるロボット一つも日本は持って無かった。結果的には外国の探査ロボット支援を受けざるを得なかった。
 メディアは被災者の声よりも電力会社に肩入れする報道を続けた。そして放射能汚染などあたかも無かったかのように扱い多くの人の痛みを無視した。また学者は子供にでもわかるような嘘をつき続けて藁にも縋りたいはずの被災者の不安を踏みにじった。


 もちろん日本社会にそれまで嘘が無かった訳ではない。だがばれてしまった嘘を無かったかのように塗りつぶしてしまうのは根本的に違う次元の話だ。それでは社会の信頼というのが粉々に砕けてしまう。そしてその後の時代(自民党に政権が移ってからも)は、もはや誰も嘘をつくことに躊躇しなくなったような気がする。

 嘘がばれても認めなければ良い、メディアを懐柔すればよい、御用学者に援護させればよい、ネットサポーターに攪乱記事を書かせればよい。誰もがそう考えているかのようだ。

「襟を正すより嘘を塗り固める方がコストが安くて簡単だ」

 もはやそう考えている事を隠そうともしない。これはもはや汚職とかという次元ではなく、文化そのものの堕落である。もしも文化というものがそこで暮らす人々の信頼(共通幻想)の上に築かれるものだとすれば、今見ているものはただの幻でしかない。日が昇ればすぐに溶けて消える雪のようなものだ。
 私はいつこれらが崩れるのかを恐れている。この歪みは酷くあと数年持つかどうかも解らないと考えている。


 だが多くの市民の中には、暗い現実を受け止めるよりは甘い嘘に溺れるのを選ぶ者も多いようだ。あえて積極に嘘に溺れて酔っぱらうような人間もいる。秋葉原の安倍総理演説(2017/10/21)は厳重なバリケードの周りに日の丸がはためくという、まるで戦前にタイムスリップしたような物だったらしい。

 こういった日本社会の現象は表現の自由や多様性と言えるようなものではないと私は思う。これは虚構をベースにした世界(認識)の分裂である。3.11の修正、あるいは近年話題になった慰安婦や南京虐殺などに関する歴史修正、そういった事が至る所で行われた結果だ。

 修正前の歴史を信じる者と、修正後の歴史を信じる者はあたかもパラレルワールドで暮らす者たちのように出会う事がない。よって会話など成立するはずもない。そもそも前提とする事実が違っていたらお互いに理解も、対話を始めようもない。

 よく物語の世界などで「歴史に復讐される」と言うが、歪められた歴史は蓄積してどこかで地震のようにはじけるのだろう。その一つが今起こっている事だと思う。

 これらを踏まえて改めて考えさせられたのは、人間同士が話し合い理解しあうには一つ一つ地道に真実を積み重ねる、あるいは嘘を取り除いていくしかないという事だ。
 例えそれがどんなに気が遠くなるような話でも、何十年かかろうとも、それを抜きに問題は解決できないのだと思う。そして同時に次のような疑問に突き当たった。

「日本社会はいったいいつから嘘をつき続けているのだろうか?」

 それを考えていて気が付いたのが憲法9条の問題である。いまだに日本社会では9条の問題に正しく向き合えてないし、冷静な議論ができないでいる。それはこの9条を通じた話が同様に多くの嘘で塗り固められてきらからだと思う。

 憲法9条の誕生は色んな人や政治の思惑が絡んでいるのは事実だ。
・日本が再び戦争出来ないようにする為の鎖
・あまりに悲惨で多くの犠牲者を出した事からの平和への願い
・周辺国へもう危害を加えないという保証
・... etc

 だが誕生当時の事は理解できる。それは多くの人の意思をや願いであり事実だったのだと思う。しかし冷戦の中で自衛隊が作られた所で嘘が始まる。
 日本人も政府も事実と向き合わずに嘘をついてしまった。もっとぶっちゃければ良かったのにと私なら思う。例えばアメリカの要請に答えるために自衛の軍を持ちます、アメリカの実質占領国である日本は逆らえないから仕方ない、あるいは最低限必要な兵力を持たないと国家としての自立ができない・・・等の率直な議論を積み重ねるべきだった。
 だが面倒だったからだと思うが結局は誤魔化してしまった。そして今に至っている。

 私は伊勢崎賢治氏が言う憲法9条を正しく改正すべきだという意見はよくわかる。今の日本は軍隊を持ちながらそれを運用する為の適切な法を持っていない。(だって自衛隊は軍隊じゃないってずっと政府は言い張ってきたから) これは国際法的には無茶苦茶な状況で、まだ北朝鮮の方が法的にはまともだと言えるという指摘はその通りだと思う。

 だが現時点ではまともに議論できる状況にはない。なんせ歴史修正しまくって嘘つきまくっているおかげで、同じ前提にたって議論する事が不可能になってしまっているからだ。護憲派はこの問題を軽視し、与党改憲派は9条を無視して書き換えようとしている。これは共に間違っている。
 私的な意見としては、自衛隊を軍として認めて法整備する、その前提で憲法に自衛のみという縛りを明確にする。当然だけど集団的自衛権は認めない。というようにすべきだと思う。


 だが安倍政権による改憲は絶対に反対である。そもそもあんな簡単に公約を保護にしたり常習的に嘘をつき続けているような連中を信頼しようとすること自体が馬鹿げていて話にならない・・・というのがまずある。
 しかしそれを差し引いたとしても、安倍政権の態度はもはや政治・法律・信念とかいった問題ではなく、子供が玩具を欲しがって駄々こねているようにしか見えない。
 どうしても私には彼らが、「軍隊さえあれば」「核さえあれば」・・・俺たちはアジアの盟主になって肩で風切って歩けるのに・・・とか馬鹿な事を考えているようにしか見えない。

 政治的な自立すら出来ない(アメリカの言いなり)癖に何言ってんだと思う。まるで補助輪付きで自転車に乗っている子供が大型バイクを買ってとねだるようなものだ。自分の頭で物事を考えられない連中に武器など渡せるはずもないし他所へ出すなどもっての外だ。
(私はたとえ国連配下だとしても自衛隊は海外出すべきでないと思う。独立した意志(政府)を持たない国家が軍を出すべきではないと思う)

 政治的な自立が出来ないような政府が軍を海外に出せるようにすれば、アメリカの下働きで自国の若者を無駄死にさせたり。一部の利権につられて国民を危険にしたり、ひいては国際関係を悪化させるような結果になるのが目に見えている。

 ちなみ書き忘れていたが、日本の最も大きな嘘の一つが日本は独立国家ではなく実質はアメリカの占領地(とある人の意見では自治を許された占領地)であるという事だ。日米地位協定や沖縄で起こっている問題を見ればあきらかだ。
 アメリは日本領土で米軍を好き勝手に動かせる。日本政府や住人の意思を無視してもだ。もしも日本に本来の民族的な右翼があれば憤慨してしかるべきだろう。(例えばフランスのルペンみたない)

 だがこれも嘘を塗り固めて認めない(こんな屈辱を認めたくない)から話がかみ合わない。ここを議論しないので左翼だ右翼だと話がメチャクチャになる。まともに考えたら右でも左でも普通は自立したいと思うはずだ。
 ただし世襲で続いていた日本の政治屋にすれば今まで通りが楽でいいとなるし、アメリカは権力の源だからこの錦の御旗を無くしたくないと思う官僚や組織も多いのだろう・・・だんだんきりが無くなってきたのでこの辺りで終わる、


 色々と書いたいけど、私はそれでもやはり「ひとつひとつの嘘を丹念に解きほぐしていく」以外に先へ進む方法は無いんじゃないかと思う。例えそれが何十年、あるいは何百年かかるとしても。


<参考リンク>
衆院選2017

揺れる日の丸、かき消される「アベやめろ」 首相の「アキバ演説」で見えたもの

総選挙では争点にならなかった「憲法改正問題」の論点整理--フォーサイト編集部

2017年8月5日土曜日

リアリティを喪失した社会 ~成熟しない永遠のロリコン文化~

「日本に住んでいると、いったい何がリアルなのかよく解らない」最近よくこういった事を感じる。

 例えば日本における貧困者はそれなりに深刻だと考えているが、かといって普段街を歩いていて明らかに貧しいと分かるような人を見かける事は少ない。表通りを歩いているだけならホームレスすら見かける事は稀だし、それなりにみんな小ぎれいな格好はしている。もう少し注意深く見れば格安品を身に着けている人が大いとか見えてくるかもしれないが、ぱっと見た目ではあまり解らない。では本当に日本は豊かで貧困問題はないのかと言えば、もちろんそんな事はない。貧困問題は確かにあるし困っている人もいる。ただそれらがひじょうに見えにくくなっている。

 もしも私がテレビでずっとバラエティ番組だけを見ていたとしたら、おそらく貧困問題が日本にあるなんて夢にも思わないだろう。問題が実在しても、それを知る人がいなければ認識すらされない。だが認識されなかったとしても、問題そのものが消えて無くなるわけではない。

 最初に述べたリアルがよく解らないというのは、本来あるべきはずの問題が隠されているという感覚だ。しばらく前に「“日本すごい!”系バラエティ批判」という話題があったが、最近はメディアの偏りが酷くなってきて、徐々に現実感が無くなっていくように感じる事がある。うまく説明しずらいテーマなのだが今回はこの件について書いてみる。


1)誤りを受け入れない文化
 そう言えばずっと昔(おそらく80年代ぐらい)に友達が話した事がある。
「日本では死が表にでてこない。例えばアジアの街では道端に死体が転がっているが珍しくない場所もあるのに、日本では猫の死骸ですらすぐにかたずけて無かった事になる」つまりは、汚れ(穢れ)をすぐに隠そうとすることに異常なくらいに潔癖なのではないかという話題だった。
 あの時に友人と話したのは「死」というテーマだったが、今にして思うと『この異常なまでの潔癖さ』は習性といえるぐらい至る所にあるような気がする。

 例えば仕事上で課題が発生したときに現れる。何か問題があった場合、私の基本的なスタンスは『どこにだって課題はあるしあるのはしょうがないのだから、なるべくオープンにして早めに議論をするべき』というものだ。だがそうではなく『いやあそれはちょっとまずいから』あるいは『タイミングを考えて』とか言って、課題を隠すか後回しにしようとする人も多い。
 私にはこれは担当者個人の問題というよりも、そもそも日本には物事を隠そうとする(誤りが存在しなかったかのように振舞う)習慣というものがあるように思う。つまりはあって当たり前の問題を受け入れず、むしろ問題があれば直ちにそれで誰かを糾弾しようとするような行動だ。

 例えばイジメの問題で学校側の隠ぺいが暴露されて批判されるケースがよくある。これはおそらくイジメを公開して対処しようとしても、すぐに責任論になって肝心の対策の話がまともに出来ない事が多いからだろう。あるいは逆に何か改善案を出そうとすると言い出しっぺに押し付けようとするので、誰も言い出さないという事もよくある。
 これらは全て極めて幼稚な行為でまともな教養人からすると馬鹿げているのだろうが、わりと日本では普通にある。それどころか「誤りを認めない(受け入れられない)」だけではなく、「誤りがあってはならない(異様な潔癖さ)」という発展形だって珍しくはない。

 例えばここ数年の話だが、大手メーカーで古いソフトウェアの刷新検討で打ち合わせをした際に、IT部門のマネージャーから「うちはアジャイル開発的なものを認めず、ウォータフォール開発手法一本でやります」と言われてあっけにとられた事がある。
 少し解説すると「ウォーターフォール開発」とは最初に完璧な設計書をつくってあとはそれにしたがってプログラムを作るという考え方で1980年代はこれがメインだった。だがこの方法が成功するには『最初に完璧な設計書が作れる』というのが成り立つことが前提で、それゆえに複雑なシステムや多様な変化を受け入れざるを得ないソフトウェア開発には向かない。
 この為に最近の複雑なシステム開発では一気に完成品を設計するのではなくて、ラフスケッチのような設計+プログラムを作って事前に評価して再設計するなどの色々な工夫が行われるようになった。
 なので大手メーカーのマネージャーが旧式の開発方針(誤りゼロの設計ができる前提)が当たり前で、それしか認めないというのを聞いて私はとても驚いたし、同時にがっかりもした。
(大手メーカーですらこれだから日本がソフトウェア後進国になるんだよと心の中で思った)
 しかもこれが無学とか無教養な人が言うのではなく、高度な教育をされた人間が言うところに日本の特殊性があるような気がする。ひょっとすると高学歴の方が顕著かもしれない。
 誤りを減らそうとするのは美徳だが、誤りが存在しなかったかのように隠すのは悪徳(もはや病)である。

 この病はなかなかにやっかいで物事が上り調子の時には問題は見えてこないが、いったん落ち目になると歯止めが効かなくなるのでどうしようも無くなる。そもそも落ち目になってから復活するには問題に対処するしかないが、その前提としていま現実に起こっている問題をまず受け入れなければならない。なので問題の存在すら拒否(逃避)しているようではそもそも解決しようがないし、むしろ逆に妄想でさらに現実を覆い隠してゆく事になる。いわゆる「クロをシロ」と言いくるめる事だが、いったんこれを始めるたら嘘が破綻しないようにどんどんと拡張していっていずれわけが解らなくなる。


2)リアリティの喪失
 海外の事に詳しくないので比較はできないのだけども、それでも私は最近の日本社会はちょっと異常なのではないかと思う。嘘と虚構が蔓延しすぎてもはや何が現実なのかよく解らない。そしてその虚構の代表が安倍政権である。加計学園の問題は致命的な汚職問題だし、経済政策は外交政策などについても問題が多い。というかもはや問題を語る事につかれて、誰か評価する部分を教えて欲しいと思うぐらいだ。しかしこの歴代最悪ともいえる政権が長期政権であるというのがまさに日本がまともでない証だと考える。(いずれ歴史がどうしようもない結果を示すだろうが・・・)

 だが何よりも問題なのは政権ではなく、これだけデタラメ行動が正しくメディアで伝えられない事だ。それどころか大部分の主要メディアは忖度して、この政権を支えてすらきた。このためにテレビで伝えられる日本のニュースはあたかも、別世界の物語でも聞かされるかのようにリアリティがない。
 実のところ私はこのメディアを見るのに耐えられなくなって、ほとんどテレビを見なくなった。新聞すらあまり見なくなった。もちろんネットを通じて色々と意見や記事をみるので世間から隔絶されているわけではない。ただし結果として世間一般の世論とはだいぶかけ離れた視点や感覚で世の中を見ていると思う。
 これは自分でも過剰なメディア不信だと思う。だがある意味では合理的だ。スポンサーや政府に忖度して当たり障りのないニュースだけしか流さないメディアにはそもそも情報ソースとしての価値がない。例えばどうでもいいゴシップは幾らでも載せるが、重要な政策や危機については書かない新聞があったとする・・・そんな物を読んだところで何の役にも立ちはしない。
むしろ判断を誤らせる害となるだろう。しかしその結果、昔同様にテレビやニュースを見ている人たちとの現実認識でかなり差異が出ているようだ。

 それを実感したのは、この前に友達とオリンピックの話していた時だった。実のところ私自身は東京オリンピックはその始めの経緯からして問題が多く、オリンピックの名のもとに数々のデタラメや横暴が行われるのを見るに堪えなくて今でも中止して欲しいと思っている。だが友達はそんなオリンピックの負の側面などは考えた事がなくて、オリンピックで話題になるのは、見に行くかどうかとか、せっかくだから何かボランティアでもしようかという話ばかりだった。
 これは本当に分かり易くもの凄いギャップだった。とても同じ国に住んでいる人間同士と思えないぐらいだ。でもこれは今の時代では珍しい事では無く、当たり前のことなのだろう。どっちが正しいかよりも、それぐらいに情報が混線していて各自の考え方が分断されているという事にあらためて驚く。まるでパラレルワールドだ。そして次の疑問が頭をよぎる。

「誰が本当の事を言っているのか、あるいはどこを探せば正しい情報が手にはいるのか?」

 もう既にネットでさえもフェイクが至る所に溢れすぎていて訳が解らない。そう言えば誰かが製品の評価を知ろうとネットで検索したら、出てくるのはほとんど製品の宣伝記事ばかりでうんざりしたという話題があった。広告にカウンター記事、さらに攪乱を意図したフェイク、誤解で誤った情報をたれ流す人まで・・・あまりに情報が多すぎて、普通の人のまっとうな意見を探そうとするのは難しい。
 フェイクと言えば、この前にネットで日本が太平洋戦争で敗北した事を知らない学生がいるという話を聞いたが、それもあり得ない話ではないと思う。

 フェイク記事の問題は他国でもあるが日本の場合はなんだか「フェイクをフェイクと知りつつ受け入れてる」というような本音と建て前文化的な屈折もありそうで、もうちょっと歪だと思う。結果としては知識人までがフェイクを持ち上げたり流したりしている ~ さらにはそれが日常化していつしか「ミイラ取りがミイラになる」ような事が現実に起こっている気がする。つまりは「狂人のふりをしているうちに本当に狂人になった人達」が多いのではないかという疑念だ。

 そうでなければいくら右傾化したとしても、いま進めている自民党の憲法改正案のようなあまりに酷い野蛮な議論などは、まともな人間ではありえないと思う。彼らの人権を制約しようとか民主主義そのものを憎んでいるかのような発言は野蛮としか言いようがない。だがそんな意見が与党内で大した反論もなく進められているのが現実だ。まともな良識があれば共謀罪などのような国家的な汚点になるような法案を通すなどは本来ありえない。

 彼ら与党政治家の無責任さと幼稚さ、それに恥知らずさは度を越している。だがそれ以上に問題なのはやはりメディアだ。主要メディアの大部分は法案が通るまでは問題点についてあまり言及せず、法案が通ってからアリバイづくりのように問題点を報じ始めた。こんな変な国はさすがに他ではないんじゃないかと思う。


3)成熟しない文化
 リアリティの喪失は日本固有ではないが、それでも日本は一線を超えていてなんからの文化的な崩壊現象を引き起こすのではなないかと思う事がある。それぐらいにもの凄くアンバランスで嘘と現実が混在している。それを実感したのが最近話題となっている北朝鮮の核危機だ。
 北朝鮮問題で各国間に緊張が高まるなか、日本政府の対応はなんだかよく解らないチグハグなものだった。おそらく世界的に見れば浮いていたのだろうし、国内からすると酔っ払いが威勢のいいことを言うぐらいにいい加減なものだった。

 まず戦争発生を警戒して近隣の中国・韓国が慎重な対応を訴えるなか安倍総理だけが強硬な意見をだしていた。普通ならば韓国などと同様に、トランプ政権がアメリカ本土攻撃ができない今のうちにと強硬手段をとっていきなり北朝鮮を攻撃~反撃で自国の都市に大打撃~みたいな事を懸念するはずなのに、まるで安倍総理はトランプ大統領と同じ立場かむしろそれ以上に強硬な態度を見せていたように思う。(思わず、アメリカと日本じゃ危機の意味も立場も違うだろうと突っ込みたくなるぐらいに)

 さらに総理の危機対策やってます感をだす為の行動もよく解らないものだった。重要施設もなく最もミサイルが飛んでこないような地方の農村でミサイル避難訓練をやらせた。(都市での対策というのは聞いた事がないのに)かと思えばそうやって危機感をあおったうえで花見や外遊をしているという矛盾に満ちたものだった。
 真面目に攻撃に備えるならば、狙われる危険の無い地方での避難訓練などやらずにもっとすべきことがあるはずだ。例えば原子力施設破壊に備えて近隣にヨウ素剤を配布しておくとかなど。だがそういったたぐいの話題すら聞いた事が無い。

 でもこれに変じゃないかという壮大な突っ込みが無いところが日本人のおかしなところである。関連して思いだしたのが、前にフジロックフェスティバルにSEALDsが出た時に、音楽に政治を持ち込むなという声が多数あった件だ。だがこれは本来おかしな話だ。音楽に関わらず芸術などで何かをありのままに表現しようとすれば、そこで政治だけを避けて通るなどという事は本来できるはずがない。表現するテーマによっては政治、宗教、戦争、差別や貧困だのという諸々に向き合わなければならない事がある。なのにそれを避けてとか、それを入れないでとか言う事はおかしい。そもそもそのような反論は本来はとても恥ずかしい事なのだ。何故ならばそういうのは、あたかも自分は難しい事は解らないお子様だからと宣言するようなものだからだ。
 だがそれすら解らない程に日本の音楽カルチャーというのは未成熟なのだろう。新聞やテレビと同様に当たり障りのない口当たりの良いテーマばかりを選んでいる。またAKBなどのアイドルビジネスなどはもはや音楽などは二の次になっている。これでは文化として成熟しようがない。

 成熟のしない文化、それは言い換えれば永遠のロリコン文化なのかもしれない。もう私が物心ついた頃から、日本は当たり障りの無さを貴ぶみたいな国だった。例えば政治と宗教の話はタブーでかなり親しい間でもあまり話をしない。そんな風に議論をさけ成熟をさける社会のせいか文化や表現が古典を除いてどんどんと薄っぺらくなるような気がする。誰もがぶつかる深遠なテーマをずっとさけ続けていけば、作る物は必然的に子供向けにならざるを得ない。

 そう考えれば戦後の日本そのものがある意味では箱庭であり、子供が成長せずに永遠に素直である事を願って作られた社会なのかもしれない。ゆえに深遠なテーマを避け、ただ子供のように当たり障りのない遊びだけをしつづけている。

<参考資料>
東京は世界有数の安全都市→五輪「共謀罪」ないと開けぬ 首相の招致演説「ファクトチェック」

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